第52話 相棒の意地と、折れないバカ犬
セッションを終え、俺と奏がコントロールルームへ戻ると、そこには重苦しい沈黙が落ちていた。
(……陽向)
翔太は壁に背中を預け、うつむいたまま拳を固く握りしめていた。
奏の歌唱力が、自分よりはるかに高いこと。
そして、初めて音を合わせた俺と奏が、プロのスタッフさえ驚くほどの技術的な完成度を叩き出したこと。
ボーカルを本気で目指している翔太だからこそ、その差を誰より正確に理解してしまったのだろう。
そんな沈黙を破ったのは、無邪気でいながら、音楽に対して一切の容赦がない奏だった。
「ねえ」
奏は、うつむく翔太の前にツカツカと歩み寄り、首を傾げた。
「あなたが、彼のバンドのボーカルなのよね。……文化祭の動画、見たわ」
「……ああ」
「本番では喉を痛めて、メインを歌えなかった挙句、最後のコーラスも、彼にギターの音を抑えて支えてもらっていた……違う?」
「……」
「今のあなたでは、彼の演奏技術についていけていない」
奏は相手を傷つけようとしているわけではなかった。
ただ、自分が音から読み取ったことを、相手の気持ちも考えず、そのまま口にしている。
「彼はあなたに合わせるために出せる音を抑えてる。私となら、もっと対等に音をぶつけ合えるわ」
最後の一言は、事実ではなく、奏自身がそう信じ切っているだけだが、今の翔太にとって反論しづらい言葉であることに変わりはなかった。
「……ちょっと。技術の話と、誰が影山くんの相棒かは別でしょう」
澪が低い声で口を挟む。
雪乃も、奏を冷ややかに見据えていた。
俺も翔太をかばおうと一歩前へ出る。
だが、それより先に。
「……いいんだ、影山」
翔太は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、文化祭直前に喉を潰した時のような『絶望』や『諦め』の色は、微塵もなかった。
代わりに燃えていたのは、負けを認めた上で決して退こうとしない、ギラギラとした『闘志』だった。
「俺が不甲斐ないせいで、影山に気を遣わせて、あいつの音を制限させてたのは事実だ。……今の俺の技術じゃ、絶対にお前に勝てねえ」
「だったら――」
「でもな……」
翔太は奏の言葉を遮り、不敵に笑った。
「技術だけじゃ測れねえ音があるって、俺は知ってる」
「……何よ、それ」
「影山のギターには、綺麗に整った音だけじゃない。泥臭くて、痛くて、それでも前へ出たくなるような熱がある」
翔太はまっすぐ俺を見た。
「その音を一番引き出せるボーカルは、俺だって信じてる」
「音楽は、信じるだけで上手くなるものじゃないわ」
「分かってるよ。だから今から証明するんだろうが」
その真っ直ぐで力強い宣言に、奏が「え?」と目を丸くする。
「一曲だけ、俺と影山でやらせてくれ!」
「陽向……お前」
「俺は、お前の隣を絶対に譲らねえ。俺の歌で、お前のギターが一番輝くってこと、ここで証明してやる!」
その熱量に押され、佐々木マネージャーが「……いいだろう。一曲だけなら」と許可を出した。
俺は、自然と口角が上がるのを止められなかった。
ああ、こいつはやっぱり最高のボーカルだ。
俺は再びストラトキャスターを抱え、翔太と共にブースへと入った。
――そして、翔太とのセッションが始まった。
最初の数小節だけで、奏との違いは明らかだった。
翔太のピッチは完璧ではない。息の使い方も、声の制御も、奏には遠く及ばない。
けれど、こいつは俺の予想どおりには歌わない。
こちらが音を引けば、隙間へ飛び込むように声を張る。
少し荒いフレーズを投げれば、それ以上にむき出しの感情をぶつけ返してくる。
(そうだ。もっと前へ来い)
奏との演奏では、互いが最適な答えを出し続けた。
だが、翔太との演奏には、正解などなかった。
危うく崩れそうになりながら、そのたびに相手の音をつかみ、二人で強引に前へ進んでいく。
粗く、危なっかしい綱渡り。
それでも、俺の指はさっきよりずっと自由に、熱を持って弦の上を走っていた。
(……これだ)
