第43話 俺の弾きたい音
駅前の大型商業ビルに入っている、地域最大級の楽器店。
ガラス張りのショーケースの中に、何十万、何百万という高級ギターがズラリと並ぶフロアの奥に、防音設備の整った試奏コーナーがある。
「すいません、このギター、試奏させてもらえませんか」
「はい、かしこまりました。アンプに繋ぎますね」
店員に声をかけ、俺が選んだ黒いボディのギターを手渡すと、店員が手際よくアンプのセッティングをしてくれた。
振り返ると、雪乃は試奏コーナーから少し離れた、防音室の入り口付近でうつむき加減に立っていた。
「……私、ちょっと離れて聴いてるね」
雪乃は、消え入りそうな声でそう言った。
(……また、距離を置こうとしてるな)
俺は奥歯を噛み締めた。
『神聖なギター配信に女の影はいらない』
『女の気配がノイズ』
アンチたちが放った心無い言葉が、雪乃の心に呪いのように深く突き刺さっている。
――自分が隣にいると、俺の音が穢れてしまう。
――だから、離れなければいけない。
そんな理不尽な自己犠牲によって、俺の大切な彼女が距離を置こうとしている。
「雪乃」
俺はギターを抱えたまま、ツカツカと雪乃の元へ歩み寄った。
「えっ……」
俺は雪乃の手首をガシッと掴むと、少し強引に試奏コーナーの中央、俺の真正面に位置する丸椅子へと引っ張っていった。
「ちょっと、湊! 私がいちゃ、ダメなのよ! 湊の音が……っ」
「座ってろ」
俺は雪乃の両肩を押して、丸椅子に座らせた。
俺のギターの生音と、アンプからの爆音を最も強く浴びる特等席だ。
「……雪乃。お前抜きで強行した先日の配信、聞いてくれていたか?」
「う、うん」
「同じ曲を演る。お前は、ここで俺の音を聴いてろ。一歩も動くなよ」
「湊……」
俺は雪乃の不安げな瞳から目を逸らし、アンプのボリュームを少しだけ上げた。
そして、ピックを握りしめ、大きく息を吸い込む。
(証明してやる。俺の音に、お前がどれだけ必要なのかを)
俺がコードを掻き鳴らした瞬間、空気がビリビリと震えた。
弾き始めたのは、先日の配信で弾いたのと同じ、アップテンポなロックチューン。
だが、配信の時とは全く違う。
あの時は、弾いていてもただ虚無感しかなかった。
けれど今は、すぐ横に雪乃がいる。俺の音を世界で一番愛してくれている、限界オタクの彼女が。
俺の指先から、熱が爆発する。
ネットの悪意に対する怒り。雪乃への不器用な愛情。
そして、お前を絶対に離さないという、俺自身の強烈な独占欲。
それらすべての感情が、狂気を孕んだ圧倒的な音圧となって、アンプから叩き出されていく。
***
(え、えっ……! 何これ、エモすぎ……っ!)
私――氷室雪乃は、丸椅子に座ったまま、目の前で弾き狂う湊の姿に完全に釘付けになっていた。
私がいなかった時の配信の音とは、全くの別物だった。
魂を削り、聴く者の心臓を直接鷲掴みにして揺さぶるような、圧倒的で暴力的なまでの音の波。
その凄まじい熱量を至近距離で浴びて、私に染みついたオタクとしての細胞が歓喜の悲鳴を上げてしまう。
(ダメよ雪乃! 私が近くにいたら、湊の音を濁らせちゃう!)
アンチの言葉が脳裏をよぎり、私はギュッと目を閉じて耳を塞ごうとした。
――しかし。
「おい、なんだあの音……」
「やばくね? プロかよ……!」
「すげえ……音の迫力が段違いだ……っ」
ふと気がつくと、試奏コーナーの周りに、大勢の客や店員が集まってきていた。
誰もが足を止め、湊のギターに圧倒され、魅入られたように立ち尽くしている。
(……私、ノイズになんて、なっていない……?)
むしろ、私が隣にいる今の湊の音は、周りの人たちの心すらも完全に支配し、飲み込んでいた。
ギュイィィィンッ!
