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ずっと一緒にいた幼馴染は、どうやら僕とは付き合わないらしい

ずっと一緒にいた幼馴染は、どうやら僕とは付き合わないらしい

作者: A
掲載日:2022/01/24

 


 僕、丸山 陽人(まるやま はると)には幼馴染がいる。

 名前は桐谷 花音(きりたに かのん)


 イギリス人の母を持つ花音は、その血を色濃く受け継いでいた。


 陽の光を溶かし込んだような蜂蜜色の髪。

 静かな湖面を思わせる澄み切った碧い瞳。

 触れたら壊れてしまいそうなほど白い肌。


 どこか近寄り難い美しさがあった。

 まるで、ガラスケースの中に飾られたビスクドールのように。


 けれど、本人はその見た目にほとんど関心がなかった。

 髪が綺麗だと言われても、目が綺麗だと言われても、少し首を傾げるだけだった。


「そう」


 それで終わり。

 褒められて照れるでもなく、喜ぶでもなく、本当にただ、聞いた言葉を受け取っただけの顔をする。


 そんな花音は、昔から人付き合いが苦手だった。


 嘘を言わない。

 思っていないことも言わない。

 分からないことは分からないと言うし、嫌なことは嫌だと言う。


 それはきっと、とても誠実なことなのだけれど、子ども同士の世界では、扱いが難しかった。


 だから、初めて会った日。

 花音は一人でいた。


 いや、もしかすると。

 僕が気づくよりずっと前から、花音は一人でいることに慣れていたのかもしれない。












 

 あの日、まだ幼稚園に通っていた僕は、怪我をしないように見守りつつ友達と遊んでいた。


 そして、ふと砂場のほうを見た時だった。

 その隅で、小さな背中が一人、地面を見つめていた。


 周りでは子どもたちが笑い声を上げながら走り回っている。

 砂場では山が作られ、滑り台の前では順番を巡って小さな言い合いが起きていた。


 その中で、彼女だけが輪の外側にいた。

 最初からそこにいたみたいに、静かに座っていた。

 

(……またひとりか)

 

 お節介かもしれない。

 そう思いつつも、僕はゆっくりとそちらへ近づいた。


 目立つ容姿のせいで浮いてしまったのかもしれない。

 それとも、ただ一人でいたかっただけなのかもしれない。


 どちらにしても、気になった。

 放っておけなかった、という方が近いかもしれない。


 誰かが輪の外にいると、どうしても目が向いてしまう。

 それはもう、ほとんど癖のようなものだった。

 

「何してるの?」 


 驚かせないように声を抑えて問いかける。

 けれど、彼女は顔を上げなかった。


 しばらく沈黙が続く。

 拒絶の意思は感じられないその透明な雰囲気に、聞こえなかったかと逡巡したその時。


 風にかき消されてしまいそうなほどに小さな声で「蟻」とだけ、つぶやきが漏れた。


「蟻だね」

「…………」

「楽しい?」

「……別に」


 取り付く島もない。

 視線は一切こちらを向くことはなく、地面の黒い点々の行列に固定されたままだ。


 何度か他の子が話しかけている姿を見たことはあったけれど、なるほど、ここらへんでみんな困ってしまったのだろう。

 僕も苦笑しながら、もしかしたらこれはいらぬ世話かもしれない、と考えた。

 けれど。


「蟻が、どうして仲間とはぐれないか知ってる?」


 その一言に、小さな肩がぴくりと震えた。

 初めて、彼女が僕の方を振り返る。少し釣り上がった碧い瞳が、僕を射抜いた。

 顔の造作が整いすぎていることもあって、冷たくも見えるその顔。

 でも、その奥には、確かな好奇心の光が揺らめいているのが窺えた。

 

(なるほど、こういう話が好きなのか)


 膝を折って隣にしゃがみ込むと、目線を合わせて知っていることを教えてあげる。


「蟻はね、自分たちにしか分からない匂いを地面に付けながら歩くんだ。道しるべみたいなものさ。だから、例えば――」


 僕は指で、蟻の行列の途中にある土をほんの少しだけすくって、横へずらした。


 すると、それまで綺麗に並んで歩いていた蟻たちは、途切れた匂いの前で右往左往し始める。

 列は、あっけなくほどけていった。

 

