第23話 夕暮れのブランコ
文化祭まで残り数日と迫った、ある日の放課後。
俺と雪乃は、二人きりで夕日に染まる通学路を歩いていた。
(……気まずい。死ぬほど気まずい)
文化祭の買い出しの帰り道。
本来なら実行委員である俺と、手伝いの翔太で行くはずだったのだが、「わりぃ影山! 澪にボーカルの特訓付き合ってもらうから、買い出し頼む!」と翔太に押し付けられてしまったのだ。
そしてなぜか、「幼なじみの義務よ」という謎の理由で、雪乃が俺の監視についてきた結果、この気まずい二人きりの帰り道に至った訳である。
雪乃は俺の少し前を、無言のままツンとした態度で歩いている。
相沢たちを追い払った時の怒りは収まったようだが、依然として氷の女王のオーラは健在だ。
俺は両手に段ボール箱を抱えながら、雪乃の細い背中を見つめた。
(翔太と歩きたかっただろうに。俺なんかと二人きりでいても、つまらないに決まってるよな……)
俺は自虐的にそう決めつけ、自嘲気味に息を吐いた。
――しかし。
前を歩く雪乃の脳内は、湊の予想とは全く裏腹に、ピンク色の欲望と歓喜でドロドロに溶けきっていた。
(アァァァァァァッ! 湊と二人きりの買い出し! なにこのご褒美イベント! 重い荷物持たせちゃってごめんね! でもその段ボールを持ってる前腕の筋がエッチすぎてガン見しちゃうから、私が前歩くしかないの許して!)
雪乃は絶対に後ろを振り返らないよう、必死で表情筋をコントロールしていた。
大好きな推しである、神ギタリストと二人きりの空間。
少しでも油断すれば、にやけた顔でよだれを垂らす完全な不審者になってしまう。
それに、あの泥棒猫に触られた湊の左手。
念入りに除菌したとはいえ、まだオタクとしての独占欲が燻っている。ここは「私はまだ怒ってるんだからね」というツンとした態度を維持するのが、幼なじみとしての正解なのだ。
「……雪乃」
「っ!? な、なに。重いなら半分持つわよ」
不意に背後から声をかけられ、雪乃はビクッと肩を跳ねさせた。
しかし、湊は荷物のことではなく、道路沿いにある『ある場所』を見つめていた。
「いや……懐かしいなと思って」
そう言って立ち止まったのは、少し古びた近所の児童公園だった。
オレンジ色の夕日が差し込み、錆びついた遊具の長い影が伸びている。
そこはかつて、俺と雪乃が幼い頃、暗くなるまで毎日のように遊んでいた秘密基地だった。
「この公園……」
雪乃も足を止め、夕焼けに染まる公園を見つめる。
「お前、昔ここでよくブランコから落ちて、ワンワン泣いてたよな」
俺は段ボールを抱え直しながら、ふと昔の記憶を口にしていた。
中学に入って俺を避けるようになる前の、まだ純粋に俺の後ろをくっついて歩いていた頃の、小さな雪乃の姿。
「なっ……! な、なんで急にそんな恥ずかしいこと言うのよ!」
雪乃が顔を赤くして抗議する。
「いや、なんか急に思い出しちゃって」
俺は、誰もいない夕暮れのブランコを見つめながら、目を細めた。
「あの頃のお前は、いつも強がってるくせに、本当は寂しがり屋でさ。ちょっとでも俺の姿が見えなくなると、すぐ泣きべそかいて俺の服の裾引っ張ってたのに」
「そ、それは……っ、昔の話でしょ!」
「ああ。……まあ、今は誰も寄せ付けない、立派な女王様だけどな」
俺は自嘲気味に笑い、視線を落とした。
もう、あの頃の泣き虫な雪乃はいない。
俺が手を引いてやる必要なんてないくらい、彼女は美しく、手の届かない場所へ行ってしまったのだ。
「さっ、戻ろうぜ。陽向も待ってるし」
俺はそれだけ言って、再び歩き出そうとした。
しかし、雪乃は、その場から一歩も動こうとしなかった。
「……え?」
雪乃の脳内に、凄まじい電流が走っていた。
今の湊の言葉。その情景。
雪乃が、毎日毎日、擦り切れるほど聴き狂っている『あの神曲』の歌詞。
『――夕暮れの公園のブランコ』
『――泣き虫な君』
『――いつも強がってるくせに、本当は寂しがり屋な君』
……すべて。
一つ残らず、完璧に、今この瞬間の湊の言葉と一致するのだ。
(えっ……?)
雪乃の頭の中で、張り詰めていた「何か」が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
湊が一晩で削除した伝説の『Kanato』動画。
雪乃はずっと、あの情熱的なラブソングは、湊が自分ではない『別の見えない女の子』に向けて作ったものだと信じ込んでいた。
自分が冷たく突き放したせいで、湊は別の誰かを好きになり、その子のためにあんなにも切なく、愛に溢れたギターを弾いたのだと。
だから嫉妬で狂いそうになりながら、自分の本当の気持ちを隠して塩対応を続けていたのだ。
だけど……
――今の言葉は、何だ。
夕暮れのブランコから落ちて泣いていたのは、他の誰でもない。
強がってばかりで、本当は寂しがり屋で、湊の服の裾をいつも引っ張っていたのは、他の誰でもない。
(……待って。待って待って待って)
雪乃の心臓が、早鐘のように激しく鳴り始めた。
頭の奥が真っ白になり、指先が微かに震える。
Kanatoが投稿したあの動画。
もし、あの痛いくらいに重くて、情熱的なラブソングの歌詞が。
他の誰でもない、雪乃と湊だけの『秘密の思い出』を歌ったものだとしたら。
(……あの激重ラブソング。別の女じゃなくて。全部、私宛て……だったの……!?)
「……雪乃? どうした、顔赤いぞ。熱でもあるのか?」
立ち尽くす雪乃を不思議に思った湊が、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「っ……!! な、なんでもないわよっ! さっさと歩きなさい、バカ湊!」
雪乃はパニックになり、顔を真っ赤にして湊から顔を背けた。
しかし、その瞳には、これまでの嫉妬や怒りとは全く違う、ボロボロと溢れ出しそうなほどの『感情』が渦巻いていた。
自分を救ってくれた、ネットの神様。
ずっと片思いだと思っていた、不器用な幼なじみ。
彼が、自分以外の誰かを想って歌っていたのだという、長年の絶望的な勘違い。
それが今、夕暮れの公園で、たった一つの思い出話によってひっくり返ろうとしている。
(……確かめなきゃ)
雪乃は、早足で歩きながら、胸の奥で強く、強く決意した。
もし本当に、あの曲が私のための曲なら。
湊は、私のために、あんなにも必死にギターを弾いてくれていたということになる。
(……早く。早く帰って、あの曲をもう一度聞かなきゃ……っ!)
最強の限界オタクの心の中で、長年燻っていた嫉妬の炎が吹き飛び、代わりに宇宙規模の巨大な『愛情』と『期待』が爆発しようとしていた。




