ずっと一緒にいた幼馴染は、どうやら僕とは付き合わないらしい
僕、丸山 陽人には幼馴染がいる。名前は桐谷 花音。
イギリス人の母を持つ彼女は、その血を色濃く受け継いでいた。
陽の光を溶かし込んだような蜂蜜色の髪。
静かな湖面を思わせる澄み切った碧い瞳。
触れたら壊れてしまいそうなほど白い肌。
まるでガラスケースの中のビスクドールのような——どこか、近寄り難い美しさだった。
でも、その神が作りたもうたような愛らしい外見を持つ彼女の性格は、悲しくも大学教授であるお父上に似てしまったようで、とても気難しかった。
マイペースで頑固。加えて、地頭が良すぎるせいで、生半可な言葉では決して心を動かされない。
今でも友達はあまり多くないが、幼い頃は特にひどかった。
でもそれは仕方がないだろう。
子どもは、愛想や我慢で友達付き合いをするということをしない。
だから、初めて会った日……いや、その前からずっとだったのかもしれない。
彼女は一人ぼっちだった。
あの日、まだ幼稚園に通っていた僕は、怪我をしないように見守りつつ友達と遊んでいた。
そして、ふと砂場のほうを見ると、その隅で小さな背中が一人、地面を見つめているのに気付いた。
周りでは子どもたちが笑い声を上げながら走り回っている。
彼女だけが、その輪の外側に、最初からそこにいたように、静かに座っていた。
(……またひとりか)
お節介かもしれない。
そうは思いつつも、ゆっくりとそちらのほうに近づいた。
目立つ容姿で浮いてしまったのかなと老婆心を発揮してしまったから。
「何してるの?」
驚かせないよう声を抑えて問いかけるも、彼女は僅かばかりも顔を上げない。
しばらくの沈黙。拒絶の意思は感じられないその透明な雰囲気に、聞こえなかったかと逡巡したその時。
風にかき消されてしまいそうなほどに小さな声で「蟻」とだけ、つぶやきが漏れた。
「蟻だね」
「…………」
「楽しい?」
「……別に」
取り付く島もない。
視線は一切こちらを向くことはなく、地面の黒い点々の行列に固定されたままだ。
何度か他の子が話しかけている姿を見たことはあったが、なるほど、ここらへんで脱落したのだろうと納得する。
僕も苦笑しながら、もしかしたらこれはいらぬ世話かもしれない、と考えた。けれど。
「蟻が、どうして仲間とはぐれないか知ってる?」
その一言に、小さな肩がぴくりと震えた。
初めて、彼女が僕の方を振り返る。少し釣り上がった碧い瞳が、僕を射抜いた。
顔の造作が整いすぎていることもあって、冷たくも見えるその顔。
でも、その奥には、確かな好奇心の光が揺らめいているのが窺えた。
(なるほど、こういう話が好きなのか)
膝を折って隣にしゃがみ込むと、目線を合わせて知っていることを教えてあげる。
「蟻はね、自分たちにしか分からない匂いを地面に付けながら歩くんだ。道しるべみたいなものさ。だから、例えば――」
僕は指で、行列の真ん中の土をすくい、少し離れた場所に移動させた。
するとどうだろう。今まで一糸乱れぬ行進を続けていた蟻たちは、途切れた匂いの前で右往左往し、あっけなく離れ離れになっていく。
「どう?」
「興味深い」
しばらく、彼女はその混乱した蟻たちをじっと眺めていた。
それから、おもむろに小さな指を伸ばし、僕が動かした土を、もとあった場所へそっと戻した。
蟻たちが、少しずつ列を取り戻していく。
彼女は何も言わなかった。ただ、元に戻るまで、静かに見守っていた。
「こういうの、好きなんだ?」
「嫌いじゃない」
春の日差しの中、砂場の隅に二つの影が並んでいた。
しばらくして友達が呼びに来たので、僕は立ち上がった。
「またね」と声をかけると、彼女は何も言わなかった。
ただ、僕が離れる方向を、最後まで静かに目で追っていた。
これが、僕と花音の出会い。
そして、この関係がなんだかんだ今なお続いているのは、きっと僕の産まれが特殊であることも関係しているだろう。
十二月二十五日のクリスマス、僕は生まれた。
特別な日に生まれた僕は、実はそれ以外も特別だったのだ。
何故か?――それは、僕が前世の記憶を持っていたから。
平凡な家庭で生まれ、六人きょうだいの長男として平穏な生活を送ってきた僕は、三十歳の誕生日を迎えた雪の日、凍結した路面でスリップしたらしい車に撥ねられて死んだ。