「どう?」

「興味深い」


 しばらく、彼女はその混乱した蟻たちをじっと眺めていた。

 それから、おもむろに小さな指を伸ばす。

 僕が動かした土を、もとあった場所へそっと戻した。


 蟻たちが、少しずつ列を取り戻していく。

 彼女は何も言わなかった。

 ただ、元に戻るまで、静かに見守っていた。


「戻してあげたんだ」

「はぐれると、困るから」

「そっか」


 その言葉に、顔が自然と緩む。

 自分から輪に入るのは苦手でも。

 はぐれてしまうことを、何とも思わない子ではないのだ。


「こういうの、好きなの?」

「嫌いじゃない」


 きっと、それが彼女なりの肯定だった。


 春の日差しの中、砂場の隅に二つの影が並んでいた。


 しばらくして友達が呼びに来たので、僕は立ち上がった。

 「またね」と声をかけると、彼女は何も言わなかった。

 ただ、僕が離れる方向を、最後まで静かに目で追っていた。


 これが、僕と花音の出会い。

 そして、この関係がなんだかんだ今なお続いているのは、きっと僕の生まれが特殊であることも関係しているのだろう。








 十二月二十五日。

 クリスマスの日に、僕は生まれた。


 そして僕には、生まれた時からみんなとは違う記憶があった。

 前世の記憶、というやつだ。


 前の人生で、僕はごく普通の家庭に生まれ、六人きょうだいの長男として育った。

 弟や妹の面倒を見て、喧嘩を仲裁して、誰かの泣き声を聞けば自然とそちらへ向かうような、そんな毎日だった。


 その人生は三十歳の誕生日に、雪の日の事故で終わった。


 だから今の僕は、同い年の子たちより少しだけ我慢強かった。

 少しだけ、周りを見る癖があった。


 花音の言葉の少なさも、表情の動かなさも、最初から怖いとは思わなかった。

 むしろ、分かりやすかった。


 花音は、嘘をつかない。

 興味があるものには、ちゃんと目を向ける。

 大事なものは、大事にする。

 ただ、それを言葉にするのが苦手なだけだ。


 その不器用さに振り回されることは、まあ、何度もあったけれど。


 僕は昔から、そんな花音のことが嫌いではなかった。

 いや。


 たぶん、ずっと好きだった。

 








 

≪小学生≫


 小学生の頃、花音の類稀なる容姿は、男子たちの格好の的だった。

 それはきっと、幼いなりの好意の裏返しで、ある種の愛情表現だったのだろう。


 もっとも、花音にそれが通じるはずもなかった。


「やーい、生意気女! 相変わらず変な髪!」

「…………」

「おい、何とか言えよ!」

「……変なんていう色はない」

「そ、そういう意味じゃねえよ!」

「じゃあ、どういう意味?」

「えっ」

「説明できないの?」

「うるさい!」


 からかっているつもりの相手に、花音は真正面から質問を返す。

 悪気はない。たぶん、本当に分からないだけだ。

 けれど、その真っ直ぐさは、いつも相手の逃げ道をきれいに塞いでしまった。


「二人ともどうしたの?」

「こいつがっ!」

「先に言ったのはあっち」


 危ない場面も度々あって、そんな時は僕が割って入るのが常だった。

 前世でも、弟妹たちが揉めるたびに間に入り続けた。

 気づいたら誰かを宥めている——どうやら、生まれ変わっても性分は変わらないらしい。


(あまり、干渉しすぎるのはよくないんだろうけど)


 先ほどまでの大きな声は、廊下まで聞こえていたのだろう。教師が何事かと覗き込む。

 しかし、僕と視線が合った瞬間に苦笑して去ってしまったので、どうやらこの場は僕が収める役割らしかった。


 先生まで僕に任せるのはどうかと思う。

 まあ、前世込みで考えれば、たしかに適任なのかもしれないけれど。


「まあまあ、仲良くしようよ。ほら、皆で遊べるクイズゲームを考えてきたんだ」

「なんだよ、陽人。邪魔すんなよっ!」

「ほら、女子に喧嘩で勝っても嬉しくないし、親に怒られる。だから、これで勝負だ。君の得意なサッカー選手とかの問題もあるんだよ?」

「……それもそうだな。わかった」

  

