第40話 喪失の音色と、親友の限界
雪乃が「マネージャーを辞める」と言って部屋を出て行った翌日。
俺は一人で配信用のカメラのスイッチを入れた。
雪乃が設定してくれた画角はそのままに、配信を開始する。
いつもなら、カメラの死角となるベッドの上で、雪乃がオタク全開のドヤ顔でピースサインをキメているはずだった。しかし今、そこには誰もいない。
配信が始まると、予想に反して同接数は跳ね上がり、コメントが流れ始めた。
『待ってた!』
『おっ、今日は痛い彼女いないの?』
『女の声なくて清々する』
『このまま一人でヨロ』
「…………」
心無いコメントが目に入るたび、胸の奥に黒い怒りが湧き上がってくる。
俺は冷静さを装い、愛用のストラトキャスターを構えて、ギターを弾き始めた。
――でも、ダメだった。
指は正確に動いている。スコア通りに弾けてもいるはずなのに。
紡ぎだされる音に、何の熱量も乗らないのだ。
文化祭のステージで全校生徒を熱狂させたあの魂の削り合いも、復活の配信で視聴者を湧かせるほどにエモーショナルだったスライド奏法も、嘘のように色褪せていた。
ただ、鳴っているだけのスカスカな音。
耳の肥えた古参ファンたちが、すぐに違和感に気づき始める。
『なんか今日のKanato、音死んでない?』
『いつもみたいなエモさがゼロ』
『やっぱ彼女いないと調子出ないの?』
俺はギターのフレットから手を離し、深くため息を吐いて配信を強制的に終了させてしまった。
「……ダメだ」
俺はハッキリと自覚した。
俺のギターは、一番近くで俺の音を聴き、喜んでくれる『あいつ』がいないと、完成しないのだ。
***
翌日の昼休み。
朝から親友の異変に気もそぞろな私――結城澪は、中庭の人目につかないベンチに、雪乃の腕を引いて連れ出していた。
今日の雪乃は、明らかに異常だった。
朝から完璧な『氷の女王』の仮面を被り直し、影山くんと徹底的に距離を置いているのだ。影山くんが話しかけようとしても、「用事があるから」と冷たくあしらって逃げる始末。
「……で。何があったのよ」
私は、買ってきたパックの紅茶を雪乃に押し付け、単刀直入に切り出した。
「何って、何が?」
「とぼけないでよ。なんで急に影山くんを避けてんの。昨日の配信もなんか変だったよ。あんたいなかったんじゃないの?」
私の鋭い追及に雪乃は紅茶のパックを見つめたまま、微かに肩を震わせた。
「あんた、『全泥棒猫に対して正妻マウント取る!』って、あんなに意気込んでたじゃない。急にどうしちゃったの? 影山くんと喧嘩でもした?」
「……違う。喧嘩なんてしてない」
雪乃は力なく首を振り、ポツリと、消え入りそうな声で呟いた。
「……もう、辞めたのよ。マネージャーは」
「はぁ? なんでよ。なんかあった?」
私がさらに一歩踏み込むと、雪乃は震える手で自分のスマホを取り出し、画面を私に向けた。
そこには、例の配信に対する辛辣なコメントが無数に並んでいた。
『神聖なギター配信に女の影はいらない』
『どうせ女が寄生してバズらせようとしてるだけ』
『痛い彼女アピールうざい、女は消えろ』
「……これ」
私は思わず絶句した。
少し前からネットで軽く炎上気味になっていることは知っていたが、ここまで直接的で悪意のある言葉が並んでいるとは思わなかった。
「私がいちゃ、ダメなのよ」
雪乃の瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ落ちた。
「私のくだらない自己顕示欲のせいで、湊の神聖な音楽が、こんな風に汚されてる……っ」
「あんたが悪い訳じゃない!」
私はたまらず声を荒らげ、スマホを奪い取るようにして伏せた。
「ネットの連中が勝手なこと言ってるだけでしょ! あいつらはただ匿名で叩きたいだけなんだから、気にする必要なんてない!」
「でも、私が湊の邪魔をしたのは事実じゃない……っ」
雪乃は両手で顔を覆い、しゃくり上げながら首を横に振った。
「私は、ただ湊の音を一番近くで聴いていたかっただけなのに。……でも、私のせいで、みんなが湊のギターを純粋に楽しめなくなってる。これ以上推しの『足枷』にはなりたくないの……っ」
その痛切な叫びに、私は言葉を失ってしまった。
普通の女の子なら、こんな時「なんでこんなに責められなきゃいけないの」と彼氏や親友に寄りかかることができたはず。
でも、雪乃は影山くんの恋人である以上に、限界オタクだ。
自分の存在が、愛する推しである、影山くんの音楽を穢している。自分が推しの邪魔になっている。
その事実が、彼女にとって何よりも許せない罪なのだろう。
その呪いのように深く重い業を前にしては、私の「ネットの悪意なんて気にするな」という真っ当な正論など、あまりにも無力だった。
「雪乃……」
私は、泣きじゃくる親友の背中を、ただ無言でなだめることしかできなかった。
(……私じゃ、ダメだ)
親友の私では、雪乃の心を覆うオタクの呪いを解いてやることはできない。
今の彼女を救えるのは、この世でたった一人しかいない。
(……あの超絶鈍感なギタリスト。事の重大さ、理解してるんでしょうね!)
私は、涙に濡れる親友を抱きしめながら。
午後の授業が終わったら、すぐにあの男を屋上に呼び出してやろうと固く決意していた。




