第17話 湯煙のニアミスと、乙女の二重構造
合宿初日の夕食を終え、俺と翔太の男子チームが先に入浴を済ませることになった。
市営の青少年センターの風呂は、学校の合宿所によくあるような、無骨で広めの共同浴場だ。
湯船に浸かりながら、俺は隣で豪快に頭を洗う翔太の肉体を横目で見て、思わずため息をこぼした。
(……すげえな。コイツ、歌だけじゃなくて体格まで主人公かよ)
翔太はスポーツマンらしく、無駄な脂肪が削ぎ落とされ、腹筋も見事にシックスパックに割れていた。
一方の俺は、機材運びのおかげで腕に多少の筋肉はついているものの、基本的にはひょろりとした細身の陰キャ体型だ。
洗面器で泡を流し終えた翔太が、俺の視線に気づいてニカッと笑った。
「なんだよ影山。俺の筋肉に見惚れたか? お前ももっと肉食えよー、痩せすぎだって!」
「別にいいだろ……俺は裏方だから、これくらい身軽な方が動きやすいんだよ」
軽口を叩き合いながら、翔太がザブンと湯船に浸かってくる。
少し和やかな空気が漂う中、翔太はふと、声のトーンを真面目なものに変えた。
「……なあ、影山」
「ん?」
「お前、雪乃ちゃんのこと、どう思ってんの?」
――ドクンッ。
不意打ちの質問に、俺の心臓が大きく跳ねた。
顔からサッと血の気が引き、一瞬、湯船の温かさがわからなくなる。
「どう、って……」
「幼なじみなんだろ? ずっと一緒にいてさ。……ぶっちゃけ、好きだったりするわけ?」
翔太の目は、冗談や探りではなく、真っ直ぐに俺を射抜いていた。
俺は、お湯のゆらぎを見つめたまま、自嘲気味な笑みを張り付けた。
「……ただの腐れ縁だよ。俺、あいつには完全に嫌われてるし」
言葉にするたびに、胸の奥がチクチクと痛む。
でも、それが現実だ。あいつは今日だって、俺と「夫婦」に間違われて、顔を背けて黙り込んでしまうほど嫌がっていたじゃないか。
「そっか」
翔太は、俺の言葉を聞いて少しだけホッとしたような、けれど真剣な表情で宣言した。
「じゃあ、俺が本気でアピールしても……お前は、文句ないな?」
「っ……」
俺の心臓を、鋭いナイフが抉った。
でも、俺に文句を言う資格なんてない。雪乃も、俺なんかより、隣にいる眩しいほどのイケメンに好かれた方が、絶対に幸せになれるに決まっている。
「……ああ。お前なら、あいつも喜ぶだろ」
そう言った喉の奥が、焼けるみたいに痛かった。
苦い思いをお湯に溶かしながら、俺はただ、黙って天井の蛍光灯を見上げていた。
***
男子と入れ替わりで、私たち女子チームが入浴する番になった。
広い湯船に肩まで浸かりながら、私――結城澪は、隣でブクブクとお湯に沈んでいる親友へジト目を向けた。
「……で? 買い出しから戻った後、顔が茹でダコみたいになってたけど、影山くんと何があったわけ?」
「ふ、ふうふ……おくさん……だんなさま……」
雪乃は、口から上だけを出し、完全にイってしまった虚ろな目でブツブツと呪文のように呟いている。
「は? 夫婦? あんた、熱で頭やられてんの?」
「ち、違うわよ!」
雪乃がガバッと立ち上がり、顔を真っ赤にしてお湯を跳ね飛ばした。
「スーパーで出会ったおばちゃんに……湊と私が、新婚の夫婦に見えるって言われたのよ! まったく湊と私がよ! なんで湊と私が、旦那さんと奥さんって……」
(湊と私、三回も言ったな……どんだけ好きなんよ)
「湊と私がなんて……ほんと勘弁して欲しいわ!」
クネクネしながら恥ずかしがっている雪乃の身体を見て、私は思わず「チッ」と舌打ちしそうになった。
透き通るような白い肌。くびれたウエストに、私よりも明らかに発育の良い、豊満な胸元。
私は自分の平均的な―—いや、少し細身の体型と親友の抜群のプロポーションを冷静に比較し、理不尽な神様を少しだけ恨んだ。
「……あんたのその無駄にいいスタイル、どうせ影山くんに見せびらかしたいんでしょ。この距離で見せられたら、いくらあの朴念仁でも一発で落ちるでしょうし」
