第48話 話題の『Kanato』と、迷子の侵入者
登録者一万人記念配信での騒動から数日後。
ネット上で話題を集めた『Kanato』の正体が俺であるという事実は、文化祭ライブで身バレした学校内にとどまらず、外部の音楽関係者の間でも少しずつ噂になり始めているらしかった。
「……ねえ湊。今日のタコ指もエモくて、可愛い……ちょっと触らせて」
「おい、人前で引っ張んなって。誰か来たらどうするんだよ」
「ここ旧校舎なんだから、誰も来ないわよ。……そんなことより、専属マネージャーの特権よ」
放課後、旧校舎の機材置き場となっている教室で、氷室雪乃が俺の左腕にギュッと抱きつき、硬い指先をすりすりと堪能している。
「今日も湊のタコ指が尊い……。この指に、これまで弾いてきた曲の歴史が刻まれているのね……」
「……そんな大層なものじゃないだろ」
呆れながらも、彼女の好きにさせておく。
長い間すれ違っていた両片思いを乗り越え、登録者一万人記念配信で恋人だと公言してからというもの、俺たちは学校でもすっかり公認のバカップル扱いになっていた。
翔太や澪とのバンド練習も、今も密かに続いている。
雪乃が一番近くで俺の音を聴いてくれて、翔太がその音を受け止めて歌い、澪が呆れながらも俺たちを支えてくれる。
少し前までギターを辞めるつもりだったのが、嘘のようだった。
(……別に、プロになりたいとか、そんな大層な夢があるわけじゃない)
幸せそうに俺の指を眺めている雪乃を見下ろしながら、俺は小さく息を吐いた。
好きなギターを弾く。
その音を雪乃が誰よりも喜んでくれる。
そして、翔太の歌を後ろから支えながら、仲間たちと一緒に音楽を続けていく。
今の俺には、それだけで十分だった。
この穏やかで、少し騒がしくて、満たされた高校生活が、この先も続いてくれればいい。
俺がそんな風に、ささやかな未来を思い描いていた、その時だった。
「……えーっと、ここどこ……? うぅ……」
静かな旧校舎の廊下の先から、微かに半泣きの声が聞こえた。
見ると、見慣れない他校の制服を着た、小柄な少女がウロウロとさまよっている。
首からは『来客用』の入校証を下げているが、その手にあるスマホは、どう見ても逆さまで正しく機能しているようには見えなかった。
「迷子かな……」
俺がぽつりと呟くと、腕に抱きついていた雪乃がぴくりと反応し、見慣れない制服を着た女子へ、一瞬だけ警戒するような視線を向ける。
とはいえ、今にも泣き出しそうな顔で廊下をさまよっている姿を見て、さすがの雪乃も氷の女王ぶりを発揮する気にはなれなかったらしい。
俺の腕を離すと、何も言わず半歩後ろへ下がった。
「あの、どうかしましたか?」
驚かせないよう少し距離を空けて声をかけると、小柄な美少女はビクッと肩を跳ねさせ、涙目でこちらを振り向いた。
「あっ……えっと、職員室に行きたいんだけど……一緒に来た人とはぐれちゃって」
少女は不安そうに辺りを見回した。
「……ここ、どこ?」
「ここは旧校舎ですよ。職員室は本校舎にあるので、案内しますよ」
「ほ、本当?」
「はい。こっちです」
俺は「やれやれ」と思いながら、進む方向を示そうと左手を上げた。
――その瞬間だった。
半泣きだった少女の視線が、宙に伸ばされた俺の左手へ吸い寄せられた。
「……え?」
彼女の雰囲気が一変する。
先ほどまでの頼りない迷子の表情は跡形もなく消えていた。
代わりにそこにあったのは、獲物を見定めた肉食獣のような、鋭く研ぎ澄まされた眼差し。
少女は俺の顔ではなく、硬くなった指先を食い入るように見つめていた。
