第50話 事務所の育成枠と招待状
「その奏が、文化祭の動画を見てから、君のギターと一度合わせてみたいと言い続けていたんです」
大手事務所のマネージャーである佐々木さんの言葉に、俺は戸惑いを隠せなかった。
プロの育成枠にいる才能あるボーカルが、俺のギターを求めている。
あまりに急な話で頭が追いつかない俺たちに、佐々木さんは申し訳なさそうに頭を下げた。
「誤解のないように説明しておくと、学校には事前に面会を申し込み、許可もいただいています。ただ、奏が約束の時間まで待ちきれず、来客用の待合スペースから勝手に抜け出してしまいまして」
「あっ……そうだったんですか」
その説明を聞いて、俺の隣で『警察を呼ぶ』と息巻いていた雪乃が、振り上げた拳の行き場をなくしたように肩の力を抜いた。
どうやら本当に不法侵入というわけではなく、正式なアポがあったらしい。俺も少しだけホッと胸を撫で下ろした。
「影山くん。順序が後先になって本当に申し訳ない。もし迷惑でなければ、君の演奏を一度、うちのスタジオで聴かせてもらえないだろうか」
佐々木さんが、真剣な眼差しで俺を見る。
「今週末にでも、奏と一曲だけ音を合わせてみてほしい。もちろん、現時点で契約や所属を求めるつもりはありません。まずは二人の音に、本当に相性があるのかを確かめたいんです」
プロのスタジオへの招待。
少し前の俺なら、それがどれほど特別なことなのかさえ、実感できなかったかもしれない。
けれど今は違う。
隣には雪乃がいて、翔太や澪とはバンドを続けている。俺の音を待ってくれる人たちがいる。
だからこそ、知らない世界へ踏み出すことよりも、今ある時間を守りたいと思った。
「……ありがたい話ですけど、今回は遠慮します」
俺はゆっくり首を横に振った。
「俺、プロを目指してるわけじゃないんです。今は、仲間とバンドをやって、雪乃と配信を続けられれば、それで十分なので」
それが偽らざる本音だった。
「どうして?」
俺の言葉に反応したのは、佐々木さんではなく、星乃奏だった。
彼女は不思議そうに小首を傾げ、俺の目をじっと見つめてくる。
「あなたのギターは、高校の文化祭や配信の中だけで終わる音じゃない」
「……」
「せっかくの音を、今いる場所だけで満足させるなんてもったいない」
「もったいないって……俺は、今の環境が一番合ってると思ってるんだよ」
俺が少しだけ刺々しく返すと、奏はふと、何でもないことのように口を開いた。
「文化祭の動画。最後のサビ」
「えっ?」
「隣にいる彼が、コーラスへ入った瞬間。あなた、ピッキングをわざと浅くしたでしょう」
――ドクン、と。
俺の心臓が大きく跳ねた。
「彼の喉は、もう限界だった。息が続かなくて、声の芯もほとんど残っていなかった」
奏は、俺の左手を見つめながら淡々と言葉を続ける。
「そのままギターの音圧を上げたら、彼のコーラスは完全に埋もれてしまう。だから勢いを殺さないぎりぎりのところで、ピッキングのアタックだけを抑えた」
「…………」
「観客は演奏に熱狂していたから、ほとんど気づかなかったと思う。でも、私は分かった」
奏が顔を上げ、真っ直ぐに俺を見た。
「あなたのギターは、ただ自分を目立たせるための音じゃない」
その瞳に、迷いはなかった。
「限界寸前の歌声でも切り捨てず、最後まで一つの音楽として成立させるためのギターよ」
(……こいつ)
俺は、ごくりと息を飲んだ。
あの文化祭のステージ。
喉を潰しながらも、俺の隣で必死にコーラスを入れてくれた翔太。その声を少しでも客席へ届けるため、俺が咄嗟に入れた、ほんのわずかな音の調整。
演奏が終わったあとも、誰かに説明したことはない。
騒がしい客席で撮られたスマホ動画から、あの小さな変化を聞き分けるのは、並大抵のことではない。
それを奏は、音の変化だけでなく、俺が何を守ろうとしたのかまで正確に見抜いていた。
(……本当に俺のギターを聴いてる)
俺の中に、警戒心とは別の、純粋な音楽家としての『興味』が湧き上がるのを止められなかった。
「おーい! 影山、澪、雪乃ちゃん! 機材の片付け終わったぞー! って、何してんだお前ら。遅えぞ!」
その時、廊下の向こうから翔太が大声を上げながら駆けてきた。
「なんだなんだ、随分かしこまった大人がいるけど……」
少し離れた場所で成り行きを見守っていた澪が、これまでの事情を手短に説明する。
「はあ!? 影山とそいつが、プロのスタジオで合わせる!?」
翔太は一瞬、奏を警戒するように見た。
だが、すぐに好奇心が勝ったらしく、目を輝かせて俺へ詰め寄ってくる。
「マジかよ! プロのスタジオなんて、そうそう入れねえぞ! 俺も見てみたい!」
「ちょっと翔太。声が大きい」
澪は呆れたようにため息をついたが、その表情はいつになく真剣だった。
「でも、バンドの今後に関わる話なら、ベーシストとして私も見ておきたいわ。影山くんが嫌でなければ、だけど」
仲間たちの反応に、俺は少しだけ躊躇した。
「もちろん、皆さんが同行しても構いません」
佐々木さんは優しく微笑みながら頷いた。
「影山くんも、普段一緒に演奏している仲間がいた方が安心できるでしょう。それに、奏との相性だけでなく、君たちが今どんな音楽を作っているのかも、ぜひ聞かせてもらいたい」
そして俺へ向き直る。
「親御さんと学校の了承をいただけるなら、今週末に一度、見学を兼ねて遊びに来ませんか。あくまで一度限りのセッションです。もちろん無理に契約の話を進めるようなことはしません」
俺が隣に視線を向けると、そこには、腕を組み、冷ややかな瞳で奏と佐々木さんを交互に睨みつけている雪乃の姿があった。
「……当然、私も同行します」
雪乃は、俺の前に一歩出ると、凛とした声で宣言した。
「未成年を言葉巧みに丸め込んで、変な契約を結ばせようとしないか……私が責任を持って、きっちり監視しなければいけませんから」
その口調は、いかにも冷静なマネージャーそのものだったのだが……。
(もちろん泥棒猫から湊のタコ指を死守するためだけど! プロのスタジオで響く湊の生音なんて、マネージャーとして一番近くで浴びるしかないじゃない!!)
雪乃の氷の仮面の下から、そんな限界オタクの激しい熱量と独占欲がダダ漏れになっているのを感じ、俺は思わず苦笑してしまった。
奏は、俺の演奏を誰よりも細かく見ている。
翔太はプロの環境を見てみたいと目を輝かせ、澪もバンドの今後を考えている。
雪乃も、いつものように俺の隣に立っている。
一人で知らない世界へ連れていかれるのなら、迷わず断っていただろう。
けれど、こいつらと一緒なら――。
それに俺自身、奏がどんな歌を歌い、自分のギターとどんな音を作るのか、知りたくなっていた。
「……分かりました。一度だけ、見学とセッションということなら、行かせてください」
俺が頷くと、佐々木さんはホッと安堵の表情を浮かべた。
そして、星乃奏は。
「よかった。……絶対に、最高の音になる」
初めて、年相応の無邪気で、音楽への期待に満ちた柔らかい笑顔を見せた。
それは、俺たちが今まで経験したことのない、新しい世界への扉が、静かに開かれた瞬間だった。




