第22話 氷の女王の『絶対零度マウント』
「――何やってんの」
シベリアの吹雪よりも冷酷で、絶対的な『殺意』すら孕んだ声。
ゆっくりと振り返った俺の視線の先には、透き通るようなアッシュグレーの髪をなびかせ、地獄の底から這い上がってきた修羅のような冷たい瞳でこちらを睨み下ろす、氷室雪乃の姿があった。
「ゆ、雪乃……?」
「えっ、ひ、氷室さん……?」
俺の腕に絡みついていた相沢も、雪乃の放つ常軌を逸したオーラに完全に気圧され、顔を引きつらせている。
雪乃は無言のまま、硬いローファーの足音を鳴らしてこちらへ歩み寄ってきた。
そして、俺と相沢の間にスッと音もなく割り込む。
「ちょっ……なに?」
相沢が戸惑いの声を上げた、その瞬間。
バシッ!
雪乃は、俺の左手に触れていた相沢の腕を、容赦なく引き剥がした。
「痛っ! ちょっと氷室さん、何す――」
「気安く触らないでくれる?」
抗議しようとした相沢の言葉を、雪乃の絶対零度の声が完全に凍りつかせた。
「この機材係は、私の幼なじみなの。……あんたたちみたいな、チャラチャラした軽音部の遊びに付き合ってる暇なんてないんだけど」
「な、なにそれ……。うちらはただ、影山くんを文化祭のサポートに誘おうと……」
「サポート?」
雪乃が、スッと目を細めた。
その瞬間、彼女の背後に吹雪の幻覚が見えたのは、決して俺だけではないはずだ。
「……翔太くんのバンドのサポートだけでも手一杯なのに、これ以上この機材係を連れ回されて、文化祭の裏方作業をサボられたら、私のクラスの評価まで下がるでしょ」
「えっ、いや、でも……」
「それに、他のバンドのサポートに横槍を入れて引き抜こうとするなんて、軽音部って随分と図々しいのね。……そんな半端な覚悟でステージに立つつもりなら、今すぐ出場辞退した方が身のためよ」
正論と理不尽が入り混じった、有無を言わさぬ完璧なマウント。
なにより、『私のものに触るな』という強烈な圧と殺気に、相沢たちは完全に顔面を蒼白にしていた。
「あ、う……ご、ごめんなさい……っ!」
たまらず相沢が後ずさりし、他の女子たちも「い、行こ……」と逃げるように体育館の出口へと走り去っていく。
嵐が去った体育館の隅。
俺は冷や汗を拭いながら、大きく息を吐き出した。
「た、助かった……。サンキュー、雪乃。あいつらグイグイ来るから、どうやって断ろうか本気で困ってて……」
「――あんたもあんたよ!!」
俺が礼を言いかけた瞬間、雪乃がものすごい剣幕で振り返った。
さっきまでの絶対零度の表情はどこへやら、雪乃は顔をリンゴのように真っ赤にして、俺に食ってかかってきた。
「な、なんで俺まで怒られるんだよ!?」
「当たり前でしょ! メス猫にデレデレ鼻の下伸ばして、気安く触られてんじゃないわよ、バカッ!!」
「デレデレしてねえよ! 俺は完全に怯えてただろ!」
「うるさいうるさい! あんたは本当に無防備すぎるのよ! だいたい、自分のその左手がどれだけ貴重か、ちょっとは自覚しなさいよね!!」
「えっ、左手……? 貴重?」
俺が自分の左手を見つめると、雪乃はバッグから乱暴に除菌用ウェットティッシュを取り出し、俺の胸に押し付けてきた。
「すぐ拭きなさい! 泥棒猫の菌が移ったらどうすんのよ! 不潔! 汚らわしい!」
「いや、ただちょっと触られただけなのに不潔って……。お前、ほんとに俺のことバイ菌か何かだと思ってるだろ」
「いいから早く拭きなさいよぉっ!!」
「わ、わかったよ! 拭く! 拭くから怒鳴るな!」
俺は理不尽な命令に逆らえず、大人しくウェットティッシュで左手をごしごしと拭き始めた。
そんな俺の手元を、雪乃は顔を真っ赤にしながら、親の仇でも見るような、それでいてどこか熱っぽいジト目でガン見している。
(……なんでこいつ、あんなにキレてんだ?)
ただの機材係がモブ女子に絡まれたくらいで、クラスの評価が下がるわけがない。
いくらなんでも怒りすぎだろ。
俺は、ウェットティッシュで手を拭きながら、理不尽すぎる幼なじみの沸点の低さに、ただただ首を傾げるしかなかった。
***
(……正妻の牽制、こっわ……)
少し離れた体育館のステージ袖。
パイプ椅子の山に隠れながらその一部始終を見ていた私――結城澪は、心の中で特大のツッコミを入れていた。
――クラスの評価が下がるから?
――他人のバンドから引き抜くのは図々しいから?
よくもまあ、あんなスラスラとそれっぽい建前が出てくるもんだわ。
あんなの、ただ単に『自分の大好きな推しの尊いタコ指に、見ず知らずの女がベタベタ触っていた』ことにガチギレしただけの、限界オタク特有の同担拒否、っていうか泥棒猫排除?
まぁ、マウント以外の何物でもないわね。
(それにしても……影山くん、鈍感の才能が天井知らずね)
私は、顔を真っ赤にして影山くんに説教している親友の姿を見て、やれやれとため息を吐いた。
雪乃は『不潔!』だのなんだの暴言を吐いているが、その目は完全に影山くんの左手に釘付けになっている。
おそらく本音を言えば、『泥棒猫が触ったところを除菌して、早く私だけの神聖な指に戻して!』とでも叫びたいのだろう。
相沢ちゃんも、災難だったねと同情せずにはいられない。
彼女もただのちょっとした興味で近寄っただけだろうに、相手が悪すぎたね。
氷室雪乃は、表向きは氷の女王として振る舞っているが、影山湊のこととなれば、平気で理性を投げ捨てる狂犬なのだから。
(……でも、この調子だと)
私は、未だに「なんで怒られてるんだ?」と困惑している影山くんを見て、少しだけ可哀想になってきた。
雪乃は、影山くんがネットの神ギタリスト『Kanato』であることを最初から知っている。
でも、影山くんが投稿したあの『激痛ラブソング』のモデルが自分であることには気づいておらず、「影山くんは別の泥棒猫が好きだ」と盛大に勘違いしているのだ。
だからこそ、あんな風に素直になれず、嫉妬から塩対応と理不尽なキレ方しかできない。
この果てしなく面倒くさい『両片思いのすれ違い』は、果たして文化祭の本番までに解決するのだろうか。
(まあ、私から答え合わせをしてやる義理もないしね。せいぜい、二人でこじれにこじれて頂戴)
私は、無自覚に無双し始めた陰キャのギタリストと、嫉妬で完全にポンコツ化している限界オタクの幼なじみからそっと視線を外し、自分のベースのメンテナンスに戻るのだった。




