表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
好きと言わない妻が、いちばん優しい  作者: そらのことのは


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/2

第2話 名前のないもの

好きじゃないと言ったくせに、あの人は家の中をちゃんと住みやすくしてしまう。


だから、その日、玄関が暗かっただけでわかった。

今日はまだ、帰っていない。


たったそれだけのことなのに、部屋の空気が少し足りなかった。


テーブルの上に、紙が一枚置いてある。


『少し遅くなります。夕飯は冷蔵庫に入ってます』


短い字だった。


いつも通りといえば、いつも通りだ。

連絡はあるし、ごはんもある。何ひとつ雑じゃない。


なのに、何となく息が詰まった。


冷蔵庫を開けると、ラップのかかった皿がきちんと並んでいる。

温めればすぐ食べられるようになっていた。味噌汁まで小鍋に分けてある。


相変わらず抜かりない。


「……ちゃんとしてんな」


誰もいない部屋で言ってみても、当たり前だけど何も返ってこない。


一人で食べるには、整った夕飯だった。


妻が帰ってきたのは、日付が変わる少し前だった。


玄関の音でソファから顔を上げる。

立ち上がる前に、廊下のほうから声がした。


「起きてたの」


「お前こそ、遅いな」


姿を見て、少しだけ眉をひそめた。


髪の先が湿っている。

雨が降ってたのかと思ったら、カーディガンの袖に雨の跡が残っていた。

手の甲には、うっすら赤い擦り傷まである。


「何してたんだよ」


「ちょっと、付き添い」


「付き添い?」


妻は靴を脱ぎながら、あっさり言った。


「近所の人が転んで。病院」


それだけだった。


大変だったとか、疲れたとか、そういうことは何も言わない。

いつもの顔のまま、濡れた傘を畳んで、バッグを置く。


「ごはん、食べた?」


「食べた」


「よかった」


言って、そのまま洗面所へ向かおうとする。


なぜか、その背中に少し腹が立った。


「誰にでも、そういうことするんだな」


妻が足を止める。

止めて、それから振り向いた。


「そういうことって」


「困ってる人いたら放っとけない、みたいなやつ」


言ったあとで、自分でも嫌な言い方だと思った。

でも、引っ込められなかった。


妻は少しだけ考える顔をした。


「……困ってたから」


「それ、俺じゃなくても?」


「たぶん」


その曖昧な返事が、余計に引っかかった。


「へえ」


それ以上は言わなかった。

言ったら、みっともないのが自分でもわかっていたからだ。


妻はしばらくこちらを見ていたけど、何も言わずに洗面所へ入っていった。

水の流れる音がする。


ソファに座り直しながら、深く息を吐く。


何を拗ねてるんだ、と思う。


あいつは最初から言っていた。

好きにはならない。困るようなことはしない。ただ、それだけだと。


困ってる人がいたら助ける。

それがたまたま俺にも向いているだけ。


そんなの、わかってる。


わかってるのに、面白くなかった。


翌日、昼休みにコンビニを出たところで、マンションの管理人に声をかけられた。


「あら、奥さんの旦那さん」


その呼ばれ方にまだ慣れない。曖昧に会釈すると、管理人のおばさんは昨夜の話をし始めた。


「昨日、大変だったのよ。三階の人が階段で足ひねっちゃってねえ。奥さん、ずっと付き添ってくれて」


「ああ……そうなんですね」


「ほんと、やさしい人ね。前もね、上の階のおばあちゃんが熱出したとき、買い物に行ってくれてたの。自分だって顔色悪かったのにねえ」


前も。


へえ、と思った。

俺の知らないところでも、あいつはずっとああなんだ。


「昔からそういう子なのかしらねえ。なんか、人のこと放っとけないって感じ」


管理人はそこで、少しだけ声を落とした。


「でも前に、それで大変だったって聞いたわよ。ひとりに肩入れしすぎて、倒れちゃったとか」


「倒れた?」


「詳しくは知らないの。ごめんなさいね、変なこと言って」


おばさんはすぐに話を切り上げて、じゃあねと手を振って戻っていった。


俺はしばらくその場に立っていた。


倒れた。

ひとりに肩入れしすぎて。


その言葉が、妙に頭に残った。


