第三章 決まり字のない場所で
本番当日。
舞台袖から客席を覗いて、真名はすぐに頭を引っ込んだ。
「……多い」
「何が?」
後ろから舞崎莉緒。
「人」
「そりゃいるでしょ」
「知ってるけど」
「真名、緊張してる?」
「してない」
「嘘」
「今日みんな厳しくない?」
莉緒が笑う。
「大丈夫だって」
「何が?」
「真名なら」
あまりに簡単に言うから、真名は拍子抜けした。
「雑」
「信頼ですぅ」
「便利な言葉」
莉緒が先に行く。
その背中を見ながら、真名はもう一度客席を覗いた。
今日。
新しいコンセプト曲が初めて披露される。
そして自分は、フロントに立つ。
◇
「真名」
白藤莉歌が衣装の袖を直しながらやってきた。
「莉歌しゃん」
「顔固いよ」
「莉歌しゃんまで?」
「何人目?」
「ぺぃぴー」
「じゃあ二人目」
莉歌が笑う。
「武器、見つかった?」
前に聞かれた言葉。
真名は少し考えた。
「……たぶん」
「たぶんなんだ」
「まだ名前は分かんない」
「それでいいんじゃない?」
莉歌はさらっと言った。
「使えれば」
「歌姫は言うことが違うね」
「何それ」
二人で笑う。
そのとき。
「5分前です!」
スタッフの声。
空気が変わった。
◇
舞台袖。
16人が並ぶ。
真名は一列目のメンバーの中にいた。
目を閉じる。
聞こえる。
客席のざわめき。
スタッフの足音。
誰かが衣装を整える音。
莉緒が一度、大きく息を吐いた。
莉歌が喉を鳴らす。
楓花が小さく、
「大丈夫」
と言った。
誰に向けた言葉なのか分からない。
たぶん、全員。
「真名」
横を見る。
蒼井真姫。
「前でやりたい?」
また、その質問。
真名は笑った。
今度は迷わない。
「やりたい」
「うん」
真姫も笑う。
それだけだった。
◇
照明が落ちた。
歓声。
イントロ。
暗闇の中を、16人が歩き出す。
真名は自分の位置へ立った。
前には誰もいない。
その景色を見て、一瞬だけ。
昔のステージが重なった。
カップリング曲。
センター。
初めて立った真ん中。
あのときは、自分が間違えないことで精一杯だった。
自分を見てほしかった。
センターとして認めてほしかった。
今は。
後ろに15人の気配がある。
それが分かる。
照明がつく。
音。
真名は動かなかった。
視線だけを上げる。
一歩。
停止。
莉緒が後ろを抜ける。
気配を感じる。
半拍前に身体を開く。
莉緒が迷いなく通る。
次。
莉歌の歌。
真名は視線をそちらへ送る。
客席の視線が動く。
莉歌へ。
次はセンター。
真名が止まる。
だから、真ん中が浮かび上がる。
そして。
自分の番。
顔を上げる。
客席を見る。
今だ。
視線を切る。
身体が動く。
競技かるたと同じだった。
ずっと動いている必要なんてない。
待つ。
見る。
感じる。
そして、必要な瞬間だけ――
取る。
◇
二番。
フォーメーションが大きく動く。
真名は横へ。
莉緒が前へ。
莉歌が反対側へ抜ける。
その瞬間。
ほんの少しだけ、莉緒の入りが早かった。
レッスンなら、
「あ」
で終わる程度。
本番なら。
その半歩が、次の三人を詰まらせる。
真名には見えた。
考えるより先だった。
自分の歩幅を、わずかに小さくする。
視線を莉緒へ。
莉緒が気づく。
一瞬。
軌道を修正。
その後ろのメンバーが抜ける。
何事もなかったように、フォーメーションが完成した。
客席から見れば、きっと誰も気づかない。
それでいい。
真名は思った。
それでいいんだ。
◇
サビ。
16人が一つになる。
真名は前にいる。
でも。
自分一人で前にいる感覚はなかった。
後ろの足音が聞こえる。
隣の呼吸が分かる。
センターが動くタイミングが分かる。
莉歌の声が来る。
莉緒が踏み込む。
楓花が後ろを支える。
真姫が前を向く。
その全部が、一つの場にある。
かるたと同じだ。
一枚だけ見ていたら、勝てない。
場にある札を全部見る。
相手を見る。
読み手を聞く。
そして、その瞬間に必要な一枚へ手を伸ばす。
アイドルも、同じだった。
真名はようやく分かった。
自分は、一人で目立つために前にいるんじゃない。
16人を見せるために、前にいる。