周りとは精神年齢に大きな開きがある。
だからこそ、彼女の性格に我慢強く付き合うことが出来たし、その良さにも気づくことができた。
花音は、口数は少ないが、嘘を言うことは一切無い。
都合の悪い事でも事実は事実としてちゃんと認める。
合理的な性格で、裏表が無く、さっぱりとした人間だった。
そんな花音の性格を、僕はとても好ましく思っている。
その不器用さ故の苦労もたくさんさせられてきたけれど。
≪小学生≫
小学生の頃、花音の類稀なる容姿は、男子たちの格好の的だった。
それはきっと、幼いなりの好意の裏返しで、ある種の愛情表現だったのだろう。
「やーい、生意気女!相変わらず変な髪!」
「…………」
「おい、何とか言えよ!」
「……頭、悪そう。テストの点も良くないし」
「なっ、なんで知ってんだよ!」
「やっぱり。そうだと思った」
「うるさい!お前なあ!」
じゃれついてくる相手にハンマーを叩き付ける。
花音の的確すぎる反撃は、いつも相手を逆上させた。
「二人ともどうしたの?」
「こいつがっ!」
「仕掛けてきたのはあっち」
危ない場面も度々あって、そんな時は僕が割って入るのが常だった。
前世でも、弟妹たちが揉めるたびに間に入り続けた。気づいたら誰かを宥めている——どうやら、生まれ変わっても性分は変わらないらしい。
(あまり、干渉しすぎるのはよくないんだろうけど)
先ほどまでの大きな声は、廊下まで聞こえていたのだろう。教師が何事かと覗き込む。
しかし、僕と視線が合った瞬間に苦笑して去ってしまったので、どうやらこの場は僕が収める役割らしかった。
「まあまあ、仲良くしようよ。ほら、皆で遊べるクイズゲームを考えてきたんだ」
「なんだよ、陽人。邪魔すんなよっ!」
「ほら、女子に喧嘩で勝っても嬉しくないし、親に怒られる。だから、これで勝負だ。君の得意なサッカー選手とかの問題もあるんだよ?」
「……それもそうだな。わかった」
この子の親は、そういう親だ。
その嫌そうな顔の裏では怒られる情景が目に浮かんでいたのだろう。
上書きされた感情はすぐになくなり、遊びのほうへと関心が向き始める。
「花音もそれでいいよね?こういうの、好きでしょ?」
「……嫌いじゃない」
面白そうな響きに周りの子も興味を示したようで、たくさんの子が集まってくる。
グループに分かれてやるよう整理しつつ、僕が出題者として少し離れようとした、その時。
くい、と服の裾が強く引かれた。
振り返ると、花音が無言でこちらを見つめていた。
その手は、僕の裾をしっかりと、けれどどこか縋るように握っていた。
「どうしたの?」
「別に」
「なら、服を離して欲しいんだけど」
「……」
花音は何も言わない。
けれど、その強気なはずの碧い瞳が、心なしか不安げに揺れているように見えた。
「んー……わかった。ここでやるから」
「ん」
小さく頷く花音の隣に、僕は腰を下ろした。
意外に花音は寂しがり屋だ。それを言葉に出すことはほとんど無いけれど。
≪中学生≫
中学生になり、男女を意識する年頃になると、僕と花音の関係は格好の揶揄いの対象になった。
特に、昔からの癖で、花音が「寒い」と言って僕の手を繋いでくるのを見られた時は。
「ひゅーひゅー。手なんか繋いじゃって。陽人、やっぱお前らって付き合ってんの?」
「付き合ってないよ」
「じゃあ、なんで手繋いでるんだよ」
「彼女、寒がりだから」
「なんだよそれ。そんなんで手、繋ぐか?」
「昔からそうなんだよ」
「そんなもんなのか?ま、いいや。じゃあな、陽人」
「うん」
最初に揶揄われた時、昔からそうだったので特に意識していなかったが、確かにこのくらいの年頃の男女では奇妙な光景かもしれないと思い返した。
「さっきはああいったけど、僕らも中学生になったし、手繋ぐのはおかしかったかもね」
「なんで?」
「なんでって……僕たちは付き合ってるわけでもないのに」
「付き合うって、なに?」
「えっと……手を繋いだり、抱きしめ合ったり、キスしたりする仲、かな?」
「今と一緒」
「それ、幼稚園の頃の話も混ざってるよね」
「でも、全部した」
少し曖昧になっている部分はありつつも、誰よりも記憶力のいい花音がそういうのならそうなのだろう。
