第16話 買い出しの擬似夫婦
文化祭まで、残り一週間となった土曜日の昼下がり。
俺たちバンドメンバーは、隣町にある市営の青少年センターに集まっていた。
ここは安い料金でスタジオと宿泊室、自炊用のキッチンまで借りられる、学生にはありがたい施設だ。
「よーし! いよいよ本番一週間前! 今日から一泊二日の強化合宿、気合入れていくぞーっ!」
ボーカルの翔太が、ロビーで高く拳を突き上げて叫んだ。
先日、俺が寝込んだ時には心配をかけたが、今はすっかり熱も下がり、体調は万全だ。むしろ、翔太の熱にあてられて、俺自身もかなり気合が入っている。
……ただ一つ、明らかに場違いな存在が、視界の端でチラついた。
「あのさ、雪乃」
俺は、当たり前のような顔をして俺の隣に立っている『氷の女王』にジト目を向けた。
「なんでバンドの合宿に、お前がいるの?」
「は? 当然でしょ」
俺の幼なじみ、氷室雪乃は、今さら何をという顔で腕を組み、ツンとそっぽを向いた。
「あんた、こないだ熱出してぶっ倒れたばっかりじゃない。病み上がりのどんくさい腐れ縁が、合宿中にまた倒れて皆に迷惑をかけないか、幼なじみとして監視する義務があるのよ」
「いや、もう熱は完全に下がってるし、合宿に幼なじみの保護者とか要らないだろ……」
俺が呆れて言い返そうとすると、ベースの澪が背後から俺の肩をポンと叩いた。
「まあまあ、諦めなさい、影山くん。こいつを置いてきたら、後でどんな事態を生み出すかわかったもんじゃないわ。……私の胃壁に免じて、ここは同伴を許可してちょうだい」
澪は死んだ魚のような目で、ボソリと本音を漏らした。
よくわからないが、澪なりの気苦労があるのだろう。俺は深く追求するのをやめ、ため息をついた。
(……まあ、雪乃が翔太を応援したい気持ちもわかるし……。やっぱり翔太のことが好きなんだろうな……)
俺はそのように自己完結し、一人で勝手に失恋のダメージを引き受けることにした。
「じゃあ、俺とドラムでスタジオの機材セッティングしておくからさ!」
翔太がポンと手を叩く。
「影山! 悪いけど、今日の夕飯の買い出し、お願いしていいか? 合宿の定番と言えばカレーだろ!」
「ああ、わかった。じゃあ俺と結城で……」
「悪いけど、私パス」
俺が言い終わるより早く、澪が即答した。
「私、ベースのネックの反りを調整しなきゃいけないから。……雪乃、あんたヒマでしょ。監視役なら、影山くんにしっかり着いて行ってあげなさい。ね♡」
澪は俺たち二人を施設の出口へ向かってグイグイと押し出し、そそくさとスタジオへ引っ込んでしまった。
(……あいつ、絶対面倒くさいことから逃げたな)
***
というわけで。
俺と雪乃は、二人きりで近くの大型スーパーへと買い出しにやってきていた。
(……気まずい)
カートを押しながら精肉コーナーを歩く俺の少し後ろを、雪乃が無言でついてくる。
この間、雪乃と澪が見舞いにきてくれた時、俺はうなされながら「ごめん」と謝った記憶がおぼろげにある。そのせいか、雪乃はいつも以上に無口で、どこかツンツンしているように見えた。
「えーっと、合宿のカレーだし、予算もあまりないから肉は特売のコマ肉でいいか」
俺が一番安い豚肉のメガ盛りパックに手を伸ばした、その瞬間。
「ちょっと待ちなさい」
横からスッと伸びてきた白い手が、俺の腕を掴んで止めた。
「豚コマ? そんなペラペラの安いお肉で、カレーを作る気?」
「いや、学生の合宿なんてそんなもんだろ。予算カツカツだし」
「ダメよ」
