第1話 愛のない生活は、なぜか心地いい
結婚したその日の夜、妻は俺の歯ブラシを洗面所に並べながら言った。
「先に言っとくね。私、たぶんあなたのこと好きにはならない」
手は止まらなかった。
明日の天気でも言うみたいな声だった。
そのくせ、俺の歯ブラシの隣には、いつの間にか新しいタオルまで置かれていた。
タグは、もう切られている。
「……すごいこと言うな」
「うん」
妻はあっさりうなずいた。
こっちを見るでもなく、タオルの端を軽くそろえる。
「でも、困るようなことはしないよ」
好きにはならない。
でも、困るようなことはしない。
冷たいのか、やさしいのか、よくわからない。
「それ、慰めになってる?」
「ならない?」
ようやくこっちを見た顔は、本気でそう思っていそうな顔だった。
俺は返事に詰まった。
この結婚が普通じゃないことくらい、最初からわかっている。
恋愛の延長でも、勢いでもない。両家の事情と、彼女の妙に静かな「いいですよ」で決まった結婚だった。
だから、好きじゃないと言われても、おかしくはない。
おかしくはないのに、胸の奥が少しだけざらつく。
「じゃあ、なんで結婚したんだよ」
思ったより拗ねた声になった。
妻は少しだけ考えてから、なんでもないことみたいに言った。
「一緒にいたほうが、あなたが楽そうだったから」
それで、何も言えなくなった。
妻はそのままキッチンへ行って、ケトルのスイッチを入れた。
しばらくして、湯気の立つマグカップがテーブルに置かれる。
「熱いの苦手でしょ」
「……なんで知ってる」
「前に見たから」
それだけだった。
ひと口飲む。
ちょうどいい温度だった。熱すぎないし、ぬるくもない。何も考えずに飲める温度。
そのことが、さっきの台詞より少し困った。
好きじゃないって言った相手が、こういうところだけ外さないのは、たぶんよくない。
翌朝、目を覚ますと、着るつもりだったシャツが椅子にかかっていた。
ネクタイまである。
スマホで天気予報を見たら、午後から少し冷えるらしかった。たしかに、その組み合わせがちょうどよさそうだった。
リビングへ行くと、コーヒーの匂いがした。
「起きた?」
「起きた」
「パンがもう焼けるわ」
それだけだった。
新婚らしい甘さなんて、どこにもない。
それなのに、テーブルに置かれたマグカップを持ち上げた瞬間、少し黙ってしまった。
ミルク入り。砂糖なし。
完全に、俺の飲み方だった。
「もしかしてさ」
「ん?」
「前から、けっこう見てた?」
妻は皿にトーストをのせながら、小さく首をかしげた。
「覚えようと思って見てたわけじゃないわよ」
「じゃあ何」
「一緒に暮らすなら、知ってたほうがいいかなって」
言い方はやわらかいのに、そこに照れも含みもない。
差し出された皿を見る。
トーストには、もうバターが塗ってあった。端まできれいに。
「はい」
皿を受け取りながら、なんとなく居心地が悪くなった。
やさしくされてる気がするのに、やさしいって言葉で片づけると少し違う。
大事にされてるみたいなのに、そのまま受け取るには、昨夜の一言が引っかかる。
好きにはならない。
それを言った本人が、朝からこうして世話をしてくる。
わけがわからない。
一週間もしないうちに、家の中には、俺のためだけの「ちょうどいい」が増えていった。
帰りが遅い日は、夕飯が温め直しても崩れないものになっている。
雨の日は、靴べらの横に替えの靴下が置かれている。
目をこすった覚えもない日に、テーブルの端に目薬が置かれている。
俺が言う前に、必要そうなものが先にある。
それが何日か続くと、人は案外すぐ慣れる。
慣れてしまってから気づく。ああ、俺はもう、これがないと少し困るんだな、と。
妻は、いつも隣にいるわけじゃない。
べたべたもしないし、余計なことも聞いてこない。
なのに、必要なときにだけ、ちゃんと手が届く場所にいる。
話したいときは聞いてくれる。
疲れているときは放っておいてくれる。
その距離があまりに的確で、たまに腹が立つ。
近づいてこないくせに、足りない感じもしない。
なんなんだ、この人、と思う。
「いや、めちゃくちゃいい奥さんじゃん」