僕はそれを一つずつ解きほぐして説明するか否かを天秤にかけ、もう少し先になれば理解してくれるだろうと先送りをすることにした。
「うーん。この話題はちょっと僕らに早すぎたみたいだ。でも、また揶揄われるよ?それは嫌じゃないの?」
「別に」
「手袋、僕の貸してあげようか?」
「このままでいい」
花音はなぜか、手袋を片方だけ失くす名人だった。
あまり物にこだわるタイプでもないが、プレゼントしてもまた無くす。そして、寒いと言って手を繋いだ後、そのまま僕のポケットに手を入れてくるのだ。
一度だけ、どこで失くすのかと聞いたことがある。
花音は少し間を置いてから、「わからない」とだけ答えた。
その時の、ほんの少し目を逸らした横顔が、なぜか今でも記憶に残っている。
「そっか。じゃあ、このままいこうか。もし、いつかまた止めたくなったら言ってね?」
「ん」
ちなみに、以前ポケットの無い上着を着て行った時、不機嫌な顔で穴を開けられそうになったので、それ以来僕の上着は全てポケットがついているものになった。
花音のわがままに付き合い続けた結果だ。
それでも不思議と、嫌だと思ったことは一度もない。
繋がれた手から伝わる温かさが、いつの間にか僕にとっても——当たり前のものになっていたから。
≪高校一年生≫
高校生になって、告白したり、付き合ったりという話をよく聞くようになった。
それこそ、花音は毎日のように誰かに告白され、そして同じく毎日のように断っていた。
でも、恋愛に興味がないのかと思えば、友人に借りた恋愛漫画を熱心に読んでいることもある。
ただ、以前聞いたところによると別に面白くて読んでいるわけではなく、知りたいから読んでいるだけらしい。
「陽人」
「なに?」
「今日、また告白される」
いつからか、花音は告白の手紙が入っていた時は必ず僕に報告するようになっていた。
別に必要ないと伝えても、花音は止めることなくそれを続けている。
もしかして何か、教材としている恋愛漫画に書いてあったのだろうか。
「そうなんだ」
「そう」
「それで?今回は良さそうな人だった?」
「わからない。名前、覚えてないから」
「そっか」
花音は覚える気がないものをとことん覚えない。
それでも、人伝や、手紙だけではなく、面と向かって伝えようとする相手にはきちんと毎回対応する。
花音なりの哲学というのか、そんな律儀さが、僕は好きだった。
「帰り、少し待ってて」
「わかった」
「帰っちゃ、ダメ」
「わかったって」
「ほんとに?」
「ほんとだから」
「なら、いい」
最初に報告を受けた時、その人と付き合うものだと勘違いして先に帰ってしまってからは、花音はしつこいくらい釘を刺すようになった。
一度もそんなことを言ってこなかった花音が、初めて告白の場所と時間まで伝えてくるから、てっきりその相手と付き合う気になったのかと思ってしまった。
だから、心のざわめきに見て見ぬふりをして、気を回して先に帰ったというのに。
あの時機嫌を直すのに、どれだけ苦労したことか。花音の言葉は、いつだって足りなすぎるのだ。
≪高校二年生≫
高校も二年目になったが、相変わらず花音は毎日のように告白されている。しかも、花音の噂は違う高校の人達にまで知れ渡っているようだった。
でも、いまだに花音は毎日僕と帰っている。
今では、花音のお眼鏡に叶う人は本当にいるのだろうかという気持ちにすらなってきていた。
「また、断ったんだ。好きなタイプとかはないの?」
「……優しい人」
「花音にしては抽象的だね。例えば?」
「……」
「わからないか。じゃあ、僕はどうだろう?少しは脈がありそう?」
だから、少し魔が差したのだろう。
冗談か、本音か。自分でもよくわからない質問を、気づけば投げかけていた。
「付き合わない」
即答だった。
僅かばかりの躊躇も、そこには無かった。
「ははっ、手厳しいな」
そうやって笑って見せることが、今の僕にできる最善だった。
いつも通りの花音に、いつも通りの僕を返す。
このかけがえのない日常を、もう少しだけ繋ぎ止めるために。
「でも、好き」
不意打ちだった。
笑いで流そうとしていた思考が、止まった。
迷いがなかった。
返答を探すそぶりも、目を逸らすそぶりも、一切ない。
