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第49話 空気を読まないスカウトと、氷の女王

 氷の女王の、完全なる宣戦布告。

 俺の左手を隠すように立ち、他校の少女と正面から向き合った雪乃は、まさに氷の微笑を浮かべたまま、冷ややかに問いかけた。


『――湊のギターに、どのようなご用件でしょうか?』


 穏やかな口調とは裏腹に、廊下の空気が一瞬で張り詰めたのがわかった。

 雪乃のことをよく知る、この学校の生徒なら、この『笑顔』を見ただけで震え上がり、蜘蛛の子を散らすように逃げ出しただろう。


 しかし、目の前の小柄な美少女は、その絶対零度の威圧感を前にしても、表情一つ変えることはなかった。

 彼女の目は、雪乃が発する『正妻オーラ』を意にも介さず、雪乃の背後にいる俺だけを真っ直ぐに射抜いていたのだ。


「ご用件? だから、彼と音を合わせたいの」

「……音を?」

「うん。あなたの許可が必要なら、許可して」


 悪気など微塵もない、純粋な要求だった。

 少女は一歩身を乗り出し、俺の顔を食い入るように見つめた。


「ずっと探してたの。……あなたのギターは、私に足りない最後のパーツなの」

「俺のギターが、最後のパーツ……」

「そう。動画であなたの音を聴いた時、やっと見つけたって思った」


 少女の言葉には、嘘も衒《てら》いもなかった。

 Kanatoへの恋愛感情でも、ミーハーな憧れでもない。自分の音楽を完成させるために、俺のギターがどうしても必要なのだという、ミュージシャンとしての強烈な執着。


「だから、お願い。一度だけでいいから、私と一緒に演奏して」


 彼女の切実な訴えに、俺は息を呑んだ。

 ここまで純粋に、自分の音を求められたのは初めてだったからだ。


「……光栄なお話ですが」


 俺が口を開くより早く、雪乃がスッと冷たい声で遮った。


「湊はうちの高校のバンドのサポートもありますし、急に他校の方とのセッションなんてお受けできません。……それに、名前も知らないあなたのお願いなんて、そもそも聞き入れられると思いますか?」

「あっ、そうか。ごめんなさい、私、星乃奏《ほしのかなで》です」


 そう名乗った少女は、雪乃の拒絶を全く意に介した様子もなく、「うーん」と少し考え込んでいた。


「バンドのサポートが忙しいなら、この学校のスタジオでいいよ。今からやろう」

「……は?」


 雪乃の眉がピクリと動いた。


「今からって……あなた、人の話を聞いて――」

「あ、でも彼女さんには悪いけど」


 奏は、雪乃の言葉を無邪気に遮り、とんでもないことを口にした。


「最初のセッションは、二人だけでやりたいの。……誰かに見られていると、その人の『本当の音』が分からないから」

「…………えっ」

「だから、彼女さんはスタジオの外で待っててくれる?」


 ――悪気のない、純粋なミュージシャンとしてのこだわり。


 しかし、その一言は、氷室雪乃という限界オタクが抱える最大級の『地雷』を、ものの見事に踏み抜いていたのである。


***


(…………は?)


 私――氷室雪乃の思考が、一瞬だけ完全に停止した。

 今、この小娘は何と言った?


『誰かに見られていると、本当の音が分からない?』

『彼女さんは外で待ってて?』


(こ、この小娘……。よりにもよって一番近くで湊の音を浴びてきた、宇宙一の最古参オタク、兼マネージャーである私に向かって……湊の本当の音を知らない部外者扱いしたの!?)


 私の中の理性の箍《たが》が、凄まじい音を立てて外れた。


(沈める。絶対に沈める。この小娘だけは、重りをつけて東京湾の底へ沈める)


 脳内雪乃C(ヤンデレ・瞳のハイライト消失)が、ガトリングガンを乱射して暴れ狂っている。

 今すぐこの泥棒猫の髪を掴んで窓から投げ捨ててやりたい。


 ……けれど、私は成長したのだ。

 公に恋人だと宣言した以上、湊の品位を落とすような暴力的な真似はできない。

 私は、腸《はらわた》が煮えくり返るほどの怒りを、『氷の女王』の極上の笑顔で完璧にコーティングした。


「……ええ、分かりました」

「本当? よかった! じゃあ早速――」

「ええ。まずは、あなたの『学校への不法侵入』について。先生と警察に、たっぷりと説明してもらいましょうか」


「……えっ?」


 私の言葉に、奏とかいう小娘が目を瞬かせた。


「あなた、他校の生徒ですよね? 来客用の入校証を持っているとはいえ、単独で旧校舎をうろつき、本校の生徒を連れ去ろうとする……立派な迷惑行為です。警察を呼ぶには十分すぎる理由ですよね」