 この子の親は、そういう親だ。

 その嫌そうな顔の裏では怒られる情景が目に浮かんでいたのだろう。


 子どもの怒りは、案外すぐに別のものへ移る。

 目の前に面白そうな遊びが出てくれば、なおさらだった。


「花音もそれでいいよね? こういうの、好きでしょ?」

「……嫌いじゃない」


 いつもの返事だった。

 でも、花音の目は真っすぐクイズの紙に向いていた。

 つまり、かなり興味があるということだ。


 面白そうな響きに周りの子も興味を示したようで、たくさんの子が集まってくる。

 グループに分かれてやるよう整理しつつ、僕が出題者として少し離れようとした、その時。

 くい、と服の裾が強く引かれた。


 振り返ると、花音が無言でこちらを見つめていた。

 その手は、僕の裾をしっかりと、けれどどこか縋るように握っていた。


「どうしたの?」

「別に」

「なら、服を離して欲しいんだけど」

「……」


 花音は何も言わない。

 けれど、その強気なはずの碧い瞳が、心なしか不安げに揺れているように見えた。


「あー……わかった。ここでやるから」

「ん」


 小さく頷く花音の隣に、僕は腰を下ろした。

 すると、裾を掴んでいた指の力が、ほんの少しだけ緩んだ。


「じゃあ第一問。ワールドカップで——」

「それ、知ってる!」

「まだ問題の途中だよ」

「早押しだろ?」

「早すぎるんだよ」


 周りの子たちが笑う。

 花音はその中で、静かにクイズの紙を見つめていた。


 やがて、僕が動物の問題を出すと、花音がぽつりと答えた。


「ゴリラ・ゴリラ・ゴリラ」

「あははっ、なにそれ。ゴリラだよ」

「あー、うん。花音が言ってるのは、たぶん学名のほうだね」

「えー? そうなのっ!?」


 僕がそう言うと、周りが驚く。

 花音はそれを気にした様子もなく、じっとこちらを見つめていた。


「よく知ってたね」

「陽人がくれた図鑑にのってた」


 ほんの少し、自慢げな顔。


 花音は、寂しいとは言わない。

 でも、平気なわけではないのだ。

 ただ、寂しいと伝える方法を、まだ知らなかったのだと思う。


 裾を掴む小さな指が、それを教えてくれていた。


 だから僕は、その日からできるだけ、隣を空けておくようになった。

 本人に言えば、たぶん素っ気ない返事が返ってくるだろう。

 それでも、その空白はいつの間にか、花音の場所になっていた。


 



≪中学生≫


 中学生になり、男女を意識する年頃になると、僕と花音の関係は格好の揶揄いの対象になった。

 特に、昔からの癖で、花音が「寒い」と言って僕の手を繋いでくるのを見られた時は。


「ひゅーひゅー。手なんか繋いじゃって。陽人、やっぱお前らって付き合ってんの?」

「付き合ってないよ」

「じゃあ、なんで手繋いでるんだよ」

「彼女、寒がりだから」

「なんだよそれ。そんなんで手、繋ぐか?」

「昔からそうなんだよ」

「そんなもんなのか? ま、いいや。じゃあな、陽人」

「うん」


 最初にからかわれた時、初めてそのことを意識した。

 昔からそうだったから、特別だと思ったことはない。

 けれど、確かにこの年頃の男女が当然のように一緒にいる光景は、周囲から見れば少し奇妙なのかもしれなかった。


 繋いだ手の先では、花音が何事もなかったように前を向いている。

 いつも通りの顔。

 ただ、僕が手を離そうとすると、指に力が入った。

 

「さっきはああいったけど、僕らも中学生になったし、手繋ぐのはおかしかったかもね」

「なんで?」

「なんでって……僕たちは付き合ってるわけでもないのに」

「付き合うって、なに?」

「えっと……好きな人同士が、特別に一緒にいたりすること、かな」

「特別?」

「うん。手を繋いだり、二人で出かけたり」

「今と一緒」

「……たぶん、花音が思ってるのとは違うかもしれない」

「違わない」


 花音はきっぱりと言った。

 その声に迷いはなかった。


 手を繋いだこともある。

 一緒に帰ったこともある。

 隣にいることが、当たり前になっている。


 ただ、それが世間でいう「付き合う」と同じなのかどうかは、また別の話だ。


 僕はそれを一つずつ解きほぐして説明するか否かを天秤にかけた。

 けれど、真顔でこちらを見上げる花音に向かって、今それを説明しきれる自信はなかった。


 もう少し先になれば、花音にも分かるかもしれない。

 あるいは、僕のほうが分かるのかもしれない。


 だから、その話は一旦、冬の空気の中に置いておくことにした。

  

「まあ、今はいいか。でも、また揶揄われるよ? それは嫌じゃないの?」

「別に」

「手袋、僕の貸してあげようか?」

「このままでいい」


 花音はなぜか、手袋を片方だけ失くす名人だった。

 あまり物にこだわるタイプでもないが、プレゼントしてもまた無くす。

 そして、寒いと言って手を繋いだ後、そのまま僕のポケットに手を入れてくるのだ。


 一度だけ、どこで失くすのかと聞いたことがある。

 花音は少し間を置いてから、「わからない」とだけ答えた。

 その時の、ほんの少し目を逸らした横顔が、なぜか今でも記憶に残っている。


「そっか。じゃあ、このままいこうか。もし、いつかまた止めたくなったら言ってね?」

「ん」


 花音は納得したような、していないような顔で頷いた。

 僕は笑って、ポケットの中の手を握り直す。


 花音の手は、最初はいつも冷たい。

 けれど、しばらく歩いていると、少しずつ温かくなっていく。

 眠くなると、熱くなる。

 その変化が分かるくらいには、僕たちは長い時間、同じ歩幅で歩いていた。


 ちなみに、以前ポケットの無い上着を着て行った時、花音は不機嫌そうな顔で僕の上着を見つめた。

 