その瞬間。
不思議なくらい、身体から力が抜けた。
◇
最後のサビ。
照明が強くなる。
客席が見えた。
ペンライト。
たくさんの顔。
真名を見ている人もいる。
昔なら、
もっと見て。
そう思ったかもしれない。
今日は違った。
見て。
私を。
そして――
私の後ろにいる十五人を。
Rain Crownを。
最後の振り。
全員が止まる。
静寂。
ほんの一秒。
真名は前を見る。
読み手が息を吸うような、あの一瞬。
そして。
暗転。
歓声が爆発した。
◇
舞台袖へ戻った瞬間。
「真名ぁ!」
「うわっ!」
莉緒が飛びついてきた。
「よかった!」
「汗! ぺぃぴー汗!」
「いいじゃん!」
「よくない!」
「あとさ!」
莉緒が顔を上げる。
「二番、ありがと」
真名は一瞬黙った。
「……気づいてた?」
「そりゃ気づくよ。ぺぃぴーだよ?」
「それ理由になってない」
「でも助かった」
莉緒が笑う。
「真名、前にいるとめっちゃ見やすい」
その言葉が、思った以上に嬉しかった。
「何それ」
「そのまんま」
「もっと褒め方あるでしょ」
「じゃあ――」
莉緒が考える。
「前にいてほしい」
真名は、何も言えなくなった。
「……急にそういうのやめて」
「え、なんで?」
「ぺぃぴーのくせに」
「また言った!」
◇
「真名」
今度は莉歌。
「莉歌しゃん」
「武器、分かった?」
また聞かれた。
真名は少し考える。
「……見ること、かな」
「見る?」
「みんなを見ること」
それだけだと少し違う。
「見て、待って、必要なときに動く」
莉歌が笑った。
「かるたじゃん」
「結局ね」
「いいじゃん」
「アイドルなのに?」
「アイドルだからでしょ」
莉歌は言った。
「真名が前にいると、私も歌いやすかったよ」
また。
胸の奥に一つ増えた。
◇
楽屋へ戻る途中。
新宮楓花が隣へ来た。
「真名」
「ん?」
「今日、楽しかった?」
少し意外な質問だった。
真名は考える。
本番前は怖かった。
途中で莉緒がずれた。
自分も何度か危なかった。
完璧ではない。
でも。
「……楽しかった」
「そっか」
楓花はそれだけ言って笑った。
真名は気づく。
センターだった頃。
ステージを終えた自分が最初に考えていたのは、
間違えなかったか。
ちゃんとできたか。
評価してもらえるか。
そんなことばかりだった。
今日。
最初に出てきたのは、
楽しかった。
だった。
それだけで、あの頃とは違う。
◇
楽屋の入口。
真姫が壁にもたれて待っていた。
「真姫しゃん?」
「お疲れさま」
「お疲れさま」
真姫が真名を見る。
「どうだった? 前」
また聞かれた。
真名は笑った。
「怖かった」
「うん」
「でも、好きかも」
「そっか」
「あとね」
真名は少しだけ胸を張った。
「私、前にいていいんだって思えた」
真姫は何も言わなかった。
ただ、嬉しそうに笑った。
その顔を見て、真名も笑った。
◇
夜。
家に帰った真名は、昔の写真を開いた。
カップリング曲。
真ん中にいる自分。
あの頃の自分は、今よりずっと前にいた。
少なくとも、フォーメーションの上では。
真名は写真を見つめる。
「ありがと」
小さく言った。
あの日の自分が頑張ったから、今ここにいる。
あのセンターは、ピークなんかじゃない。
失敗でもない。
通過点だった。
でも。
今の自分が、あの日よりすごいとも思わない。
比べなくていい。
あの頃には、あの頃の自分が必要だった。
そして今。
変わったRain Crownには、
変わった自分が必要だった。
それでいい。
真名は写真を閉じた。
机の上には、百人一首。
一枚、手に取る。
札なら、決まり字がある。
でも。
人生にはない。
次にいつ選ばれるかも。
次にどこに立つかも。
分からない。
また後ろになるかもしれない。
選ばれないことだってあるかもしれない。
それでも。
もう、名前を後ろから探すのはやめようと思った。
どこに自分の名前があっても、そこから前を向けばいい。
真名は札を置く。
そして、少し笑った。
あの日。
私は真ん中にいた。
今日。
真ん中ではなかった。
それでも――
私は今、あの日より前にいる。




