第24話 泥棒猫の正体
氷室雪乃は、玄関のドアを開けるなり、「ただいま」の挨拶すら忘れて、階段を駆け上がった。
自室に飛び込み、乱暴に鍵をかける。
カバンを床に放り投げ、息を切らしながらパソコンの電源ボタンを叩くように押した。
(……確かめなきゃ。今すぐ)
胸の奥で、心臓が痛いほど激しく警鐘を鳴らしている。
パスワードを入力し、深い階層に隠したフォルダ『Minato_God_Archive_絶対に消すな』を開く。
そこに一つだけ保存されている、あの伝説の激痛ラブソングの音声ファイル。
私は震える手でマウスを握り、曲を再生するのではなく、右クリックで『プロパティ』を開き、その『作成日時(元動画の投稿日時)』を凝視した。
20XX年、10月15日。深夜2時43分。
(……やっぱり)
その日付を見た瞬間、目からポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
忘れるはずがない。それは、私が湊に対して取り返しのつかない嘘をつき、心を殺した日の、たった三日後の日付なのだから。
***
中学二年の秋。
私は、教室の中で完全に孤立していた。
容姿や成績が少しばかり目立っていたせいで、周囲の女子からは激しい嫉妬と陰口の標的にされ、男子からは下心まみれの視線を向けられる毎日。
誰を信じていいかわからなくなり、私は自分を守るために『氷の女王』という冷酷な仮面を被って、すべての人間を遠ざけるようになった。
ただ一人、幼なじみの湊だけは違った。
不器用で、口下手な彼だったけれど、私が教室で一人でいると、いつも心配そうな顔をして、話しかけようとしてくれていた。
でも、逆にそれが怖かった。
私と一緒にいることで、湊までクラスの連中からターゲットにされてしまうかもしれない。私への悪意が、大好きな幼なじみにまで向けられるのが、何よりも恐ろしかった。
だから、10月12日の放課後。
私は、声をかけてくれた湊に向かって、わざと世界で一番冷たい声で言い放ったのだ。
『……ただの腐れ縁でしょ。私に気安く話しかけないで』
傷ついた湊の顔を、今でも夢に見る。
彼を突き放したその日の夜、私は部屋のベッドで声を殺して泣き続けた。
大切な幼なじみを自らの手で切り捨て、本当に一人ぼっちになってしまった絶望感。明日なんて来なければいいと、本気で思っていた。
限界の夜から数日、すがるような気持ちで開いたネットの動画サイト。
そこで偶然、新着に上がっていた一つの弾き語り動画を目にしたのだ。
『Kanato』というアカウント名。
顔から下しか映っていない画角だったが、背景にあるふすまのシミや、見慣れたギターのストラップを見て、それが湊であることは一瞬で分かった。
『――凍てついた君の心、俺の六弦で溶かしてやるよ』
ヘッドホンから流れてきたのは、不器用で、荒削りで、でも魂を削るような圧倒的な熱量を持ったギターと歌声だった。
正直驚いた。あの大人しい湊が、こんなにも激しい感情を爆発させているなんて。
中二病全開の歌詞。でも、そこには痛いほど真っ直ぐな『誰かを想う熱』がこもっていた。
その必死な音に、冷え切っていた私の心は、一瞬で溶かされてしまった。
湊は、こんなにも情熱的な音を奏でられるんだ。一人ぼっちの暗闇の中で、その音色だけが、私を繋ぎ止める唯一の光になった。
ボロボロと涙を流しながらも、私はその動画に命を救われたのだ。
だけど、自己嫌悪で歪んだ私の心は、最悪の『勘違い』をしてしまった。
『……あんなに酷い言葉で突き放した私を、湊が好きでいてくれるはずがない』
『湊には、こんな激重な愛の歌を捧げるくらい、大好きな別の女の子ができたんだ』
そう思い込んでしまったのだ。
だから、私は湊に素直に謝ることができなくなった。
嫉妬と独占欲、そして彼を救世主《神様》と崇める信仰心がグチャグチャに混ざり合い、影で彼を監視し続ける『限界オタク』という歪んだモンスターが生まれてしまった。
***
自室のパソコンモニターの光が、ポロポロと涙を流す私の顔を照らしている。
今日の帰り道、公園で湊が言った言葉。
『お前、昔ここでよくブランコから落ちて泣いてたよな』
『いつも強がってるくせに、本当は寂しがり屋でさ』
それが、あの神曲の歌詞の情景と完全に一致したことで、私の凝り固まった勘違いは根底から崩れ去った。
そして今、動画の『投稿日時』を見たことで、その憶測は100%の確信に変わった。
「……10月15日」
私が湊を冷たく突き放して、彼が深く傷ついた、そのたった三日後。
「三日……たった三日で、他の誰かを好きになれるようなヤツじゃないっ」
画面を見つめながら、私は震える声で呟いた。
あいつは、そんな器用な人間じゃない。不器用で、一途で、すぐに他の誰かに心変わりするような性格じゃないことくらい、ずっと隣にいた私が一番よく知っている。
「……最初から、全部、繋がってたの……?」
凝り固まった勘違いが、音を立てて崩れ去っていく。
泥棒猫なんて、最初からどこにもいなかったのだ。
「……嘘でしょ」
私は両手で口元を覆い、嗚咽を漏らした。
「そんなわけ、ない……。だって、あんなに情熱的な歌……」
どん底だった私を救ってくれた、湊の不器用で必死なギター。
私が突き放したせいで、彼は別の誰かを好きになってしまったのだと、勝手に絶望していたけれど……。
「……ずっと、私だけを想って歌ってくれてたの?」
見知らぬ泥棒猫に向けた『誰かのための愛の歌』なんかじゃない。
「最初から最後まで……全部、私のものだったんだ」
あの激重ラブソングも。あの尊いタコ指も。
全部、私だけのものだった。
その途方もない事実と、私に向けられた大きな愛に、私は声を上げて泣き崩れた。
後悔と、申し訳なさ、それらを宇宙の彼方まで吹き飛ばすほどの、巨大な愛しさと嬉しさ。
氷の女王の仮面も、泥棒猫への憎しみも、すべてが涙と一緒に溶けて消えていった。
ひとしきり泣いて、涙をティッシュで乱暴に拭った後。
私は、赤く腫れた目でモニターを睨みつけ、限界オタク特有のドス黒い、いや、極彩色に輝く欲望の炎を燃やし始めた。
(……明日。文化祭の準備で、絶対に逃がさない)
あの超絶鈍感なコミュ障陰キャは、まだ「自分の黒歴史は誰にもバレていない」と思い込んでいるはずだ。だから――
(――絶対に、口を割らせる)
湊の口から、直接真実を引き出してやる。
あの曲が私への曲だと確定した瞬間、今度こそ私は、長年被り続けた『塩対応』の仮面をかなぐり捨てることができる。
「覚悟しなさいよ、湊。私を限界オタクにした責任、一生かけてでも、そのタコ指で取らせてやるんだから……っ!」
誰もいない自室で、私はベッドの上のペンギンの抱き枕を渾身の力で抱きしめた。狩る側に回った肉食獣のような瞳で、ニヤリと笑う。
文化祭ライブ本番まで、あとわずか。
最強の限界オタクの逆襲が、今まさに始まろうとしていた。




