第39話 限界オタクの挫折
『寄生女うざい』
『神ギターが台無し』
『演奏止まってるけど、やっぱり女か』
『ギターより彼女に夢中www』
滝のように流れるアンチコメントの濁流を前に、俺は強引に配信の終了ボタンをクリックした。
ブツッ、と画面が暗転し、パソコンのファンの音だけが虚しく響く。
「…………」
「…………」
静まり返った六畳間。
前回の配信のようなお祭り騒ぎの余韻は欠片もない。ただ、重く冷たい沈黙だけが部屋を支配していた。
俺は、恐る恐るベッドの上に座る雪乃に目を向けた。
雪乃は膝を抱え、うつむいたまま一言も発しようとしない。その細い肩が、微かに震えているのがわかった。
「……雪乃」
俺は努めて明るい声を作り、声をかけた。
「気にするなよ。ネットなんてこんなもんだろ。人が増えれば、ああやって無責任に叩きたいだけの奴やアンチが湧くのは普通のことだ。顔も見えない連中の言うことなんて、気にする必要ないからな」
俺は、傷ついた彼女を慰めるつもりで、必死に言葉を紡いだ。
「あいつら、お前が裏でマイクやカメラの調整してくれてることなんて知りもしないで、俺のギターだけ聴きたいとか勝手なことばかり言いやがって……。だから――」
「……ちがう」
ポツリと。
雪乃の震える声が、俺の言葉を遮った。
「雪乃?」
「……違うの、湊」
顔を上げた雪乃の瞳には、いつもの『氷の女王』の強さも、『限界オタク』のギラギラした輝きもなかった。
ただ、大粒の涙をいっぱいに溜めた、痛々しいほど脆く、弱々しい少女の顔がそこにあった。
***
(……相変わらず湊は優しい。でも、違うの)
私――氷室雪乃は、胸を締め付けるような絶望感の中で、ボロボロとこぼれる涙を止めることができなかった。
湊は『ネットのアンチなんて気にするな』って慰めてくれた。
普通の女の子なら、見知らぬ人たちから悪口を言われて悲しい時に、彼氏がそうやって庇ってくれたら、救われた気持ちになるのかもしれない。
でも、私は『普通の女の子』じゃない。
湊の音に命を救われ、彼のギターを世界で一番崇拝している『限界オタク』なのだ。
(……あのアンチたちが言っていること、全部正しいの……)
私の思考ベクトルは、普通の女の子のそれとは全く違っていた。
湊の神聖なギターの音色は、誰かの心を震わせ、命を救うほどの力を持つ『神様からの贈り物』。それを一番近くで大切に守るのがマネージャーの役目のはず。
それなのに私は自分の『推しの隣にいるという正妻マウント』『独占欲を満たしたい』という醜い自己顕示欲と、承認欲求の塊のような匂わせ行為のせいで、湊の純粋な音楽に、ドロドロとしたノイズを混ぜ込んでしまったのだ。
(……私のせいで、湊の神聖な音楽が汚されてる。私は、湊を支えるどころか……湊の輝きの『足枷』になっている……)
その事実に気づいてしまった瞬間、私の心は完全に折れてしまった。
大好きな推しの音を、自分自身の自己満足で汚してしまった。
オタクとして、これ以上恐ろしく、絶望的な罪はない。
(……私という雑音が、湊の音を濁らせる)
私は、ギュッと唇を噛み締め、ベッドからふらふらと立ち上がった。
***
雪乃は、うつむいたまま、フラフラとした足取りで部屋のドアへと向かった。
その背中が、あまりにも小さくて、今にも消えてしまいそうで。
俺は慌てて立ち上がった。
「お、おい雪乃! どこ行くんだよ」
ドアノブに手をかけた雪乃が、ピタリと足を止める。
そして、振り返ることなく、絞り出すような震える声で言った。
「……ごめん、湊」
「雪乃……?」
「私……これ以上、湊の邪魔をしないようにする」
その言葉は、俺の心臓を冷たい手で鷲掴みにしたように響いた。
「おい、待てよ! 邪魔なんかじゃない! お前は俺の彼女で、マネージャーで――」
「……ううん。私なんかが隣にいたら、湊のすごいギターが曇っちゃうだけ」
雪乃の肩が、ヒック、ヒックと小さく跳ねる。
彼女は、俺に顔を見せないまま、最後の言葉を落とした。
「……マネージャー、もう辞める。ごめん、湊」
ガチャリ。
重い足取りで部屋を出ていく雪乃。
俺が止める間もなく、パタン、と静かにドアが閉まった。
「…………」
一人取り残された六畳間。
俺は、閉まったドアを見つめたまま、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
ネットの悪意という、顔のない巨大な暴力。
それは、俺たちが手に入れつつあった『二人の居場所』を、あまりにもあっさりと、残酷なまでに奪い去っていった。
「……クソッ」
俺は、机のキーボードをドンッ! と強く殴りつけた。
痛みを伴って、腹の底からドス黒い怒りが湧き上がってくる。
このままでいいのか? 俺は、また逃げるのか。
文化祭の時と同じように、自分だけ安全な場所に隠れて、雪乃が傷つくのをただ見ているだけなのか。
……ふざけんな。
俺は、世界で一番俺のギターを愛してくれている、彼女の涙も拭えないほど、無力な陰キャのままなのか。
(……絶対に取り戻す)
俺は、机の隅に立てかけられた愛用のストラトキャスターを睨みつけた。
(雪乃の居場所は……俺が、俺の音で取り戻してやる……!)
影山湊が、ただ流されるだけの陰キャから、『愛する彼女を守るための男』へと反転を誓った、暗く深い谷底のような夜が静かに更けていった。