「入れる場所がない」

「今日は手袋あるでしょ」

「片方しかない」

「また? なら、我慢するしかないね」


 しばらく考えた花音は、真顔で言った。


「穴を作ればいい」

「……えっと、服に?」

「ん」

「だめだよ」


 それ以来、僕の上着は全てポケットがついているものになった。

 花音のわがままに付き合い続けた、というより。

 いつの間にか、僕の冬服が花音仕様になっていた。


 それでも不思議と、嫌だと思ったことは一度もない。


 繋がれた手から伝わる温かさが、いつの間にか僕にとっても——当たり前のものになっていたから。


 冬の帰り道。

 白い息。

 ポケットの中で、少しずつ温かくなっていく花音の手。


 それはたぶん、僕にとっても寒い日の居場所みたいなものだった。






≪高校一年生≫


 高校生になって、告白したり、付き合ったりという話をよく聞くようになった。

 それこそ、花音は毎日のように誰かに告白され、そして同じく毎日のように断っていた。

 

 だから、恋愛に興味がないのだと思っていた。


 けれど、友人に借りた恋愛漫画を、妙に真剣な顔で読んでいることがある。

 以前、面白いのかと聞いたら、花音は少しだけ不思議そうな顔をした。


 面白いから読んでいるわけではない。

 知りたいから読んでいるだけなのだという。


 花音らしいと思う。

 分からないものを、分からないままにはしない。

 ただし、分かった結果が世間と同じになるかどうかは、また別の話だった。


「陽人」

「なに?」

「今日、また告白される」


 いつからか、花音は告白の手紙が入っていた時は必ず僕に報告するようになっていた。

 別に必要ないと伝えても、花音は止めることなくそれを続けている。

 もしかして何か、教材としている恋愛漫画に書いてあったのかもしれない。


「そうなんだ」

「そう」

「それで?今回は良さそうな人だった?」

「わからない。名前、覚えてないから」

「そっか」


 花音は覚える気がないものをとことん覚えない。

 けれど、手紙はちゃんと読む。

 呼び出されれば、ちゃんと行く。

 断る時も、相手の目を見て、短く、けれど誤魔化さずに答える。


 そういうところは、昔から変わらない。

 花音なりの律儀さが、僕は好きだった。


「帰り、待ってて」

「わかった」

「帰っちゃ、ダメ」

「わかったって」

「ほんとに?」

「ほんとだから」

「なら、いい」


 最初に報告を受けた時、その人と付き合うものだと勘違いして先に帰ってしまってからは、花音はしつこいくらい釘を刺すようになった。


 一度もそんなことを言ってこなかった花音が、初めて告白の場所と時間まで伝えてくるから、てっきりその相手と付き合う気になったのかと思ってしまった。


 だから、心のざわめきに見て見ぬふりをして、気を回して先に帰った。


 その日の夕方、花音は僕の家まで来た。

 玄関の前に立っていた。

 とても、不満そうだった。


「……どうしたの?」

「帰った」

「えっと……僕が?」

「そう」

「ごめん。待ってた方がよかった?」

「……次から、待ってて」

「わかった」


 それ以来、花音は必ず言うようになった。


 帰っちゃ、ダメ。

 ほんとに?