「……指先のタコ。特に人差し指と中指の外側が厚い」
「は?」
「それに、その手首」
少女の目が、俺の指先から手首へゆっくりと移っていく。
「力を抜いた時、ほんの少しだけ内側へ入る。速いフレーズを弾く直前にも、同じ癖が出てた」
まるで貴重な楽器の真贋を確かめるように、少女は俺の左手を至近距離から食い入るように見つめていた。
「動画で見た弾き方と、まったく同じ……」
そう呟いた次の瞬間。
ガシッ、と俺の左手が両手でつかまれた。
「ちょっ――」
少女は俺の戸惑いなど気にすることなく、硬くなった指先を確かめるように握りしめる。
先ほどまで涙を浮かべていた瞳は、今や別人のように輝いていた。
ずっと探し続けていた、たった一つの音へようやく手が届いた――そんな切実な光だった。
「見つけた……」
少女が顔を上げ、真っ直ぐに俺を見据える。
「あなた『Kanato』ね」
「なっ!?」
「お願い。私と一度、音を合わせて」
握る手に、さらに力がこもる。
「私には、あなたのギターが必要なの」
彼女の真っ直ぐな瞳から感じたのは、自分の中に欠けた最後の音を見つけた者のような、純粋で、身勝手で、抗いがたいほど強烈な渇望だった。
***
(…………触った?)
私――氷室雪乃の目の前で、見知らぬ他校の女子が、湊の左手を両手で握りしめていた。
あの神聖なタコ指を。私が毎日愛でて、崇拝し、この世の何よりも尊いと思っている推しの左手を。
(今、この見知らぬ泥棒猫が、なんの断りもなく、湊の手を両手で触った)
私の驚愕と同調するように、脳内雪乃C(ヤンデレ・瞳のハイライト消失)が、静かに火炎放射器のセーフティを解除する音が響いた。
(殺す。社会的に合法な方法を探してから、完膚なきまでに沈める)
ドス黒い殺意と嫉妬の炎が、胸の奥で大爆発を起こしそうになる。
かつての私なら、ここで取り乱して『私の湊に触らないで!』と余裕のない姿をさらしていたかもしれない。
――でも、私はもう以前の私ではない。
湊は私を愛している。
私がいなければ自分の音楽は完成しないと、世界中の前で証明してくれた。
その事実がある以上、突然現れた迷子の小娘を相手に、みっともなく騒ぎ立てる必要などない。
(私は、湊の『正妻』であり、世界一の『専属マネージャー』なんだから)
私は静かに息を吸い、胸の奥で暴れ回るヤンデレCちゃんを無理やり檻へ押し戻した。
そして、氷の女王にふさわしい、冷たく美しい笑顔を浮かべる。
「――ふふっ」
湊と少女の間に、スッと音もなく割り込み、少女が握っている湊の手に、そっと自分の指を添える。
「すみません。その手を離していただけますか?」
「……えっ?」
少女が目を丸くした隙に、私は湊の左手をやんわりと引き取り、自分の側へと戻した。
そのまま湊をかばう形で、少女と正面から向き合う。
「初めまして」
私は完璧な笑みを崩さないまま、丁寧に頭を下げた。
「湊の恋人兼、専属マネージャーの氷室雪乃です」
「……恋人?」
「ええ」
少女の視線が私と湊の間を往復する。
私はその目を真っ直ぐに見返した。
「湊へのスカウトでしたら、まずは私にお話しいただけますか?」
声を荒らげる必要も、威嚇する必要すらない。
湊の恋人であり、彼の音楽を誰よりも近くで支えているのは「私」。
その揺るぎない事実だけで十分だった。
「それで――」
私は微笑んだまま、わずかに目を細める。
「湊のギターに、どのようなご用件でしょうか?」
穏やかな口調とは裏腹に、旧校舎の廊下の空気が一瞬で張り詰めた。