私が軽く茶化すと、雪乃は顔をボンッと限界まで赤くした。
「そ、そんなの関係ないでしょ! れ、恋愛に大事なのは外見じゃなくて中身よ!」
「中身がヤバいオタクのあんたが言うと説得力ないわね」
私が鼻で笑うと、雪乃は「ふんっ」とそっぽを向いて再びお湯に沈んでいった。
だが、その氷の仮面の下――彼女の心の中では、ピンク色の妄想が暴走機関車のように走り出していた。
『でも……もし湊にこの裸を見られたら……!? 湊は喜ぶのかな!? いや無理私が死ぬ! でも、タコ指が私の肌に触れたりしたらアァァァァッ!! ダメよ雪乃! はしたない! でも湊になら……っ!』
……湯船のお湯が、親友の妄想で沸騰しそうなので、私はさっさと上がることにした。
***
「ふぅ、さっぱりしたー」
お互いにバスタオル一枚の姿で、私は髪を乾かし、雪乃は火照った顔を鏡で見つめながらパシャパシャと化粧水をつけていた。
『――おーい、もう出たかー?』
不意に、脱衣所の扉の向こう……廊下から、影山くんの声が近づいてきた。
「えっ、影山くん?」
『洗面所に忘れ物したから、開けるぞー』
ガチャリ。
ドアノブが、ゆっくりと回る音がした。
合宿所は造りが古く、洗面所と脱衣所の区別なんてない。影山くんは、私たちがもう着替えて部屋に戻ったと勘違いしているのだ。
「ちょっ、待って影山く――」
私が慌てて止めようとした、その瞬間だった。
『今ここで遭遇したら=バスタオル一枚の裸を見られる=既成事実=責任とって結婚!? よーし、開けなさい湊! カムヒア!!』
「って、あんた何自ら鍵開けに行こうとしてんのよ、この不審者!!」
私は、あろうことか自らドアの鍵に手を伸ばそうとした雪乃を、背後から全力で羽交い締めにし、物理的に制圧した。
「んんんーっ! 離して澪! 私と湊の結婚のチャンスがぁっ!」
「あんたの理性はどうなってんのよ!!」
私は暴れる限界オタクを『フルネルソン』でねじ伏せたまま、ドアの向こうに向かって全力で怒鳴った。
「バカ影山! まだ着替えてないわよ! あっち行ってなさい!」
『うおっ、ご、ごめん!!』
廊下から、慌ててダッシュで遠ざかっていく影山くんの足音が聞こえ、私はホッと胸を撫で下ろした。
危ない。一歩間違えれば、親友が自ら犯罪的なハプニングを引き起こすところだった。
***
無事にパジャマに着替え終わり、女子部屋のベッドに腰を下ろした雪乃は、ホッとしたような、でも少しだけ残念そうな顔でため息を吐いていた。
「……あいつに、ヤラしい目で見られるのは、もちろんイヤよ。幼なじみなんだし」
雪乃は、ツンと顔をそむけ、いかにも『氷の女王』らしいセリフを呟いた。
「はいはい。よく言うわよ。さっきドアを開けようとしてた変態のセリフとは思えないわね」
私が呆れてツッコミを入れると、雪乃は「ちょっと気が動転してただけ」と言って、ベッドの上のクッションを抱きしめて顔を隠してしまった。
(……ほんと、世話が焼けるわね)
私はやれやれと肩をすくめ、自分のベッドへと潜り込んだ。
***
澪に背を向け、クッションに顔を埋めた雪乃の心の中は、オタク的な欲情だけが渦巻いていたわけではなかった。
(……あんなこと、言ったけど)
雪乃は、パジャマ越しの自分の胸にそっと手を当てる。
ドキドキと、早鐘のように鳴る心臓の音。
さっき、ドアの向こうに湊がいた時のことを思い出すだけで、身体の奥がカッと熱くなる。
(……少しだけなら。っていうか、ほんの少しだけでも)
もし、湊が私のことを見て、顔を赤くしてくれたら。
(私を、女の子として、ちゃんと意識してほしいかも……)
推しのタコ指に欲情する『限界オタク』の顔と。
大好きな男の子に可愛いと思われたい『等身大の乙女』の顔。
二つの感情の間で激しく揺れ動きながら。雪乃は真っ赤になった顔を、いつまでもクッションに押し付けていた。