花音はただ、当然の事実を述べるように、世界にひとつだけの定理を確認するように、こちらを見ていた。
ただ、それが反対に、ひどく花音らしくて——だから余計に、本気にできなかった。
「……慰めてくれてありがとう。いつか、良い人が見つかるといいね」
自分の声が、酷く遠くに聞こえた。
期待と落胆、まだこんな子ども染みた感情を抱えていたなんて。
「心配ない」
「そっか。まあ、花音はモテるし僕が気にするまでも無かったか」
「ん」
「きっと、君が選ぶ人はとても素敵な人なんだろうね」
「それは、自信がある」
そう言って胸を張って得意げな顔をする花音の仕草はとても可愛らしく感じられた。
しかし、やっぱり僕ではダメだったようだ。
……妹のように。そう自分に言い聞かせながら、どこかそれが正しくないことも分かっていた。
前世で三十年、誰かのことをこんな風に考えたことはなかったのだから。
——でも今は、それが幼馴染としての意味でも好きと言って貰えたことを誇ろう。
それこそ、花音が家族以外にその言葉を言っているところは、長い付き合いの僕ですらまだ一度も聞いたことが無かった。
≪高校三年生≫
高校も三年目になり、皆が進路のことを具体的に考えるようになった。
僕は、前世の積み重ねもあるので、成績がいい。
それに、自分で言うのもなんだが説明も上手い方なので、友達はもちろん、今までほとんど話したことのなかったクラスの女の子に頼られることも増えた。
まあ、色恋沙汰には全く影響ないのでどちらでも変わりはないのだけれど。
「陽人君、もしよかったら放課後に勉強教えてよ」
「ぜんぜんいいよ」
休憩時間、クラスの女の子から頼まれ、自分も暇だったので快諾する。
「あっ、花音ちゃんには先に話通してあるから安心して」
「別に花音に話通さなくてもいいよ?先に帰ってと伝えればいいんだし」
帰りはいつも一緒だからだろう。
毎度枕詞のように付けられるその言葉を、同じく毎度のようにやんわり訂正する。
「それはダメ。後が怖いし。ほら、今もこっちずっと見てるじゃん」
言われてそちらを見ると、確かに花音がこちらをジッと見つめていた。
ただ花音の目の前にいる友達は苦笑するばかりで、特段気にしてなさそうなことに安心する。
花音は昔のように一人じゃない。その交友関係は狭くとも、一緒に帰る相手も、遊んでくれる相手も……僕以外の理解者が確かにいるのだ。
それに、恋愛関係に発展しないだろう僕達が、いつか訪れる別れのために、離れる機会を作ったほうがいいとも最近は思っていた。
「僕、なんかしたかな」
心当たりはない。
今朝迎えに来た時も、登校中も、昼食の時も、特段変なところはなかったはずだ。
ただ、今でもまれに花音の行動を予想できないことはあるので、絶対の確信というまでには至らなかった。
「相手が男の子じゃないからでしょ?」
「なるほど、確かに僕が女の子と話してるの珍しいよね。モテないし」
前世は弟妹の面倒で手一杯だったし、今世は精神年齢から来る距離感のせいか、そういった気持ちもあまり湧かない。
客観的に見て並程度の外見の僕にとって、待っているだけで得られるものはないというのも当然の帰結だと思っていた。
「あー……まぁ、うん。違うけど、いいや。気にしないで」
「そう?まあいいや。じゃあ、今日の放課後、図書室でいい?」
「ありがとう!ほんと助かるよ」
歯切れの悪い返事に、気を遣われたかなと話を流す。
そして、その日の放課後の勉強会。いつも通り花音は僕の隣に座っていた。
彼女は所謂天才タイプなので誰かに説明することはできなかったけれど。
それでも、三時間ずっと隣を離れることはなかった。
帰り道、「先に帰ってもよかったのに」と伝えると、花音は少しの間沈黙してから、「……他に大事な用もないから」とだけ答えた。
どうやら、花音は暇らしい。
僕なら先に帰るのになと思いつつ、花音と離れる機会を作るのも難しそうだと、苦笑した。
≪現在≫
終業式も今日で終わり、明日から高校最後の冬休みが始まる。受験勉強は順調なのでそれほど心配はしていない。
夜、勉強の休憩がてらベッドで横になりながらテレビをつけると、華やかなクリスマスイベントの番組が流れていた。
「そっか。明日は、クリスマス。それに、誕生日だ」