「えっ? ふ、不法侵入? 私、ただ彼と音を合わせたいだけなのに……」

「言い訳は取調室でなさっては? さあ、まずは一緒に職員室へ行きましょうか。それとも、ここで通報しましょうか?」


 私は笑顔のまま、じりっ、と一歩踏み出した。

 完全に『狩る側』の目で、小娘を理屈と正義で社会的に追い詰めていく。


「ゆ、雪乃!? 顔! 笑顔がマジで怖いから! 少し落ち着けって!」


 背後で湊が慌てて私を止めようとするが、私の歩みは止まらない。この泥棒猫を警察に突き出して、二度と湊に近づけないように――。


「はい、ストーーーップ!」


 その時、突然背後から伸びてきた手が、私の肩をガッチリと掴んで引き留めた。


「落ち着け、正妻。……顔が完全に、事件を起こす人間のそれよ」


***


「ゆ、結城……! 助かった……っ」


 俺は、雪乃の肩を掴んで止めてくれた結城澪を見て、心底安堵の息を吐いた。

 澪がいなかったら、この空気を読まない天然少女は、雪乃の手によって本当に警察に突き出されていたかもしれない。


「翔太があんたら遅いって騒いでるから様子を見に来たら……随分と面白い修羅場になってるじゃない」


 澪は死んだ魚のような目で、俺と雪乃、そして奏を交互に見比べた。


「で? そっちの他校の生徒さんは、誰よ」

「だから、星乃奏。……ねえ、警察は困る。私、事務所の人に怒られちゃう」


 奏は、雪乃の威圧感にようやく事の重大さを察したのか、少しだけ涙目になって後ずさった。


「それに、私、不法侵入じゃないもん。ちゃんと事務所の人が、学校の先生と約束して……」


「奏!!」


 奏が弁明しようとした、その時だった。

 廊下の奥から慌ただしい足音が近づき、一人の男性が息を切らして駆けつけてきた。


「はぁっ、はぁっ……奏! 勝手な行動はしないでくれと言っただろう! 先生方への挨拶も、まだ済んでいないんだぞ!」

「あっ、マネージャー」


 俺たちのもとへやってきたのは、パリッとしたスーツを着こなした、三十代半ばほどの男性だった。

 彼は額の汗をハンカチで拭うと、俺たちの姿を見て表情を引き締めた。


「君たちは、この学校の生徒だね。うちの奏が何か失礼なことをしたかな?」

「ええ、とても。無断で湊の手を触ったうえ、私を部外者扱いして――」

「い、いえっ、大丈夫です! そこまで大事ではないです!」


 俺は、再び臨戦態勢へ入ろうとした雪乃を制しながら、慌てて事情を説明した。


「道に迷っていたようなので、職員室まで案内しようとしたんです。そうしたら、俺の手を見て、いきなりKanatoだって……」

「……手を見ただけで?」

「指先のタコと、手首の癖で分かった……動画と同じだったから」


 奏が当然のように答える。

 男性は一瞬だけ目を丸くしたあと、深々とため息をついた。


「なるほど。また音楽のことになると、周りが見えなくなったのか……」

「だって、やっと見つけたんだもん」

「だからといって、初対面の相手の手を勝手につかんでいい理由にはならないだろ」


 奏をきっぱりと注意してから、男性は俺たちへ向き直った。


「本当に申し訳ない。私は奏が所属している事務所で、彼女の担当マネージャーをしている佐々木と申します」


 丁寧に頭を下げると、スーツの内ポケットから名刺入れを取り出し、俺へ差し出した。


「事務所の……マネージャー?」


 受け取った名刺には、テレビやネットで何度も目にしたことのある、大手音楽事務所のロゴが印刷されていた。

 ただの他校生とのいざこざだと思っていた空気が、一瞬にして変わる。


「奏は、うちの若手発掘オーディションでグランプリを獲得し、現在は育成枠としてレッスンを受けています」

「グランプリ……?」

「えぇ。日常生活ではご覧の通り、少々危なっかしい子ですが」


 佐々木さんは疲れたように奏を見た。


「音に関する感覚だけは、事務所の人間も認めています。特に、歌を支える演奏の癖や、わずかなニュアンスを聞き分ける耳は本物です」


 そして、改めて俺へ視線を向ける。


「その奏が、文化祭の動画を見てから、君のギターと一度合わせてみたいと言い続けていたんです」

「私の歌に足りない音を、この人なら出せる」


 奏が迷いなく言い切った。


「絶対に合う。聴けば分かる」


 佐々木さんは奏の言葉に小さく頷くと、落ち着いた口調で続けた。


「彼女の言い方は多少ぶっきらぼうではありますが、君の演奏を高く評価していることだけは間違いありません」


 そう言われて、名刺を持つ手に自然と力が入った。

 つい先ほどまで、俺たちはいつもの放課後を過ごしていただけだった。

 けれど今、その日常の延長線上に、これまで遠い世界だと思っていたプロの音楽業界への扉が開こうとしていた。

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