 なら、いい。


 言葉は少ないのに、そこだけはやけに念入りだった。

 告白される相手の名前は覚えていないのに、僕が帰ったことだけは、妙にはっきり覚えている。


 そういうところが、花音は本当に分かりにくい。


 けれど、待っていれば、花音は必ず戻ってきた。

 そして当たり前のように僕の隣に並んで、「帰ろう」と言う。


 そのたびに、僕は心の中で安心していた。

 花音が帰ってくる場所は、まだ僕の隣なのだと。






≪高校二年生≫


 高校も二年目になったが、相変わらず花音は毎日のように告白されている。

 しかも、花音の噂は違う高校の人達にまで知れ渡っているようだった。


 でも、いまだに花音は毎日僕と帰っている。

 今では、花音のお眼鏡に叶う人は本当にいるのだろうかという気持ちにすらなってきていた。


「また、断ったんだ。好きなタイプとかはないの?」

「……優しい人」

「花音にしては抽象的だね。例えば?」

「……」

「わからないか。じゃあ、僕はどうだろう? 少しは脈がありそう?」


 だから、少し魔が差したのだろう。

 冗談か、本音か。自分でもよくわからない質問を、気づけば投げかけていた。


「付き合わない」


 即答だった。

 僅かばかりの躊躇も、そこには無かった。


「ははっ、手厳しいな」


 そうやって笑って見せることが、今の僕にできる最善だった。

 いつも通りの花音に、いつも通りの僕を返す。

 このかけがえのない日常を、もう少しだけ繋ぎ止めるために。


「でも、好き」


 不意打ちだった。

 笑いで流そうとしていた思考が、止まった。


 迷いがなかった。

 返答を探すそぶりも、目を逸らすそぶりも、一切ない。

 花音はただ、当然の事実を述べるように、世界にひとつだけの定理を確認するように、こちらを見ていた。

 ただ、それが反対に、ひどく花音らしくて——だから余計に、どう受け取ればいいのか分からなかった。


「……慰めてくれてありがとう。いつか、良い人が見つかるといいね」


 自分の声が、遠くに聞こえた。

 期待と落胆。

 まだこんな子どもじみた感情を抱えていたことに、自分で驚く。


「心配ない」

「そっか。まあ、花音はモテるし僕が気にするまでも無かったか」

「ん」

「きっと、君が選ぶ人はとても素敵な人なんだろうね」

「それは、自信がある」

 

 そう言って、花音は胸を張った。

 得意げな顔だった。


 その仕草が可愛らしくて、胸の奥が痛んだ。


 僕ではない誰かを、そんなふうに信じているのだろうか。

 そう考えると、笑っているのが少しだけ難しくなった。


 しかし、やっぱり僕ではダメだったようだ。


 ……妹のように。

 そう自分に言い聞かせながら、どこかそれが正しくないことも分かっていた。

 前世で三十年、誰かのことをこんな風に考えたことはなかったのだから。


 それでも、今はこれでいいのだと思うことにした。


 花音は僕を好きだと言った。

 たとえそれが、僕の思う好きと同じではなかったとしても。

 少なくとも、花音がそんな言葉を誰にでも言うわけではないことくらい、僕は知っている。


 それこそ、花音が家族以外にその言葉を言っているところは、長い付き合いの僕ですらまだ一度も聞いたことがなかった。


 だから、その日はそれだけを大事にすることにした。


 帰り道、花音はいつも通り僕の隣を歩いていた。

 白い雲が、ゆっくり空を流れている。


「陽人」

「なに?」

「さっきの」

「さっきの?」

「好きって言ったこと」

「うん」

「全部、ほんと」

「……うん。わかってる」


 どこか様子のおかしい僕を、気にしたのだろうか。

 花音は念を押すように、言葉を重ねた。


 本当は、まだ何も理解できていなかった。

 けれど、花音が冗談で言っているのではないことだけは、ちゃんと伝わっていた。


「なら、いい」


 花音はそう言って、前を向いた。


 その横顔は、いつも通りだった。

 でも僕には、その「いつも通り」が少しだけ眩しく見えた。


 

 


≪高校三年生≫


 高校も三年目になると、進路の話が急に現実味を帯びてきた。

 志望校だとか、模試の判定だとか、推薦だとか。

 教室のあちこちで、そういう言葉を聞くようになった。


 僕は、前世の積み重ね――というより、前世の貯金みたいなものがあるせいで、成績だけはそれなりによかった。

 それに、自分で言うのもなんだけど、人に説明するのもわりと得意だった。


 そのせいで、友達に勉強を聞かれることが増えた。

 それだけなら、別に珍しいことではない。

 けれど三年生になってからは、今までほとんど話したことのなかったクラスの女子にまで頼られるようになった。


 まあ、だからといって色恋沙汰に発展するわけではない。

 僕の人生は、そういうイベントとは昔から縁が薄かった。


「陽人君、もしよかったら放課後に勉強教えてよ」


 特に予定もなかったので、僕はいつも通りに頷いた。


「ぜんぜんいいよ」

「あっ、花音ちゃんには先に話通してあるから安心して」

「別に花音に話通さなくてもいいよ?先に帰ってと伝えればいいんだし」


 帰りはいつも一緒だからだろう。

 こういう時、相手はたいてい同じようなことを言う。

 そして僕も、たいてい同じように訂正する。


「それはダメ。後が怖いし。ほら、今もこっちずっと見てるじゃん」


 言われてそちらを見ると、確かに花音がこちらをじっと見つめていた。

 怒っている、というほどではない。

 けれど、興味がない顔でもない。

 難問を見つけた時のような、どこか真剣な目だった。


 ただ、花音の目の前にいる友達は苦笑しているだけで、特に困っている様子はない。


 花音は、昔のように一人ではない。

 交友関係は広くないけれど、一緒に帰る相手も、放課後に遊べる相手もいる。

 僕以外にも、花音のそばにいてくれる人はちゃんといる。


 それは、いいことのはずだった。


 僕たちは、たぶん恋人にはならない。

 だったら、いつか来る別れに備えて、少しずつ離れる機会を作った方がいい。

 最近は、そんなふうに考えることも増えていた。


 花音が僕以外の誰かと普通に笑っているのを見ると、安心する。

 それと同じくらい、寂しくなる。

 その二つが同時にあることを、僕はまだうまく扱えずにいた。


「⋯⋯僕、なんかしたかな」


 心当たりはない。

 今朝迎えに来た時も、登校中も、昼食の時も、特に変なところはなかったはずだ。


 ただ、花音の行動は、今でも時々読めない。

 だから、何もしていないと胸を張れるほどの自信もなかった。


「相手が女の子だからでしょ?」

「なるほど、確かに僕が女の子と話してるの珍しいよね。モテないし」

 

