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第11話 氷室雪乃の不器用な発破

 スタジオが入っている雑居ビルの裏手。

 薄暗い路地裏にある自動販売機の横で、陽向翔太は膝を抱えてしゃがみ込んでいた。

 いつものキラキラとした陽キャの面影は完全に消え失せ、アスファルトを見つめる瞳はどんよりと濁っている。

 雪乃は自販機で冷たい缶のブラックコーヒーを買い、無言で翔太の前に立った。

 そして、その冷え切った缶を、翔太の頬にドンッ! と容赦無く押し当てた。


「ひゃっ!?」


 物理的な冷たさに跳ね起きた翔太が、目の前に立つ氷の女王を見上げて目を丸くする。


「ゆ、雪乃ちゃん……? なんで、ここに……」

「見ればわかるでしょ。逃げ出したボーカルを連れ戻しに来たのよ」


 翔太は自嘲気味に笑い、受け取った缶コーヒーを両手で包み込んだ。


「……慰めに来てくれたのか? 優しいんだな、雪乃ちゃんは。でも、無駄だよ。俺、もうあいつの横で歌う自信、ねえよ」

「別にあんたのこと慰めに来た訳じゃない。自惚れないで」


 雪乃の絶対零度の声に、翔太はビクッと肩を震わせる。

 一方、雪乃の心の中は、今まさにマグマのように煮えたぎっていた。


(ふざけんじゃないわよ! 私の湊が、あんたの声を活かすためにサポートに徹して、あんな神がかった最高の伴奏を弾いてくれたのに! あんたが逃げたら、湊の努力が水の泡じゃない! しかも、このままバンドが崩壊すれば、湊の神ギター(推しの生音)を至近距離で浴びれなくなるじゃない! 私から生き甲斐を奪う気!? 万死に値するわ!!)


 最古参限界オタクとしての、激しい怒りと独占欲。

 そんな心の叫びを完璧な『氷の女王』の仮面の下に隠し、雪乃は冷たく言い放つ。


「……あんたがここで逃げたら、あいつのギターが台無しになるじゃない」

「台無しって……影山は一人でもすごいんだ。俺なんかいない方が……」

「あんたの耳は節穴なの? あのギターの音、自分一人が目立つためのものに聞こえた?」


 雪乃の鋭い指摘に、翔太が息を呑む。


「あいつのギターは、ただの伴奏じゃなかった。ドラムとベースをまとめ上げて、あんたの声を一番引き立たせるために、緻密に計算され尽くした音だった。……あんたの声が真ん中にあることを前提にして、あいつは自分の持てる技術を全部注ぎ込んでたのよ」


 もっともらしいセリフの裏に潜む、雪乃の脳内はこうだ。


(あーっ、今日の湊のバッキング最高にエモくてカッコよかった! あの音に包まれて歌える翔太くんが本気で殺したいほど憎くて嫉妬で狂いそうだったけど! 湊があそこまで本気で仕上げたステージを未完成で終わらせるなんて、最古参オタクとして絶対に許さないんだから!)


 しかし、そんな雪乃の狂気の内面など知る由もない翔太にとって。

 その言葉は『お前の歌なら影山のギターに応えられるはずだ』という、雪乃からの絶対的な信頼と叱咤激励に他ならなかった。


「あいつの音を一番活かせるのは、ボーカルのあんたでしょ。……さっさと戻りなさい」


 雪乃の言葉は、翔太の胸に深く、痛いほど突き刺さった。

 音楽を愛し、真剣にバンドと向き合ってきた翔太だからこそ、雪乃の言う『湊のギターの真意』は痛いほど理解できていたのだ。


(影山は、俺を潰そうとしたんじゃない。俺を神ボーカルにするために、その圧倒的な技術を駆使して全力で支えようとしてくれていた……)


 その想いから逃げ出した自分の不甲斐なさに、翔太はギリッと唇を噛み締めた。


「……わかってる。わかってるんだよ、そんなこと」


 翔太は、ポツリと本音を漏らした。


「影山がどれだけ俺を立たせようとしてくれてるか、痛いほど伝わった。……だから、逃げたんだ。あいつのあの完璧な音に、俺の薄っぺらい歌声じゃ、どうしても応えられない。それが悔しくて、情けなくて……っ!」


 才能の壁に打ちのめされ、プライドを粉々に砕かれた、ただの音楽少年の痛切な叫びだった。

 それを聞いた雪乃は、もうこれ以上何も言えなかった。

 音楽的な才能の壁は、精神論だけでどうにかなるものではない。翔太が抱えている絶望は、雪乃の怒りだけでどうこうできるレベルのものではないと感じたのだ。


「……悪い、雪乃ちゃん。俺、やっぱり今日は――」


 翔太が立ち上がり、諦めの表情で背を向けようとした、その時。


「――逃げてんじゃねえぞ、翔太!!」


 路地裏の入り口から、息を切らした怒声が響いた。

 ハッとして振り返った翔太と雪乃の視線の先。

 そこには、肩で激しく息をする湊の姿があった。


「影、山……?」

「……待ってなさいって言ったのに、なんで来たのよ」


 雪乃の文句を無視し、俺はまっすぐな、決してブレない瞳で翔太を睨みつけた。

 いつもは面倒くさそうに下を向いている陰キャの面影は全て消した。

 俺は、翔太の胸ぐらを掴む勢いで、一歩、また一歩と距離を詰める。


「俺のギターから逃げんな。……お前の声は、あんなもんじゃないだろ」


 俺の低く、静かな熱を孕んだ声が、路地裏の空気を震わせた。

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