第20話 重なる音と、最強の相棒
合宿最終日の朝。
スタジオに集まった俺たちの間には、昨夜、それぞれの部屋に流れていた『しんみりとした空気』は微塵も残っていなかった。
「よーし! 泣いても笑っても合宿最後だ! 全力で行くぞーっ!」
マイクスタンドを握りしめた翔太が、昨日までとは少し違う、まるで憑き物が落ちたような、最高に晴れやかな顔で笑った。
(……まぁ、負けてられないな)
俺は、愛用のストラトキャスターを構え、その背中を見つめる。
昨夜、翔太が語った音楽へ本気で向き合うことになったルーツ。それがまさか自分だとは夢にも思っていない俺は、「こいつの歌を全力で輝かせる」という覚悟を、今まで以上に固めていた。
ドラムのカウントが鳴り、最後のセッションがスタートする。
俺は、翔太の声を前へ、前へと押し出すために、持てるすべての技術と熱量を指先に込めた。
ボーカルの背中を力強く押し上げ、時に煽り、時に優しく包み込むような、圧倒的な音圧を持ったバッキング。カッティングのリズムが、ドラムのハイハットとぴたりと噛み合う。
その隙間に、翔太の声が鋭く滑り込んだ。
俺の音圧に喰われることなく、熱量のある声をマイクにぶつけていく。
互いのルーツと本気を認め合った二人の音は、これまでにないほど完璧なグルーヴを生み出し、一つの『完成形』へと到達しようとしていた。
***
(なに、なになにッ!! 今日の湊、エモすぎ! カッコよすぎて致死量超えてるぅぅっ!)
目の前で汗を散らしながら、最高にカッコよくギターを弾き狂う推しの姿。
その圧倒的な破壊力を至近距離で浴びた私―—氷室雪乃の意識は、深い深い精神世界へとダイブしていた。
――緊急脳内会議、発令。
『議長! 昨夜の澪のアドバイスを思い出してください!』
脳内雪乃A(インテリ眼鏡着用)が、ホワイトボードを叩いて熱弁を振るう。
『私たちもただ監視するだけじゃなく、勇気を出して“女の子”アピールするべきでは!? この合宿を機に、デレ期に突入するべきです!』
『無理無理無理無理っ!』
脳内雪乃B(限界オタク・両手にペンライト)が、鼻血を吹き出しながら絶叫する。
『あんなエモい音出されて、しかも男同士の熱い絆よ! 女の子としてアピールする前にこっちが尊死するわ! それに、いまさらデレたって、「急にどうしたキモい」って嫌われるのがオチよ! 最悪、泥棒猫のところに避難しちゃうわ!』
乙女心と、限界オタクの自己評価の低さが激しく激突する。
そこへ、脳内雪乃C(ヤンデレ・瞳のハイライト消失)が、ゆらりと立ち上がった。
『いまさら女の子アピールなんてリスキー……なら、答えは一つ』
『Cちゃん……?』
『今はただ、全身全霊で「一方的に推す」のみ。全ての愛と信仰を、あの尊いタコ指に捧ぐ!! 近づく泥棒猫すべて排除ッ!』
『……ッ!』
『私たちが目指すのは正妻じゃない! 湊の音を一番近くで浴び続ける、最古参のトップオタ!!』
――脳内満場一致。『異議なし!!』
女の子としてのアピールは保留。今はただ、限界オタクとして推すのみ。
私は初めて満場一致した脳内会議に従い、極めて業の深いオタクの思考へと完全に回帰してしまっていた。
意識が現実世界に戻る。
パイプ椅子に座る私は、表面上こそ氷の女王の無表情を保っているものの、その呼吸は異常に荒くなっていた。
両手で胸をギュッと押さえ、ガタガタと椅子を微かに揺らしながら、フンスフンスと荒い鼻息を漏らしている。
ジャァァァァンッ! と、最後の一音がスタジオに鳴り響いた。
「ハァッ……ハァッ……! 最高だったな、影山!」
汗だくになった翔太が、満面の笑みで振り返る。
「ああ。……お前のボーカルも、悪くなかったぜ」
湊も息を切らしながら、翔太とガシッ! と拳を突き合わせた。男同士の熱い友情と絆の証明。
(……尊いっ!!)
その光景を目の当たりにした瞬間、私の理性のタガが完全に吹き飛んだ。
「み、みなとぉ……っ、尊い……っ!」
思わず奇声を上げ、パイプ椅子から跳ね起きてしまう。両手を前に突き出し、フラフラとした足取りで汗だくの湊に飛びかかろうとした、その時。
ガシッ!!
「ぐえっ!?」
私の首根っこが、背後から無慈悲な力でガッチリと掴まれた。
***
「……ストップ。そこまでよ、不審者」
私――結城澪は、汗だくの男子に飛びかかろうとした親友の首根っこをホールドし、死んだ魚のような目で物理的に制圧した。
「んんんーっ! 離して澪! 私と湊の熱い抱擁が……っ!」
「そんな展開じゃないでしょ、変態。……あんた、昨日のいじらしい乙女はどこ行ったのよ。結局ただのオタクに戻ってんじゃない」
「乙女心より推しへの信仰心が勝ったのよぉっ!!」
私にホールドされる雪乃と、それをポカンと口を開けて見つめている影山くんと翔太。
相変わらずカオスな光景だが、とにもかくにも、これで一泊二日の強化合宿は全日程を終了した。
***
「いやー、マジでやり切ったな! これで文化祭はバッチリだぜ!」
夕日に染まる合宿所の玄関前で、翔太が大満足の笑顔で伸びをした。
「ああ、なんとかなりそうだな」
影山君も、確かな充実感と共に頷いていた。
この合宿で翔太の声は完全に仕上がっていた。影山君のサポートも文句なしだ。
本番のステージに向けて、音の完成度は、これ以上ない頂に達していた。
(ま、バンドの音は完璧に仕上がったけど……)
私はこっそりと、ポケットから取り出した胃薬をペットボトルの水で流し込んだ。
(……人間関係の爆弾は一つも処理されてないんだけどね)
私は、充実感が漂う影山君の後ろ姿と、そのタコ指をギラギラした目で見つめている雪乃を交互に見比べ、小さくため息を吐いた。
文化祭本番まで、残りわずか。
まさか本当に泥棒猫(?)が現れるなんて、この時は誰も予想していなかった。