 前世は弟妹の面倒を見るだけで手一杯だった。

 今世でも、精神年齢のせいか、同級生相手にそういう気持ちが湧くことはあまりない。


 それに、客観的に見て、僕の外見はせいぜい並だ。

 何もしないまま誰かに好かれるほど、都合のいい人生ではないと思っていた。


「あー……まぁ、うん。違うけど、いいや。気にしないで」

「そう?」

「うん。陽人君って、たまにすごいね」

「褒めてる?」

「たぶん違うかな」

「そっか」


 歯切れの悪い返事だった。

 けれど、深く聞き返すのも変な気がして、僕はそこで話を流した。

 

 そして、その日の放課後の勉強会。

 いつも通り花音は僕の隣に座っていた。

 

 彼女はいわゆる天才タイプなので、人に勉強を教えるのはあまり得意ではない。

 それでも、三時間、ずっと隣を離れなかった。


 帰り道、「先に帰ってもよかったのに」と伝えると、花音は少しの間黙ってから、「……他に大事な用もないから」とだけ答えた。


 どうやら、花音は暇らしい。

 そう思いかけて、少しだけ違う気がした。


 たぶん、花音にとっては、僕の隣にいること自体が用事なのだ。

 三時間、退屈そうな顔ひとつせずに待っていられるくらいには。


「でも、三時間は長くなかった?」

「長かった」

「はは。まぁ、そうだよね」


 その横顔はいつも通りで、何も特別なことを言ったつもりはなさそうだった。

 だから僕も、いつも通りに笑った。


「あまり待たせないようにするよ」

「ん」


 小さく頷いた花音が、僕の隣を歩く。


 近すぎるわけでも、離れすぎているわけでもない。

 幼い頃からずっと変わらない距離。


 いつか離れるために、少しずつ慣れておいた方がいい。

 そう思っていたはずなのに。


 気づけば僕は、その距離が変わらないことに、ほっとしていた。


 もう長くはないかもしれない、この時間を。

 僕はまだ、自分から手放すことができなかった。





≪現在≫


 終業式も今日で終わり、明日から高校最後の冬休みが始まる。

 受験勉強は順調で、今のところ大きな不安はない。

 夜、勉強の休憩がてらベッドに寝転がってテレビをつけると、画面の中では華やかなクリスマスイベントが流れていた。


「そっか。明日は、クリスマス。それに、誕生日だ」

 

 我が家は、そういった行事を盛大に祝う家ではない。

 だから毎年、すっかり忘れていることの方が多かった。

 それこそ、花音からプレゼントをもらって、ようやく思い出すくらいだ。


「去年は、確か志望大学の赤本だったっけ。ふふっ、実用的でいかにも花音らしいや」


 花音は、お洒落なアクセサリーや流行りの小物にはほとんど興味を示さない。

 いつだって、選ぶものは実用一辺倒だ。


 それでも、僕のために真剣な顔で棚の前に立っている花音を想像すると、胸の奥がひだまりみたいに温かくなる。

 何をもらったかより、花音が僕のために選んでくれたことの方が、ずっと嬉しかった。


「今年は何をくれるのかな。手袋は絶対にくれないだろうけど」


 そんなことをぼんやりと考えていると、どうやら微睡みの底に落ちてしまっていたらしい。

 けたたましく連続して鳴るインターホンの音で、弾かれたように目を覚ました。


「なんだろう。今日は、父さんも母さんも夜勤で帰ってこないはずだけど」


 時計を見る。

 ちょうど、午前零時だった。


 誰かが訪ねてくるには、あまりにも非常識な時間だ。

 訝しみながらモニターのボタンを押した僕は、そこに映し出された姿に息を呑んだ。


「……花音っ!?」

 