昨夜の、濡れた袖と赤い手の甲を思い出す。

なんでもない顔をしていたくせに、少しだけ疲れて見えた。


なのに俺は、帰ってきた相手に最初に言ったのが、誰にでもそうするんだな、だ。


性格が悪いにもほどがある。


その夜、帰る頃にはひどく冷えていた。


昼のことを引きずったまま、なんとなく足取りが重い。

コンビニにでも寄るかと思ったけどやめた。家に帰れば、たぶん何かある。そんなふうに思ってしまう自分が、もうだいぶ駄目な気がした。


玄関を開けると、今日は明かりがついていた。


それだけで、肩の力が少し抜ける。


「おかえりなさい」


キッチンから声がする。


「……ただいま」


妻はいつも通りだった。

昨日のことがなかったみたいな顔で、鍋を見ている。


「手、どうした」


「ああ、これ」


自分の手の甲を見て、たいしたことないよ、と言う。


「昨日、病院まで付き添ったんだって」


妻がこちらを見る。

たぶん管理人から聞いたんだろうと、すぐ察した顔だった。


「言ってなかったっけ」


「聞いてない」


「そっか」


それで終わるのかよ、と思う。


「……お前さ」


「うん」


「そういうの、全部一人でやるなよ」


言った瞬間、妻が少しだけ目を丸くした。


「全部ってほどじゃないよ」


「でもやるだろ」


「やるけど」


「前に倒れたことあるんだって?」


今度は、ほんの少しだけ沈黙があった。

鍋の蓋がかたかた鳴る音だけが聞こえる。


「誰に聞いたの」


「管理人さん」


「おしゃべりだなあ」


困ったように笑うでもなく、怒るでもなく、ただ小さく息を吐く。


「昔の話だよ」


「昔でも何でも、倒れたのは事実なんだろ」


「うん」


そこは否定しないんだな、と思った。


「なのにまた同じことしてる」


「同じじゃないよ」


「何が」


妻は少しだけ考えて、それから火を弱めた。


「前は、少し間違えたから」


「今は、そこまでしないようにしてる」


言い方は静かだった。

でも、それで十分だった。


何があったのかはわからない。

でも、わからないままでいい気がした。

わかったところで、俺にできることはたぶんそんなに変わらない。


「……昨日、言い方きつかった」


妻は肩越しにこっちを見た。


「そう?」


「そうだよ」


「別に平気」


その返事にも、少しむっとする。


平気じゃなくてもいいのに、と思ってしまう。


その晩から、少し喉が痛かった。


気のせいだと思って風呂に入って、髪もろくに乾かさないまま寝たのがまずかったのかもしれない。夜中に寒気で目が覚めたときには、もう遅かった。


だるい。


起き上がる気力もなくて、布団の中で目を閉じていると、額にひやっとした手が触れた。


「熱がある」


妻の声だった。


「……まじで」


「まじで」


変な返しだなと思ったけど、笑う余裕はない。


部屋の明かりがついて、妻が体温計を持ってくる。

脇に挟まれて、しばらく待つ。

電子音が鳴って、彼女が表示を見る。


「三十八度六分」


「うわ」


「うわ、じゃない」


それからの動きは早かった。


水を持ってくる。薬を出す。冷えたタオルを替える。

着替えを枕元に置いて、足りないものを確かめる。

そのくせ、自分の濡れた髪はまだ乾いていなかった。


迷いがなさすぎて、見ているだけで腹が立ってくる。


こんなの、慣れてないとできない。

慣れてるってことは、たぶん本当に誰にでもやってきたんだろう。


そう思ったら、安心する前に胸の奥がざらついた。


「ほら、起きて。薬だけ飲んで」


上半身を支えられて、水を飲む。

その手つきがやさしいせいで、余計によくなかった。


「……それ、俺じゃなくてもやるの」


熱で頭がぼんやりしていたせいか、口が勝手に動いた。


妻の手が一瞬だけ止まる。


「たぶん」


また、それだ。


「たぶんって何だよ」


「困ってる人いたら、放っとけないから」


「じゃあ、誰でもいいんだ」


言ってから、自分で最悪だと思った。

熱を出して看病されてる側の台詞じゃない。


でも、もう止まらなかった。


妻は怒らなかった。

少しだけ目を伏せて、空いたコップを持ち直す。


「よくはないけど」


「え」


「誰でもいいわけじゃないよ」


あまりに小さな声で、一瞬聞き返しかけた。


