第51話 圧倒的なプロの音
週末。
俺たち四人は、都内にある大手音楽事務所のレコーディングスタジオを訪れていた。
「うおおおっ……! すっげえ! これ全部プロが使ってる本物の機材じゃん!」
スタジオに足を踏み入れるなり、翔太が目を輝かせてはしゃぎ回る。
「ちょっと翔太、恥ずかしいからあんまりキョロキョロしないでよ」
澪が呆れたようにため息をつくが、その目も最新鋭のミキシングコンソールや防音ブースの設備に驚いているのがわかった。
「ふん。設備はさすがに、いっちょ前ね。……でも、肝心なのは音でしょう」
俺の隣では、雪乃が腕を組み、完璧な『氷の女王』の顔で厳しい視線を巡らせていた。
もっとも、その視線はミキシングコンソールよりも、ブース内に並んだマイクへ注がれており、おそらく頭の中では、俺の演奏を録るのにどのマイクがふさわしいか、限界オタクなりの品評会でも始まっているのだろう。
「よく来てくれたね。歓迎するよ」
担当マネージャーの佐々木さんが、穏やかな笑顔で出迎えてくれた。
そして、その後ろから、トテトテと小柄な影が姿を現す。
「来たのね、影山湊。……いいえ、Kanato」
星乃奏だ。今日はもちろん迷子になっておらず、自分のホームグラウンドであるスタジオの中で、自信に満ちた――純粋に音楽を渇望する瞳で俺を見据えていた。
「さっそくだけど、影山くん。一度ブースに入って、奏と合わせてみてくれないか」
佐々木さんに促され、俺は愛用のストラトキャスターを抱えて防音ブースへと入った。
ガラス越しに、コントロールルームにいる雪乃、翔太、澪、そしてプロのエンジニアたちが見える。
俺と奏は、ヘッドホンをつけ、お互いの音を確かめるために既存の有名なロックバラードを合わせることになった。
「いくよ」
奏がマイクの前に立ち、静かに息を吸い込む。
俺がイントロを弾き、最初の一音が彼女の唇からこぼれた。
――その瞬間、ブース内の空気が一変した。
(……っ!)
奏がつむぎ出した第一声。
それは、高校生離れした圧倒的な声量と、狂気的なまでのピッチの正確さを誇っていた。
小さく囁くような声にも芯があり、声量を上げても決して音が荒れない。息を混ぜる量も、ビブラートの深さも、歌詞の一語ごとに自在に変えていく。
しかも、それが技巧を見せつけているようには聞こえない。
緻密に制御された声が、まるで今この瞬間に初めて生まれた感情のように、真っ直ぐ胸へ届いてくる。
(これが、プロの育成枠の実力……)
俺は、瞬時にギターの弾き方を切り替えた。
いつものように相手を支えるだけでは足りない。
奏が息を吸うわずかな気配を拾い、声を前へ出したい場所では音数を削り、感情を爆発させるサビでは、歌声の背後から押し上げるように音圧を重ねた。
こちらが一つ仕掛ければ、奏は即座に意図を読み取り、さらに上の表現を返してくる。
初めて合わせるはずなのに、互いが次に何をするのかが、手に取るように分かった。
ガラスの向こうのコントロールルームでは、プロのエンジニアたちが目を見開いていた。
「なんだあの高校生……。初見で、奏のテンポとニュアンスに完璧に合わせてるぞ」
「……本当に初対面なのか?」
佐々木さんも腕を組んだまま、さっきまでとは違う真剣な目で俺たちの演奏を追っていた。
俺と奏の音は、初めて合わせたとは思えないほど滑らかに重なっていった。
ミスも、迷いもない。
技術だけを見れば、今までに経験したことのない完成度の高い演奏。
――しかし。
ギターを弾きながら、俺の胸の奥には、奇妙な『違和感』が冷たい水のように広がっていた。
(……なんだ、これ)
音は、完璧に噛み合っている。
それなのに、文化祭のステージで翔太と一緒に演奏した時のような、胸の内側を焼く衝動が湧いてこない。
奏は、俺がどんな音を渡しても完璧に受け止める。
こちらが支えなければ崩れるわけでもない。強く押せば前へ出て、引けばその隙間を自分の声だけで埋めてしまう。
だから、演奏しやすい。
驚くほど、気持ちよく弾ける。
それなのに――なぜか、心だけが置いていかれている。
(完璧なはずなのに……)
何かを確かめるように、二度目のサビで俺はほんの少しだけ音を荒らした。
原曲のきれいな流れを壊すような、ざらついた一音。
翔太なら、その音へ食らいつくように声を張る。
だが奏は違った。
俺が投げ込んだ歪みを一瞬で取り込み、何事もなかったかのように、美しい旋律の一部へ変えてしまった。
(……奏の歌は、すでに『一人で完成』している……)
俺がどんな音を出そうと、彼女は揺るがない。
逆に言えば、俺がこいつの背中を押してやる必要をまるで感じないのだ。
翔太と弾いている時に感じる泥臭くて熱い衝動――。
自己満足かも知れないが、俺自身が誰かを支えているという『充足感』を、ここでは全く感じることができないまま、空虚な音だけが鳴り続けていた。
最後の一音が、静かに消えていく。
ガラスの向こうで、翔太が呆然と立ち尽くしているのが見えた。
いつもの明るい笑顔は消えている。
拳を固く握り、悔しさを噛み殺すように俺と奏を見つめていた。
ボーカルを本気で目指し始めた今の翔太だからこそ、分かってしまったのだろう。
奏の歌唱力がどれほど高く、俺との演奏がどれほど技術的に噛み合っていたのかを。
そして、その隣。
雪乃もまた、信じられないものを見るような目で、俺と奏を見つめていた。
その表情はいつものように冷静に見えた。
けれど、胸の前で組んだ腕の指先が、服の袖を強くつかんでいる。
ふと目が合った瞬間、雪乃は何でもないように小さく微笑んだ。
その笑顔があまりにも完璧だったからこそ、俺の胸に嫌な引っかかりが残った。
「……すごい」
ヘッドホンを外した奏が、呆然としたように俺を見ていた。
想像を超えた音に、ただ純粋に心を奪われた顔だった。
「私が歌う前に欲しいと思った音を、全部出してくれた」
やがて奏は、年相応の無邪気な笑顔を浮かべる。
「やっぱり、私にはあなたが必要。私と組めば、絶対にもっと上へ行ける」
「……どうも」
俺は短く答え、ストラトキャスターから手を離した。
確かに技術だけを見れば、非の打ち所のないセッションだった。
この環境で奏と音を重ね続ければ、今まで知らなかった場所へ行ける。
そんな予感さえあった。
――それでも。
愛用のストラトキャスターを抱えた俺の胸には、演奏を終えた高揚感とは別の、名前のつかない空白が残っていた。
ガラスの向こうで、翔太が真っ直ぐにこちらを見ている。
俺の耳の奥には、文化祭で聞いた、あいつの掠れたコーラスが蘇っていた。
完璧ではなかった。
けれど、あの瞬間、確かに俺の心を燃やした声。
(……何が違うんだ)
はっきりした答えは分からない。
ただ、奏との完璧な音よりも、翔太と鳴らした不格好な一音の方が、いつまでも胸の奥に残り続けていた。