 画面の向こう側。

 傘もささず、降りしきる雪の中に立っていたのは、紛れもなく花音だった。


「待ってて、すぐ開けるから!」


 慌てて玄関へ走り、ドアを開ける。

 凍てつく夜の空気が、どっと家の中へ流れ込んできた。


 花音は、すぐそこにいた。


 蜂蜜色の髪には雪が積もり、街灯の光を受けてかすかに輝いている。

 白い頬は寒さで赤く染まり、長い睫毛の先には、溶けかけた雪の粒が光っていた。


 玄関先の雪には、踏み固められた跡が残っている。

 いったい、どれくらいここで待っていたのだろう。


「どうしたの、こんな時間に! 早く中に入って!」


 花音をリビングに座らせ、大急ぎで温かいココアを淹れる。

 マグカップを受け取った花音の指先は、氷みたいに冷え切っていた。

 僕は小さく息を吐き、ブランケットを花音の肩にかける。


「いつもは十時には寝てるのに……何かあったの?」

「……これ、渡したくて」


 静かな一呼吸のあと、花音は鞄から一枚の書類を取り出した。

 本人は傘すらさしていなかったというのに、それだけは封筒に包まれ、さらに防水ケースの中へ大事に、大事にしまわれていた。


「なに、これ?」

「婚姻届」

「……ええっと、なんだって?」

「婚姻届」


 見慣れない。

 けれど、意味だけは嫌でもわかる公的な書類。

 そこには、花音の欄がすでに完璧に記入されていた。


 書類の端は、ほんのわずかに擦り切れている。

 折り目も、封筒の角も、何度も開いてはしまったのだとわかるくらい、少しくたびれていた。


 冗談にしては、手が込みすぎている。

 いや、違う。

 これはきっと、ずっと持ち歩いていたものなのだ。


「…………どうして、婚姻届なの?」

「もう、結婚できるから」


 花音の視線の先には、リビングの時計があった。

 午前零時を少し過ぎている。

 確かに、僕は今日で十八歳になった。


「…………待って。前、僕とは付き合わないって言ってなかったっけ?」


 予想外すぎる出来事だった。

 寝起きということもあって、頭がまったく回らない。

 ほかに聞くべきことは山ほどあるはずなのに、なんとかその言葉だけを絞り出す。


「言った」

「じゃあ、どうして?」

「結婚しないとは言ってない」


 あまりにも花音らしい。

 そして、あまりにも突拍子もない理屈だった。

 僕は思わず天を仰ぐ。


「付き合うのはダメで、結婚するのは良いの?」

「本を読んでも、付き合うことの定義がよくわからなかった」

「定義?」

「始まりと終わりが曖昧で、不確実だから」

「……あーなるほど。花音らしいね」

「ん」


 確かに、何度か聞かれたことはあった。


 小説も、漫画も、映画も、作品によって付き合うタイミングや流れは違う。

 告白して始まることもあれば、言葉すらないまま、いつの間にかそういう関係になっていることもある。


 それなら、どうしたら付き合ったと言えるのか。

 花音は、そんなふうに真剣な顔で聞いてきた。


 だからといって。

 いきなりゴール地点に旗を立てる人間が、どこにいるのだろう。


「でも、結婚とか……そんな素振りや言動、今まで見せなかったよね?」

「………………」


 花音は、じっと僕を見た。

 裏切られたとでも言いたげな、責めるような目だった。

 必死に記憶を手繰る。

 けれど、やっぱり思い当たるものは見つからない。


「……好きって言った」

「え、と。それだけ?」

「好きって言った!」


 珍しく声が跳ねた。

 頬は赤くなり、テーブルが小さく揺れる。

 マグカップの中で、冷めかけたココアがかすかに波打った。

 僕はただ、頷くことしかできなかった。


「……私は、それを家族にしか言わない」


 まっすぐに見つめてくる碧い瞳。

 その瞬間、ようやく分かった。


 花音にとって、あの「好き」は、きっと僕が思っていたよりずっと大きな言葉だったのだ。


 軽い冗談でも、幼馴染の延長でもない。

 花音が大事なものを渡す時にしか使わない、本当の言葉。

 僕はそれを、勝手に受け取り損ねた。

 勝手に、幼馴染の箱へしまい込んでしまっていた。


「……そっか」


 情けなさと、嬉しさが同時に込み上げてきた。

 花音のことはよく分かっているつもりだった。


 でも、まだまだ分かっていなかったらしい。


「………………ダメなの?」


 こちらの反応を勘違いしたのだろう。

 不安そうに見上げてくる碧い瞳が、かすかに潤んでいる。

 らしくない、か弱い表情だった。

 それだけで、胸の奥をぎゅっと掴まれる。


「いや……嬉しいよ。うん、すごく嬉しい」


 自分の言葉が、胸の中にゆっくり広がっていく。

 一度だけ、深く息を吸った。


「僕も、花音のことが好きだよ」


 張り詰めていた花音の肩から、ふっと力が抜けた。

 長い睫毛が、かすかに震える。

 白い指先がマグカップをぎゅっと握りしめて――そして。


 花音が笑った。


 長い付き合いのなかで、初めて見る笑顔だった。

 泣き出しそうで。