理由をすべて言葉にできる訳ではない。
けれど、奏との完璧な演奏で感じた空虚な空白が、今はなかった。
翔太の声へ音を返すたび、胸の奥から新しい熱が湧き上がってくる。
この感覚だけは、間違いなく本物だった。
演奏を終えてブースを出ると、エンジニアたちが腕を組みながらヒソヒソと話し合っていた。
「録音物として仕上げるなら、さっきの組み合わせだな。精度が違う」
「ああ。ただ……こっちはギターのフレーズがずいぶん大胆になった」
「ライブで聴いたら、印象が変わるかもしれないな」
奏との演奏が上だったとも、翔太との演奏が勝ったとも言わない。
ただ、二つがまったく違う音楽であることだけは、プロの耳にもはっきり届いていた。
プロの評価を聞いて、奏は少しだけ悔しそうに唇を尖らせた。
「何よ、それ。熱いとか格好いいとか、そんな曖昧な言葉で技術差が消えるわけじゃない」
「消すつもりなんかねえよ。差があるなら、俺が埋める」
「簡単に言わないで」
「簡単じゃねえから、燃えるんだろうが」
完全な勝利などではなかった。だが、翔太は決して折れず、俺の相棒としての『意地』をこのスタジオに刻み込んだのだ。
***
レコーディングスタジオからの帰り道。
翔太は珍しく無言だった。
時折、喉の具合を確かめるように小さく声を鳴らし、難しい顔で自分の胸元を押さえている。
さっきは意地を見せた。
けれど、奏との間にある技術差が消えたわけではない。翔太自身が、そのことを誰より分かっているのだろう。
「なあ影山! 俺、帰ったらボイトレ教室探すわ!」
「ボイトレ?」
「ああ。気合だけで喉潰すのは、もうこりごりだからな」
翔太は自分の喉へ手を当て、不敵に笑った。
「あいつに追いつくなら、根性だけじゃ足りねえ。基礎から全部やり直してやるよ」
そう言って、駅へ向かって走り出す。
私――結城澪はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
(……本当に、少しは学習したみたいね)
文化祭の時のようにすぐに絶望して諦めるのではなく、悔しさをバネにして食らいつこうとするその姿は、少しだけ見直してあげなくもない。
「ちょっと、待ちなさいよ」
私は小走りで翔太を追いかけ、彼の背中に声をかけた。
「ん? なんだよ澪」
「はい、これ」
私は、バッグから取り出した小袋を、翔太の胸にポンと投げ渡した。
「おっ? なんだこれ……『プロ愛用・高級はちみつ喉飴』?」
「あんた、文化祭の時みたいにまた無理して喉を壊して、影山くんの足を引っ張ったら承知しないからね。せいぜい、しっかりケアしながら特訓しなさい」
私がツンと顔を背けて言い放つと、翔太は目を丸くした後、パァッと満面の笑みを浮かべた。
「おっ、気が利くじゃん澪! サンキュー! やっぱお前、最高の男友達だわ!」
「……そう」
私は笑顔を浮かべた。
「喉のケアは必要だけど、もう少しだけ発声練習が必要みたいね」
「え?」
「まずは『結城澪は女の子です』を百回、腹から発声しなさい」
「いや、さすがに女子なのは知ってるって!」
「知っててその発言なら、なおさら救いがないわね」
私は死んだ魚の目でそう吐き捨て、「なんなんだよ、あいつ」と首をかしげている翔太を置き去りにして、影山くんと雪乃の元へ戻った。
男友達、ね。
どこまでもデリカシーがなく、人の気遣いを一ミリも察しない単細胞。
でもまあ、あの折れない心だけは、合格点をあげてもいいかもしれない。
問題は、むしろもう一人の方だ。
雪乃は影山くんの隣を歩きながら、いつもどおり彼の腕に寄り添っている。
けれど、その横顔は妙に静かだった。
プロの音響設備。
事務所から評価される影山くんの才能。
そして、技術的には恐ろしいほど彼と噛み合う天才ボーカル。
それらを目の当たりにして、あの限界オタクが何も考えていないはずがない。
(……また、自分を影山くんの足枷だとか思ってないでしょうね)
そんな嫌な予感を裏付けるように、雪乃の背中が、いつもよりほんの少しだけ小さく見えた気がした。




