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第15話 熱を帯びたタコ指と、限界オタクの葛藤

 私――結城澪は、少し汗の匂いが漂う薄暗い部屋の中で、壁に背中を預けながら深いため息を吐いていた。


 ベッドの上では、影山くんが「……ぅ、うぅん……」と苦しそうに寝返りを打ち、荒い息を吐いている。

 昨日、バンド解散の危機を救うために翔太と本気でぶつかり、精神的にも肉体的にも限界を超えた結果の『知恵熱』だろう。

 まあ、基本陰キャである彼にとっては、予想もしない主人公ムーブを取った代償とも言える。


「プリントも置いたし、おばさんに挨拶して帰る?」


 私がわざとらしく提案すると、ベッドの脇に立つ氷室雪乃は、ビクッと肩を揺らして激しく首を横に振った。


「だ、ダメよ! 幼なじみとして、最低限の生存確認と看病をする義務があるわ! 高熱で倒れてるのを放置したなんておばさんに知られたら、私の体裁に関わるし!」

「……そう。体裁ね」


 私はジト目を向けたが、雪乃はもう私の声など聞いていないようだった。

 いつの間に準備したのか持参した保冷バッグから、素早い動きで氷枕と高級ゼリー、さらには冷却シートを取り出した。


「ほら、バカ湊。どんくさいわね、少し無理したくらいで知恵熱なんて。体調管理もできないの?」


 口では吹雪のように冷たい毒を吐きながらも、その手つきは異常なまでに優しく、そして手慣れていた。

 影山くんの頭をそっと持ち上げて氷枕を敷き、額の汗を丁寧にタオルで拭い、冷却シートをピタッと貼る。


(……おかんか。いや、献身的な新妻か)


 私は心の中で突っ込んだ。あの氷の女王が、推しである幼なじみの世話を焼くためなら、これほどまでに甲斐甲斐しく動けるとは。

 しかも、雪乃の視線は、布団から投げ出された影山くんの左手――分厚い『タコ』ができた指先に、完全に釘付けになっていた。


『……汗、かいてるわね。タコ指が熱で火照ってる……! 解熱しなきゃ。いや、看病という名目で合法的に触れるチャンスかしら!』


 雪乃の背中から、そんな極彩色の欲望がダダ漏れになっているのが、親友の私には痛いほどわかった。

 雪乃は「……ちょっと、手も汗ばんでて、なんだか不潔ね。仕方ないから拭いてあげるわ」などと苦しい建前を口にしながら、震える手で影山くんの左手に濡れたタオルを伸ばしている。


 その瞬間――。


「……んっ」


 影山くんが寝ぼけ眼で寝返りを打ち、ふいにその手が動いた。

 そして、ベッド脇にしゃがみこんでいた雪乃の、清楚なワンピースの裾を、ギュッと強く掴んだのだ。


「ひゃっ!?」


 予想外の推しからのスキンシップに、雪乃が変な声を上げて硬直する。


「……ゆき、の……」


 熱にうなされる影山くんの口から、掠れた、熱っぽい声が漏れた。


「――ッ!!」


 雪乃の顔が、瞬時にゆでダコのように真っ赤に沸騰した。


『アァァァァッ!! 熱で弱ってる時に、私の名前呼んでくれた!? 泥棒猫の名前じゃなくて、私を! 尊い! 殺して!』


 雪乃の脳内メーターが完全に振り切れる音が、私の耳にも聞こえた気がした。

 だが、影山くんのうわ言は、それだけでは終わらなかった。


「……ゆき、の……ごめん……」

「……え?」


 雪乃の動きが、ピタリと止まった。

 私は壁際で、「ああ……」と小さく天を仰いだ。


 影山くんの『ごめん』の意味。

 それはきっと、自己嫌悪から漏れた謝罪。

 でも――今の雪乃には、最悪の意味にしか聞こえないだろう。


『ごめん……? なんで謝るの……? まさか、別の泥棒猫を選んだことへの謝罪!? それとも、私に看病なんて迷惑なことをさせてる謝罪!? いや、もしかしてあの曲のモデルが私じゃないことの謝罪!?』


 雪乃の肩が、ワナワナと激しく震え始めた。

 彼女の背中から、先ほどまでのピンク色のオーラが完全に消え去り、ドス黒い嫉妬と混乱が入り混じったヤバい瘴気が噴き出し始める。


「ちょっ……どういうことよ、湊! その『ごめん』の意味を三十文字以内で説明しなさい! 誰にごめんって言ってるの! 起きなさいよ!!」


 パニックを起こし、完全に理性を失った雪乃が、ベッドで眠る影山くんに覆い被さり、その胸ぐらを掴んで揺さぶろうとした。


「バカ、寝てる病人を揺さぶるな!」

「離して澪! 私はこのバカに泥棒猫の存在を白状させないと――っ!」

「はいはい、落ち着け! あんたのその声で起きちゃうでしょ!」


 私は大慌てで雪乃の背後に回り込み、プロレス技「フルネルソン」の要領で彼女を羽交い締めにして抑え込んだ。


「んんんーっ! 湊ぉぉっ!」

「静かにしなさい! おばさんが上がってくるでしょ!」


 暴れる限界オタクの親友を必死に押さえつけながら、私は「なんで私が休日に、他人の家で親友を羽交い締めしてるわけ!?」と、理不尽すぎる自分の運命を呪った。


***


 その後、なんとか雪乃を落ち着かせ――物理的に制圧し、影山くんの熱も冷却シートと薬のおかげで少し落ち着いたようだった。


「……はぁ。疲れた。帰るわよ、雪乃」

「……ええ。幼なじみとしての義務は、果たしたわ」


 乱れたワンピースの裾を整えながら、雪乃はツンとした声で答えるが、その視線は名残惜しそうに影山くんの寝顔と『タコ指』に注がれていた。


『……明日も、様子見に来ないとダメよね。幼なじみとして』


 そんな声に出さない決意が、痛いほど伝わってくる。

 影山家を出て、夕暮れの住宅街を歩きながら、私はポケットの中の胃薬を固く握りしめた。


(……文化祭まで、あと一週間ちょっと。このカオスな状況、本当にどうにかしてほしいわ)


 そんな私の切実な願いをよそに、私のスマホが『ブルッ』と震えた。

 翔太からのグループLINEだ。


『お疲れ! 影山が風邪引いたって聞いたけど大丈夫か? ……実はさ、来週末、文化祭前の強化合宿やろうと思うんだけど!』


(……合宿?)


 私はスマホの画面を見て、思わず立ち止まり、隣りの親友をチラリと横目で見た。


(影山くんが外泊するなんて知ったら、こいつが大人しく家で待ってるわけがない。……絶対に『幼なじみとして不純異性交遊がないか監視する』とか謎の建前を作って、強引に乱入してくるに決まってる)


 オタク化した雪乃の行動力と執念を舐めてはいけない。

 下手に置いていけば、こっそり後をつけてストーカーになりかねない危うさが今の雪乃にはある。


「どうしたの、澪? なんか険しい顔して」

「……ううん。なんでもない……」


 私は、これから待ち受ける『地獄の合宿』という嵐の予感に、そっと天を仰いだ。でも――。


(……まあ、この二人、嫌いじゃないけど)


 なぜか頬がゆるむのを感じつつ、ポケットの中の胃薬を強く握り締めるのだった。

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