最後の一音が鳴り止み、余韻を残したまま残響が消えていく。
「……すげえ」
誰かがポツリと呟いたのを皮切りに、試奏コーナーを囲んでいたギャラリーから、自然発生的な拍手と歓声が湧き起こった。
(……湊)
周囲の賞賛の声など、湊の耳には届いていないようだった。
湊は、拍手するギャラリーには目もくれず。
ただ真っ直ぐに、目の前の丸椅子に座る私だけを見つめていた。
***
俺は、息を切らしながらギターを下ろした。
そして、驚きで目を見開いている雪乃に向かって、ゆっくりと口を開いた。
「……俺、一人で配信やってみて分かったんだ」
「う、うん……。聞いてたよ……」
「全然ダメだったろ。指は動いてるのに、音がすっぽ抜けてて。……お前がいないと、俺のギターはなんの熱も持たない、ただの空っぽな音が鳴るだけなんだ」
俺の言葉に、雪乃の肩がビクッと震えた。
「ネットの連中が何を言おうが関係ない。俺は……大勢のリスナーやファンにちやほやされるより、俺の隣で感極まって、涙流して喜んでくれる『お前』の心を震わせる音が弾きたいんだ」
「湊……っ」
「俺の音のルーツは雪乃だ。だから、お前がいなきゃダメなんだよ。……もう二度と『邪魔だ』なんて言って、俺の隣から逃げるな」
アンチによって雪乃が自身に課した『足枷』という呪いを、根底から叩き潰す。
俺にとって、お前はただの観客じゃない。お前なしでは、俺の音は完成しないのだと。
俺の偽らざる言葉を正面から受け止めた雪乃は、両手で顔を覆い、ボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。
「ばか……っ、湊の、ばかぁ……っ」
しゃくり上げながら、雪乃が泣きじゃくる。
「私だって……逃げたくなんか、なかったのっ……! ずっと湊の隣で、湊の音だけ聴いていたかったのにぃ……っ!」
「……ああ。わかってるよ」
俺はギターをスタンドに立てかけると、丸椅子で泣いてる雪乃の頭に、ぽん、と優しく手を乗せた。
「これからも俺が証明してやる。……お前の居場所は、ここだって」
「っ……! あぁぁっ……湊ぉぉっ……!」
雪乃は俺の腰にすがりつき、顔を押し付けて声を上げて泣いた。
周囲のギャラリーたちが「あ、あれ、もしかしてカップルの痴話喧嘩だった?」「俺たち邪魔じゃね?」と気まずそうに散っていく。
俺は、服の裾をギュッと握りしめて離さない最強の彼女の頭を、いつまでも不器用に撫で続けていた。
***
「……ふぅ。泣きすぎて目腫れちゃった」
楽器店を出た後、駅前のベンチで、雪乃はミネラルウォーターを飲みながら、少しだけ恥ずかしそうに目を擦っていた。
「だいぶスッキリした顔になったな」
「……ええ。おかげさまでね」
雪乃の瞳からは、先ほどまでの弱々しい影は完全に消え去っていた。
代わりに宿っているのは、推しである彼氏を絶対に誰にも渡さないという、最強の限界オタク特有の『極彩色の炎』だった。
「……ねえ、湊」
雪乃が、ペットボトルを両手で握りしめ、ニヤリと悪魔的な笑みを浮かべる。
「これまで散々叩いてきたアンチども。……好き勝手言わせたままにしておくつもりはないわよね?」
「当たり前だろ」
俺はスマホを取り出し、配信用のアプリを開いた。
「今日の夜、告知する。……週末に、登録者1万人記念の弾き語りリクエスト配信をやるってな」
「……ふふっ。いいわね。最高に目立つステージじゃない」
雪乃が、かつての自信を取り戻したかのように、ドヤ顔をキメた。
「カメラのセッティングも、アンチコメントの監視も、私が全部完璧にやってあげる。あんたはただ、世界一の音で、あの連中を黙らせてやりなさい」
呪いの解けた限界オタクと、覚悟を決めた陰キャギタリスト。
二人の居場所を奪おうとしたネットの悪意に対する、最高の逆襲の舞台が、今ここに整ったのだった。




