第26話 絶望の開演前
文化祭、最終日。
後夜祭前のメインイベントである『有志バンドステージ』を控え、体育館は生徒たちの尋常ではない熱気とざわめきに包まれていた。
ステージ袖の薄暗い待機スペースで、俺は愛用のストラトキャスターのチューニングを最終確認しながら、静かに息を吐き出した。
(いよいよ、本番か)
昨日の放課後、雪乃に確信めいた疑いをかけられ寿命が縮む思いをしたが、なんとかあの『痛い黒歴史』の作者が自分であることは誤魔化し通せたはずだ。
とにかく今日のこのステージで――それがたとえサポートギターであっても、翔太の歌声を最高に輝かせたら……俺は予定通り、誰にも知られずにギターを押し入れに封印する。
そうすれば、これ以上俺の身に危険が及ぶことはないだろう。
「……ケホッ、ゴホッ!」
ふいに、横から乾いた咳が聞こえた。
見ると、ボーカルの翔太が、今日だけで何本目かわからないペットボトルの水を一気に流し込んでいる。
その顔にはいつもの爽やかな余裕はなく、異常なほど汗をかいており、顔色も少し青白い。
「おい陽向、大丈夫か? さっきからやたら水飲んでるけど」
「ん? ああ……ケホッ。ちょっと空気が乾燥しててさ。それに、緊張で喉がカラカラなんだよ」
翔太は笑って誤魔化したものの、その声は普段よりも明らかに掠れていた。
(……昨日もあいつ、スタジオ練の後に一人でカラオケ残って、遅くまで声出ししてたみたいだしな)
俺のバッキングに負けないよう、翔太はここ数日、限界を超えて喉を酷使し続けていた。その疲労がピークに達しているのだろう。
俺は少し引っかかりを覚えたが、彼も本番前で緊張しているのだろうと自分を納得させ、視線をステージの幕の隙間へと向けた。
分厚い緞帳の隙間から、超満員の客席とその最前列に鎮座する異様な光景が目に入る。
(……うわぁ)
なんと客席の最前列、ど真ん中の特等席に、周囲の生徒を全く寄せ付けない『絶対零度のオーラ』を放ちながら、腕を組んで微動だにしない氷室雪乃の姿があった。
周囲の生徒たちは、「なんかあそこだけシベリアみたいに寒いんだけど」「氷室さんマジで殺気立ってて怖い」とヒソヒソ囁きながら、雪乃から半径一メートル距離を置いている。
(あいつ、翔太の歌をあんな最前列で……。よっぽど楽しみなんだな)
俺は、ズキッと痛む胸の奥を隠し、自嘲気味に笑った。
雪乃のあんなにも熱意に満ちた眼差しを向けられている翔太が、心底羨ましかった。
だが、俺には到底、立てない場所だ。
だからこそ、俺は今日、持てる技術のすべてを懸けて翔太を『神ボーカル』にしてやる。雪乃の期待を裏切らないためにも。
『――それでは次が、本日の大トリ! 2年C組、陽向翔太さんのバンドです!!』
ステージ上のMCが声を張り上げると、体育館が割れんばかりの大歓声に包まれた。
「陽向くーん!」「翔太がんばれー!」という女子の黄色い声援が飛び交う。
「出番です! あと1分で幕が上がります、スタンバイお願いします!」
インカムをつけた実行委員のスタッフが、ステージ袖から切羽詰まった声で叫んだ。
「よし! 影山、澪、行くぞ!」
翔太が気合を入れるように自分の頬を両手でバシッと叩き、力強く立ち上がった。
いつもの頼もしい爽やかな笑顔が戻り、本番に向けて大きく息を吸い込む。
その顔を見て、「……いけるな」と俺が安堵しかけた、その直後――。
「……っ、がっ、ハァッ……!!」
翔太の口から、空気が漏れるような異音が漏れた。
ガタンッ! と音を立てて、翔太がその場に膝から崩れ落ちる。
手に持っていたペットボトルが床に転がり、水がこぼれ出した。
「陽向!?」
「ちょっと、どうしたの!?」
俺と澪が慌てて駆け寄る。
翔太は両手で自分の喉を強く押さえ、苦悶の表情を浮かべていた。顔面は完全に蒼白になり、脂汗が滲み出ている。
「ごめっ……」
翔太が口を動かすが、声にならない。
「……声が、出ねえ……っ」
空気が摩擦するような、掠れた悲鳴。
連日の無茶な猛特訓と、本番直前の極度のプレッシャー。
それらが翔太の喉に限界以上の負荷をかけ、急性的な炎症を引き起こしてしまったのだ。
さっきまでの不自然な咳と、過剰な水分の摂取。
それらはすべて、翔太自身が「喉の異変」を自覚しながらも、俺の音に食らいつくために必死で隠し通そうとしていた『破滅へのフラグ』だったのだ。
「そんな……嘘でしょ!?」
澪が顔を青ざめさせ、ステージと翔太を交互に見る。
外からは、「翔太! 翔太!」という観客のコールと手拍子が、容赦なく地響きのように鳴り響き始めている。
(……終わった)
俺は血の気が引くのを感じた。
ボーカルの喉が潰れた。これはもう、バンドとして完全に致命傷だ。
「待って、まだ方法はあるわ!」
パニックになりかける状況で、澪が必死に打開策を口にした。
「翔太はギターを弾くフリだけして、ボーカル無しの『インストゥルメンタル』でやるのよ! 主旋律を、影山くんのギターでなぞれば――」
「ダメだ。絶対に無理だ」
俺は、その代替案を即座に、そして残酷なまでに否定した。
「……え?」
「この三曲の俺のギターは、翔太の『声』が真ん中にあることを前提に、音数を極限まで削ぎ落としてる。……ボーカルが抜けたら、ただスカスカの伴奏が流れるだけだ」
「っ……!」
澪が絶句する。
そう、俺は翔太の声を際立たせるために、自分の音をすべて『支え』に特化させていたのだ。だからこそ、今からギターメインのインスト構成に切り替えるなんて芸当は、物理的にも音楽的にも不可能なのだ。
完全に詰んだ状況。
退路はすべて断たれた。
「ごめっ……俺のせいで……っ」
翔太は床に手をつき、ポロポロと悔し涙をこぼしながら謝り続けている。
「お前らが、あんなに……最高の音に仕上げてくれたのに……っ! 俺が喉の状態をケアしきれなかったばっかりに……っ!」
泣き崩れる翔太の背中を見て、俺は奥歯をギリッと噛み締めた。
違う。翔太のせいじゃない、俺だ。
俺のギターが、無意識のうちにこいつを限界まで追い詰めてしまった。
『――さあ、準備は整ったようです! 盛大な拍手でお迎えください!』
無情にも、MCのアナウンスが響き渡り、大歓声がステージに押し寄せてくる。
その客席の最前列で、雪乃が「早く来なさいよ」と言わんばかりの、熱を帯びた瞳でこちらを見つめているのがわかった。
「あと十秒! オープニングSE鳴らします!」
スタッフの無情なカウントダウンが響き、オープニング音楽が爆音で鳴り始めた。
ボーカル不在。代替案なし。
絶望と歓声が交差するステージ袖で、俺は愛用のストラトキャスターのネックを痛いほど強く握りしめる。
ここで逃げて、すべてを終わらせるか。
それとも――ステージに立つか。
もう、逃げ場はどこにも残されていなかった。