我が家は、そういった行事を盛大に祝う家ではないので、すっかり忘れていた。
それこそ、毎年花音から貰うプレゼントで初めて気づくことも多いくらいだ。
「去年は、確か志望大学の赤本だったっけ。ふふっ、実用的でいかにも花音らしいや」
花音は、お洒落なアクセサリーや流行りの小物には見向きもしない。いつだって実用一辺倒だ。
それでも、花音が僕のために真剣に選んでくれた姿を想像するだけで、心がひだまりのように温かくなる。プレゼントの本当の価値は、物そのものではないのだと花音のおかげで改めて理解することができた。
「今年は何をくれるのかな。手袋は絶対にくれないだろうけど」
そんなことをぼんやりと考えていると、どうやら微睡みの底に落ちてしまっていたらしい。
けたたましく連続して鳴るインターホンの音で、弾かれたように目を覚ました。
「なんだろう。今日は、父さんも母さんも夜勤で帰ってこないはずだけど」
時間を見ると、ちょうど午前零時。誰かが尋ねてくるにしてはあまりにも非常識な時間だ。
訝しみながらモニターのボタンを押した僕は、映し出された映像に息を呑んだ。
「……花音っ!?」
画面の向こう側。
傘もささず、降りしきる雪の中で肩を震わせて佇んでいるのは、紛れもなく花音だった。
蜂蜜色の髪に積もった雪が、街灯の光にかすかに輝いている。
その小さな肩が、静かに、静かに震えていた。
「待ってて、すぐ開けるから!」
慌ててドアを開けると、凍てつく夜の空気がどっと部屋の中へ流れ込んでくる。
花音の頬は寒さで赤く染まり、長い睫毛には溶けかけた雪の粒が光っていた。
そして玄関の前には、踏み固められた雪の跡。
——いったい、どれくらいここで待っていたのだろう。
「どうしたの、こんな時間に! 早く中に入って!」
リビングに花音を座らせ、大急ぎで温かいココアを淹れる。
マグカップを受け取った花音の白い指先は、氷のように冷え切っていた。
「いつもは十時には寝てるのに……何かあったの?」
「……これ、渡したくて」
静かな一呼吸。すると、花音は鞄から一枚の紙を取り出した。
本人は傘すらさしていなかったというのに、その紙は封筒に包まれ、さらに防水ケースに大事に、大事に入れられていた。
「なに、これ?」
「婚姻届」
「……ええっと、なんだって?」
「婚姻届」
見慣れない、けれど意味だけは嫌でも理解できるその公的な書類には、花音の欄が既に完璧に記入されていた。
よく見ると、書類の端がほんのわずかに擦り切れていることに気づく。
折り目は繰り返し開かれたことで完全にくたびれて、封筒もまた角が少し白っぽくなっている。
何度も取り出して、確認して、また仕舞って。そんな動作が目に浮かぶほどに、その紙は長い時間をかけて大切に扱われた痕跡を持っていた。
冗談にしては、手が込みすぎている。
どころか——これは、きっとずっと持ち歩いていたものなのだろう。
「…………どうして、婚姻届なの?」
「もう、結婚できるから」
視線の先には時計。
確かに僕は今日で十八歳になった。法律上は、可能な年齢だ。
「…………待って。前、僕とは付き合わないって言ってなかったっけ?」
予想外すぎる出来事。寝起きということも相まって頭が全く回らない。
他に聞くべきことは山ほどあるはずなのに、なんとかその言葉だけを絞りだした。
「言った」
「じゃあ、どうして?」
「結婚しないとは言ってない」
花音らしい、あまりにも突拍子もない論理に、僕は思わず天を仰いだ。
「付き合うのはダメで、結婚するのは良いの?」
「本を読んでも、付き合うことの定義がよくわからなかった。始まりと終わりが曖昧で、不確実だから」
「……あーなるほど。花音らしいね」
「ん」
確かに、何度か聞かれたことはあった。
小説も、漫画も、映画も、作品によって付き合うタイミングや流れは違って、言葉すらもないまま事実になっていることもある。それなら、どうしたら付き合ったといえるのかと。
だからといって、いきなりゴール地点に旗を立てる人間がどこにいるのか。
「でも、結婚とか……そんな素振りや言動、今まで見せなかったよね?」
「………………」
裏切られたとでもいうような、責めるような眼差し。
必死に記憶を手繰るも、やっぱり思い当たる何かを見つけることはできなかった。