妻はそれ以上続けなかった。

代わりにタオルを替えて、布団を整える。


「寝て」


「……今の、どういう意味」


「熱がある人は寝る」


「ごまかすなよ」


「ごまかしてない」


「いや、ごまかしてるだろ」


さすがにしつこかったのか、妻は少し困った顔をした。

初めて見る顔だった。


「今は、うまく言えない」


それだけ言って、彼女はまた額に手を当てた。


熱のせいか、その手の冷たさのせいか、急に泣きそうになって、俺は目を閉じた。


翌日の夕方には、熱はだいぶ下がっていた。


会社は休んだ。

妻は在宅に切り替えたらしく、隣の部屋で静かにキーボードを打っている音がする。


その音を聞いているだけで、少し落ち着いた。


夕方、部屋の扉が開く。


「おかゆ、食べる?」


「食べる」


「起きられる?」


「たぶん」


「わかった」


それだけで、少し笑ってしまった。


食卓に座ると、湯気の立つ器が置かれる。

味は薄いのに、変に物足りなくない。ちゃんと体に入ってくる感じがする。


妻は向かいに座らず、少し離れたところでマグカップを持っていた。

いつも通りの距離だ。


たぶん、何もなかったみたいに戻すつもりなんだろう。


それが急に嫌になった。


「なあ」


「ん?」


「そうやって、すぐ普通に戻るの、ずるくない?」


妻が目を上げる。


「ずるい?」


「助けるだけ助けて、何でもないみたいな顔するの」


「何でもなくはないよ」


「でも、そう見える」


少しの沈黙。


妻はマグカップを両手で持ったまま、何も言わない。


言うなら今しかない気がした。

ここで飲み込んだら、たぶんまた前と同じになる。


整えてもらって、助けられて、でも名前はつかないまま、俺だけが勝手に引っかかり続ける。


それはもう、嫌だった。


「俺、昨日わかったんだよ」


喉が少し痛かったけど、そのまま続ける。


「お前がいないと、家の感じが全然違う」

「暗いとか静かとか、そういうことじゃなくて……うまく言えないけど、息がしづらいっていうか」


自分でもひどく不格好な言い方だと思う。

でも、それしか出てこなかった。


妻は黙って聞いている。


「熱を出したときも」

「正直、助かったし、安心した」

「でも同時に、腹が立った」


「なんで」


「そんなふうにされて、何でもないわけないだろ」


妻の指先が、マグカップの縁で止まる。


「お前は違うって言うんだろうけど」

「俺はもう、違うって思えない」


声が思ったよりまっすぐ出た。


「好きとか、そういうのはまだわからない」

「でも、いないと困る」

「それだけは、もうごまかせない」


言い切ったあとで、部屋がやけに静かになった。


妻はすぐには何も言わなかった。

否定するかと思ったのに、それもない。


ただ少しだけ、困った顔のまま俺を見ている。


「……そういうの」


やっと出た声は、いつもより遅かった。


「困る?」


思わず聞き返すと、妻は小さく息を吐いた。


「困る、というか」

「思ってなかった」


それはたぶん、この人なりの動揺だった。


「じゃあ、今から思えばいいだろ」


妻が瞬きをする。


「すぐじゃなくていいし」

「答えがきれいに出なくてもいい」

「でも、俺はもう、なかったことにはできないから」


また黙る。


今度の沈黙は、今までのものと少し違った。

切り捨てる感じがしない。

ただ、うまく置き場所を見つけられずに、手のひらの上で転がしているみたいな沈黙だった。


やがて妻は、ほんの少しだけ視線を落として言った。


「……少し、考える」


それだけ言って、彼女は初めて、向かいの席に座った。


愛してるも、好きも、ない。

約束らしい約束も、まだ何もない。


おかゆの湯気が、二人のあいだでゆっくり揺れている。

いつもより、少しだけ近い場所で。


彼女は初めて、俺のために、すぐ答えを出さなかった。


そしてたぶん、それだけで今夜は十分だった。

最後まで読んでくださってありがとうございました。


「好き」とは言わないまま、少しだけ距離が近くなる。

この二人には、そのくらいの終わり方がいちばん似合うと思って書きました。


少しでも刺さるところがありましたら、評価や感想をいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