金曜の夜、会社帰りの居酒屋で、友人の新谷は笑いながら言った。
「飯うまい、気が利く、束縛しない。何が不満なんだよ」
ジョッキを傾けながら、俺は曖昧に笑った。
「不満ってほどじゃないけど」
「けど?」
「……ちゃんとしすぎてる」
「贅沢な文句だな」
それはそうだと思う。
他人から見たら、文句のつけようがないんだろう。
実際、俺だって口で説明しろと言われたら困る。
困るけど、違和感だけはずっと消えない。
たとえば妻は、俺が話したい気分のときは、ちゃんと聞いてくれる。
「今日、上司がさ」
「うん」
「締切前倒しって、前日に言うなよって話で」
「それは腹立つね」
「だろ」
「でも、やるんでしょ」
「……やるけど」
「じゃあ今日は早く寝たほうがいいわ」
その程度だ。
大げさに慰めもしない。頑張れとも言わない。逃げ道だけは、そっと塞いでくる。
なのに、そこで会話が切れても嫌な感じがしない。
必要なぶんだけ、ちょうど返ってくる。
それが心地いいことを、認めるのが嫌だった。
その違和感を、ある夜、俺はつまらない意地で確かめてしまった。
仕事で少し嫌なことがあって、帰る頃には何もかも面倒になっていた。
ネクタイを外しながら言う。
「今日、夕飯いらない」
キッチンに立っていた妻が振り向く。
「そう?」
「うん。食欲ない」
「わかった」
それだけだった。
引き止めもしない。
何か食べる? とも聞かない。
少しでも入れたほうがいいよ、とも言わない。
俺がいらないと言ったから、そうした。
ただ、それだけ。
正しい。
たぶん、すごく正しい。
ソファに座ってテレビをつけたけど、内容は頭に入らなかった。
妻は自分のぶんだけ軽く済ませて、皿を洗って、いつも通りの時間に風呂を入れた。
部屋は静かだった。
俺がいらないと言ったんだから、これでいい。
むしろ、変に干渉されるよりありがたいはずだ。
なのに、胸のあたりが妙にスカスカした。
自分でも意味がわからない。
何か作ってほしかったわけじゃない。
心配してほしかったわけでもない。
ただ、違うと言ってほしかった。
あの人の「ちょうどいい」が、俺のわがまままで届くのか、試したくなっただけだ。
そのくせ、来なかったら来なかったで、勝手に寂しい。
面倒くさいのは、どう考えても俺のほうだった。
「先に寝るね」
妻がそう言って、寝室へ向かう。
「……うん」
扉が閉まる音がして、急に部屋が広くなった気がした。
しばらくぼんやりしたあと、さすがに水くらい飲むかと思ってキッチンへ向かう。
冷蔵庫を開けると、奥に小鍋がひとつ入っていた。
雑炊だった。
卵が少し崩れていて、蓋の裏に白く曇った跡が残っている。
作って、少し冷まして、そのまま入れたんだろうと思った。
メモはない。
食べろとも書いてない。
俺がいらないと言ったから、テーブルには出さなかった。それだけなんだろう。
でも、ほんとうに何もないわけじゃなかった。
「……なんだよ」
思わず笑ってしまった。
そのあとで、少しだけ喉の奥が痛くなる。
こういうのを、やさしいって言うんだと思う。
でも妻はきっと言わない。たまたまとか、余ったからとか、そんなことを言って終わらせるんだろう。
鍋を火にかけながら、俺は閉まった寝室の扉を見た。
あの向こうで、もう寝ているのかもしれない。
明日の天気でも見ているのかもしれない。
何を考えているのかは、まだよくわからない。
わからないのに、この家の静けさだけは、少しずつ体になじんできていた。
好きじゃない。
そう言ったくせに。
どうしてこの人といると、こんなに息がしやすいんだろう。
そしてどうして、彼女はそれを「好き」とは呼ばないんだろう。
寝室の明かりは、まだ消えていなかった。
俺が鍋の火を止めるまで、ずっと。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
「好きにはならない」と言いながら、なぜか生活だけは完璧に整えてくる妻の話です。
この二人の距離がどう変わるのか、もう少しだけ見守っていただけたら嬉しいです。
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