「……好きって言った」
「え、と。それだけ?」
「好きって言った!」
滅多に見かけることはない、興奮で紅潮した顔。
机が揺れ、マグカップが僅かに音を立てる。
僕は、ただ頷くことしかできなかった。
「……私は、それを家族にしか言わない」
まっすぐに見つめてくる碧い瞳。
……そうか。花音のことはよくわかっているつもりだったが、どうやら、まだまだ分かっていなかったようだ。
あまりのことに深い溜息が漏れる。
「………………ダメなの?」
こちらの反応を勘違いしたのだろう。
不安そうに見上げてくる碧い瞳が、かすかに潤んでいる。
らしくない、か弱い表情に胸を突かれる。
「いや……嬉しいよ。うん、すごく嬉しい。僕も、花音のことが大好きだから」
張り詰めていた肩の力が抜ける。長い睫毛が、かすかに震える。
指先がマグカップをぎゅっと握りしめて——そして。
長い付き合いのなかで初めて見る笑顔だった。
泣き出しそうで、本当に嬉しそうで、どこか恥ずかしそうな。
花音がこんな顔をできることを、僕は知らなかった。
「……………………………………嬉しい」
「でも、まずはお互いの両親に説明しなきゃね」
「私はした」
「……え?あの気難しいおじさんがよく許したね?」
「今後の人生計画をプレゼンして、毎日説得したから。最初は怒ってたけど、諦めた」
「……ちなみに、いつから言ってたの?」
「結婚のやり方がわかった日から、ずっと」
中学の頃、花音が誇らしげに告げてきたことがある。
「結婚のやり方が、わかった」と、子供特有の無邪気さで、でもどこか確信を持った顔で。
あの頃の僕には、それが何を意味するかなど、まるでわからなかった。
(あれから、ずっと……か。)
その途方もない一途さに、僕はもう、降参するしかなかった。
素直に喜ばせてくれないのは、逆に花音らしいと思うほかない。
「これからも、よろしくね」
「ん。陽人は、いつも私のわがままを聞いてくれる」
安堵したのか、花音がゆっくりと首を傾けながら眠そうに目をこすり出した。
深夜零時過ぎ。いつも規則正しい花音にとって、起きていられる限界の時間はとうに過ぎている。
まさか、寝てしまわないようにずっと外で待っていたなんてことはないと、恐ろしくて聞くことはできなかった。
「さすがに泊りは怒られちゃうから今日は送っていくよ」
「……」
「明日も会いに行くから」
「……」
「毎日行くよ」
「……なら、いい」
その同意の言葉とは反対の不満げな顔。
でも、僕が譲ることがないことを理解したのだろう。
せめてもの反抗とばかりに婚姻届をこちら側に押しやると、証人のところに僕の親の名前が書いてあることを見せつけて立ち上がった。
二人同時に夜勤なんて珍しいと思っていたが……どうやら、僕以外は全員グルだったらしい。
「ははっ。わかったから」
「ん」
上着を羽織り、扉を開けると、外は震えるような寒さだった。
白い吐息が漏れ出るのを見ていると、慣れた手つきで花音の手がするりと僕の手を取り、そのままポケットに入り込んだ。
「花音は手を繋ぐの好きだよね」
「嫌いじゃない」
「僕のことは?」
「…………好き」
「ふふっ」
雪の積もった道を歩く音が、誰もいない夜の道に響く。
いつかは、この雪も溶けて消えてしまうだろう。
二人で歩いた証も、見えなくなってしまうかもしれない。
でも、僕らは離れ離れになることはないと確信がある。
もちろん、理屈は無いし、根拠だって曖昧だ。
ただ、繋いだ手の温もりは本物で、幼い頃から続いた花音の「好き」に終わりはない。
——それだけが、確かだった。
しばらく歩いて、花音が不意に口を開いた。
「……陽人」
「なに?」
「蟻みたい」
白い吐息の向こう、二人分の足跡が雪の上に続いている。
はぐれないように、ちゃんと並んで。
「……そうだね」
僕は笑って、繋いだ手を少し強く握り返した。
別短編があるため興味のある方はご覧ください。
①桐谷家のエピソード
『似てない二人は、とてもよく似ている』
https://ncode.syosetu.com/n9138hl/
②中学時代の同級生視点のエピソード
『初恋の人の隣には、いつだってその幼馴染がいた』
https://ncode.syosetu.com/n3185hl/