 本当に嬉しそうで。

 それなのに、どこか恥ずかしそうで。

 花音がこんな顔をできることを、僕は知らなかった。


「………………嬉しい」

「うん」

「すごく」

「うん」


 ほんの一瞬の笑顔は、すぐにいつもの表情へ戻っていく。

 それでも、完全に元通りではなかった。


 碧い瞳の奥に、さっきの笑顔の余韻がまだ残っている。

 そう思えるくらい、花音の表情は柔らかかった。


「まずはお互いの両親に説明しなきゃね」

「私はした」

「……え? あの気難しいおじさんがよく許したね?」

「今後の人生計画をプレゼンして、毎日説得したから。最初は怒ってたけど、諦めた」

「……ちなみに、いつから言ってたの?」

「結婚のやり方がわかった日から、ずっと」


 中学の頃、花音が誇らしげに告げてきたことがある。


 結婚のやり方が、わかった。


 子ども特有の無邪気さで。

 でも、どこか確信を持った顔で。

 あの頃の僕には、それが何を意味しているのか、まるでわからなかった。


(あれから、ずっと……か。)


 その途方もない一途さに、僕はもう、降参するしかなかった。


 素直に喜ばせてくれないところまで、花音らしい。

 でも、それすら今は、どうしようもなく愛おしかった。

 

「これからも、よろしくね」

「ん。陽人は、いつも私のわがままを聞いてくれる」


 安心したのか、花音の瞼がゆっくり落ちかける。

 眠そうに目をこする仕草は、いつもの花音より幼く見えた。


 深夜零時過ぎ。

 規則正しい花音にとって、起きていられる限界はとうに過ぎている。


 まさか、寝てしまわないようにずっと外で待っていた、なんてことはないはずだ。

 そう思いたい。

 怖くて、聞くことはできなかった。


「さすがに泊りは怒られちゃうから、今日は送っていくよ」

「……」

「明日も会いに行くから」

「……」

「毎日行くよ」

「……なら、いい」


 言葉とは反対に、花音は不満そうだった。

 それでも、僕が譲らないことはわかったのだろう。

 せめてもの反抗とばかりに、婚姻届をこちらへ押しやった。


「預ける」

「いいの?」

「明日、返して」


 空欄になったままの僕のところを見せつけるようにして立ち上がる。

 よくみると、証人のところにはすでに僕の親の名前が書いてあった。

 二人同時に夜勤なんて珍しいと思っていたけれど。

 どうやら、全員グルだったらしい。


 ただ、花音がこんな時間まで外で待っていたと知ったら、さすがに全員そろって慌てる気がする。


「ははっ。ちゃんと、埋めておくよ」

「ん」


 上着を羽織り、玄関の扉を開ける。

 外は、震えるような寒さだった。

 白い息が夜に溶ける。

 それを見ていると、慣れた手つきで花音の手がするりと僕の手を取り、そのままポケットの中へ入り込んできた。


「花音は手を繋ぐの好きだよね」

「嫌いじゃない」

「僕のことは?」

「…………好き」

「ふふっ」


 雪の積もった道を歩く音が、誰もいない夜の道に響く。 

 しばらく歩いて、花音が不意に口を開いた。


「陽人」

「なに?」

「蟻みたい」


 白い吐息の向こう、二人分の足跡が雪の上に続いている。

 はぐれないように、ちゃんと並んで。


「……そうだね」


 あの日の光景が、思い出される。

 初めて会った日。

 僕たちの、始まりの日。 


「はぐれちゃ、ダメ」


 いつか、この雪は溶けてしまうだろう。

 二人で歩いた跡も、朝になれば見えなくなってしまうかもしれない。


 けれど、今はそれでいいと思えた。


 理屈はない。

 根拠だって、曖昧だ。


 それでも、ポケットの中で繋いだ手の温もりだけは本物で。

 幼い頃から続いてきた花音の「好き」は、きっとこれからも変わらない。


「大丈夫」


 僕はそう答えて、ポケットの中で繋いだ手に力を込めた。

 花音の指が、同じ強さで握り返してくれる。


 その手は、もうすっかり温かかった。




別短編があるため興味のある方はご覧ください。

①桐谷家のエピソード

『似てない二人は、とてもよく似ている』

https://ncode.syosetu.com/n9138hl/

②中学時代の同級生視点のエピソード

『初恋の人の隣には、いつだってその幼馴染がいた』

https://ncode.syosetu.com/n3185hl/

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― 新着の感想 ―
なんかほのぼのしていい作品ですね!
[一言] 他の彼氏出来るとかかと思ったら突き抜けてた。 ホッコリさせてもらいました。
[良い点] 下世話な人間、くだらない噂話等々、気分を害するシーンなく物語が紡がれていて素晴らしいです。 [一言] 読了後、とても清々しい気分になりました。 素敵な物語を提供してくださり、ありがとうござ…
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