雪乃は俺の腕を振り払い、精肉コーナーの一番上の段――高級な霜降りの国産黒毛和牛のパックを、なんと三個もポンポンとカゴに放り込んだ。
「ちょっ、お前バカ! これ一個二千円くらいするぞ! 予算オーバーもいいとこ――」
「差額は私が出すわよ」
「はあ!?」
俺が驚愕の声を上げると、雪乃は腕を組み、極めて冷徹な声で言い放った。
「あんたは病み上がりなのよ。それに、大事なギターのサポート……その指先を使うんだから、もっと栄養のある良いものを食べなさい」
「いや、ギター弾くのに牛肉の霜降り具合は関係ないだろ……。そもそもお前に自腹切らせるわけには――」
「あらあら、ふふっ。可愛らしい新婚さんねぇ」
俺たちが言い争っていると、隣で品定めをしていた年配のご婦人が、買い物カゴを下げたままニコニコと微笑みかけてきた。
「え?」
「ごめんなさいね、微笑ましくてつい。……でも、若いのに、しっかりした奥さんねぇ」
「…………へ?」
「旦那さんの体調管理や、お仕事のことまで気遣ってあげて。しかも家計のやりくりじゃなくて、自分のへそくりで美味しいお肉を食べさせてあげるなんて。旦那さん、愛されてて本当に幸せね」
「えっ、あ、いや……!!」
あまりにもナチュラルな『若夫婦扱い』に、俺は顔面から火が出るかと思うほど顔が熱くなるのを感じ――。
「――ち、違います! 俺たち夫婦じゃなくて、ただの高校生で! それにコイツはただの幼なじみで……っ!」
俺は必死で否定し、隣にいる雪乃に助け舟を求めようと振り返った。
「な、雪乃! お前からもちゃんと否定して――」
「…………」
「……雪乃?」
俺は、隣を見て息を呑んだ。
氷室雪乃は、顔を耳の裏まで真っ赤――いや、もはや茹で上がったタコのように真っ赤に染め上げ、完全に『フリーズ』していた。
目は虚空を見つめ、口はパクパクと金魚のように動いているが、声が出ていない。
(お、おくさん!? だんなさん!? 夫婦ぅぅぅぅぅっ!?)
雪乃の脳内は、かつてない規模のビッグバンを起こし、宇宙の果てまで吹っ飛んでいた。
(私と湊が、夫婦!? 第三者から見て、私たちが新婚の夫婦に見えたってこと!? やばい無理! 鼻血出そう! でも、この流れのまま既成事実として押し切れば……ワンチャンありなの?)
限界オタク特有の「推しへの過剰な貢ぎ癖」が、奇跡の『擬似夫婦コント』を生み出してしまったのだ。
「あ、あら? 奥さん、お顔が真っ赤だけど……熱でもあるのかしら?」
「い、いえ! こいつ極度の人見知りで、ちょっとパニックになってるだけなんで! すいません、失礼します!」
俺は硬直している雪乃の腕を引き、逃げるように精肉コーナーから足早に立ち去った。
スーパーを出て、合宿所へと戻る帰り道。
雪乃は相変わらず顔を真っ赤にしたまま、一言も喋ろうとしない。俯いて、自分のつま先を見つめながら歩いている。
(……あーあ。あいつ、絶対怒ってるよな)
俺は、重い買い物袋を両手に提げながら、ズキッと痛む胸の奥を隠してため息を吐いた。
俺みたいなただの腐れ縁と『夫婦』に間違われたのだ。誇り高い氷の女王にとって、これほどの屈辱はないだろう。
機嫌を直してもらうには、どう謝ればいいのか。
――そんな俺の切実な悩みとは裏腹に。
俯いて歩く氷室雪乃の頭の中では。
(……夫婦。……影山、雪乃。……湊の、奥さん。……でへへっ)
とてつもなく甘く、とろけるような妄想が無限ループで再生されており、にやけそうになる口元を必死で引き締めるのに、彼女の全神経が注がれていたのであった。




