第29話 潔い敗北と、狩人(ヒロイン)の拉致
鳴り止まない大歓声。
「Kanato!」「影山!」というアンコールを求める声が、体育館の分厚い壁を震わせる。
ステージ袖の暗がりに戻ってきた俺は、愛用のストラトキャスターを床に置き、壁に背中を預けてズルズルと座り込んだ。
「ハァッ……ハァッ……」
全身から噴き出した汗が、顎を伝って床に落ちる。
酸欠で頭がクラクラし、酷使した指先はジンジンと熱を持って痛んでいた。
だが、今の俺を襲っているのは、そんな肉体的な疲労よりも、もっと深刻で致命的なダメージだった。
(……終わった。俺の静かな高校生活もついに……)
膝を抱え、絶望のどん底で震える俺のポケットの中。スマホが、度々バイブレーションを鳴らしている。
恐る恐る画面を開いてSNSのアプリを起動すると、そこには、現実とは思えない光景が広がっていた。
『【速報】文化祭に幻の神ギタリストKanato降臨!?』
『ヤバいヤバい! あの伝説の曲を本人が弾き語りしてる!!』
『正体はまさかの機材係の陰キャ!? エモすぎるだろ!!』
トレンドの上位には『Kanato』の文字が燦然と輝き、俺が必死に歌い狂う動画が、すごい勢いで拡散されている。
大成功のライブ。全校生徒の熱狂。
しかし、その代償として、俺は『痛すぎる陰キャ』であることを世間に晒し、『社会的な死』を迎えてしまったのだ。
(……しかも、雪乃の目の前で黒歴史を全力で披露する羽目になって……。絶対に『キモい、話しかけないで』って軽蔑される……っ!)
あんな一方的で、重い歌を面と向かって聴かされたら、誰だってドン引きするに決まっているじゃないか。
「……影山」
俺が頭を抱えて一人で絶望の淵に沈んでいると、上から掠れた声が降ってきた。
顔を上げると、喉を押さえた翔太が、ペットボトルの水を片手に立っていた。
「陽向……」
「お疲れ。……最高だったぜ、お前のステージ」
翔太は、壁に寄りかかって俺の隣に腰を下ろした。
その顔には、先ほどまでの絶望や悔しさは欠片もなく。ただただ、憑き物が落ちたような、清々しい笑顔が浮かんでいた。
「……いや、俺が出たせいで、お前のステージ、壊した」
俺が自嘲気味に謝ると、翔太は「なに言ってんだ」と笑って、俺の肩を軽く殴った。
「お前が助けてくれなきゃ、俺たち出場辞退するしかなかったんだ。それに……台無しどころか、完敗だよ。お前のあの音と歌声聴かされたら、同じステージに立つ俺ですら、ただの『観客』になっちまった」
「陽向……」
「あんな、一人の女に全部捧げるような音出されたら、勝てるわけねえじゃんか」
翔太は、ふっと息を吐き出し、天井を見上げた。
「……ステージの後ろから、お前が弾いてるのを見て、ハッキリわかったよ」
「え?」
「最前列にいた、雪乃ちゃんだよ」
翔太の言葉に、俺の心臓がドクンと跳ねた。
「雪乃ちゃんの視線……最初から一秒も、俺の方なんか向いてなかった。あの子の目は、ずっとお前だけを、食い入るように見つめてた」
「っ……! それは、単に俺が訳のわからない曲を歌って、呆れてただけで……」
「違うだろ」
翔太は俺の言葉を遮り、ニヤリと笑った。
「あんな泣きそうな、愛おしそうな顔……一度も見たことねーよ。……俺のつけ入る隙なんて、1ミリもなかったってことだ」
翔太の言葉が、俺の脳内に反響する。
雪乃が、泣きそうな顔で、俺を見ていた?
呆れていたわけでも、軽蔑していたわけでもなく?
「……今日は、間違いなくお前が主役だったよ、相棒。最高のステージ、ありがとな」
翔太は立ち上がり、俺に向かって拳を突き出した。
俺は戸惑いながらも、その拳に自分の拳をコツン、と合わせた。
(ほんと、カッコいいな……)
男としての潔さと、相棒へのリスペクト。
陽向翔太という男は、最後まで最高にイカした奴だった。
「じゃあ、俺は澪と一緒に機材の片付け手伝ってくるから。お前は……ちゃんと、待ってるヤツのところに行ってやれよ」
翔太がヒラヒラと手を振って去っていった。
その直後。
カツン、カツン、カツン。
その音が近づくたびに、なぜか心臓が“逃げろ”と警鐘を鳴らした。
ステージ袖の暗がりに、硬いローファーの足音が響く。
あいかわらずシベリアの吹雪すら生ぬるい、絶対零度の冷気を纏ったオーラ。
しかし今日は、そのオーラの中に、マグマのような尋常ではない『熱』が渦巻いているのが、肌で感じられた。
「ゆ、雪乃……」
暗がりから姿を現した氷室雪乃は、いつもの『氷の女王』の無表情を保っていた。
だが、その瞳だけは違う。
獲物を完全にロックオンした肉食獣のような、あるいは、待ちに待った神の降臨に狂喜する狂信者のような、異常な熱を帯びて俺を射抜いていた。
(……殺されるっ!)
黒歴史を全世界に晒した俺を、ついに抹殺しに来たのだ。
俺が怯えて後ずさりしようとした、その瞬間。
ガシッ!!
雪乃の手が、俺のジャージの胸元を、物凄い握力で掴み上げた。
「え? ちょ、雪乃!?」
「……ちょっと面貸しなさい」
声は極限まで低く、一切の反論を許さない圧力を伴っていた。
「いや、待て! 俺はただ翔太の代わりに歌っただけで、あの歌詞には深い意味なんてなくて――」
「今すぐ来いって言ってんのよ!!」
雪乃は、俺の言い訳など一切聞く耳を持たず、驚異的な腕力で俺を引きずり始めた。
向かう先は、文化祭の喧騒から遠く離れた、旧校舎の誰もいない空き教室。
「た、助けてくれーっ!!」という俺の情けない悲鳴は、いまだ鳴り止まない歓声とざわめきにかき消され、誰にも届くことはなかった。
***
「……ふふっ」
その一部始終を、少し離れた機材置き場の陰から見守っていた私――結城澪は、思わず小さく吹き出した。
影山くんったら、完全に怯えきって。『殺される』とか思い込んでいるようね。
でも、あの雪乃の目。限界突破したオタクが、ついに推しを独り占めできるという、極彩色に輝く欲望と愛情に満ちた目だったな。
(……でも、人間関係の矢印、これでようやく正解に辿り着きそうね)
私は、ブレザーのポケットに入っていた重たい物体を取り出した。
連日にわたって繰り広げられたコントのような『地獄のすれ違い』を乗り切るために買った、特大ボトルの胃薬。
だが、もうこれの出番はないだろう。
ポイッ、と。
私はそのボトルを、近くのゴミ箱へと放り投げた。
(……さあ、たっぷりと答え合わせしてきなさい。影山くんのHPがゼロになるまでね)
私は、誰もいなくなったステージ袖で、文化祭の熱狂の余韻に浸りながらそっと微笑んだ。
いよいよ、長すぎた『両片思いのすれ違い』に、最高の終止符が打たれようとしていた。




