38 変わる勇気
それから一日が経ち、期末テスト二日目を迎えた。一限目の科目は国語だ。
小雪は、以前、五人で勉強会をした時のワークを確認しながら、窓際の席にいる桜一朗をちらりと見る。
静かにワークを読み返している彼とは、あの別れ話の時以降、話せずにいた。というのも、期末テストが始まるまで、彼は学校に来ていなかったのだ。
(やっぱり、引っ越しの準備してるのかな……もしそうなら、もうどんなに話しても無駄なのかな。いや、そんな事ない。私……もう諦めないって決めた)
小雪はワークを持つ手の力を強くする。
国語の解き方のコツが、解答欄の隅にメモしてあった。
――書いてあることを元に解く。書いてないことは想像しない。
丁寧で綺麗な、桜一朗の文字だ。見ているだけで、一緒に勉強した時の事を鮮明に思い出せる。
夕方の旧校舎で、友達と彼と、笑い合ったあの日の事を。
分からない事を想像しても仕方がない。彼が本当に引っ越しの準備をしているのかも、どんなにその確率が高くたって本当の所は分からないのだ。
確かなのは、自分自身が彼と一緒にいたいと願っている事だけ。
この気持ちは……この気持ちだけは、絶対に消えたり壊れたりしない。
(もう一回でいい。しつこいかもしれないけど、ちゃんと伝えたい。泣きながら、無理して笑ってお別れするんじゃなくて……自分の本当の気持ちを、正直に伝えるんだ)
チャイムが鳴る。クラス全体が教材を仕舞う中、小雪も静かに机の上を片付けた。
担当教員からテストが配られる。その問題をスラスラと解きながら、彼に伝える言葉を頭の中で一生懸命に練っていた。
* * *
テストが終わった後、小雪は迷わずに桜一朗の席へと歩いて行った。
自席で帰り支度をしていた桜一朗は、彼女に気づいてゆっくりと顔を上げる。
彼の目は、いつもよりも少しだけ腫れぼったかった。
「桜一朗、お願い。もう一回、一緒に話せないかな」
小雪は真剣にそう告げる。
彼女の薄紫色の瞳に、迷いは無い。春先の彼女のような弱々しさも無い。
見ているだけで、どうしようもなく救われてしまう。彼女に寄りかかりたくなってしまう。始めのうちは自分の方が彼女を救っていたのに――桜一朗は思わず微笑みながら、小さく頷いた。
「分かった。いつもの場所に行こう。俺も話したい事があるんだ」
そう言って、桜一朗はリュックを背負い立ち上がる。
彼が拒絶せずに微笑んでくれた事。それに安堵しながら、小雪は彼の隣を歩いて行った。
* * *
二人でやってきたのは、いつもの旧校舎だった。
今日はテスト最終日。午後までテスト科目が詰まっていたから、日が少し傾いていた。
いつもの昼下がり。彼が座る窓際の席。夏の教室は少し暑くて、小雪は静かに窓に歩み寄り、少しだけ開けて風を入れた。
吹いてくる風の温さ。いつもなら不快に感じるのに、桜一朗との時間にあるだけで忘れたくないほど大切に思える。本当に不思議だった。
「ねえ、桜一朗。私、やっぱりあなたと一緒にいたいよ」
弱い風を受けながら、小雪は桜一朗に振り返る。
「どうしようもないって分かってるけど、あなたの事を覚えたまま、あなたがいない残り何十年を生きるのは、きっと難しい。それだけ、あなたの存在は私にとって大きいんだよ」
夏の昼下がりの光に照らされながら微笑む小雪は、桜一朗が今まで見たことが無いぐらい、強くて、綺麗だった。
「あなたと出会ってからの事、そのまま覚えておくことはできないけど……美化しながら、形を変えながら、何度も思い出すと思うんだ。別れ話が出た時の事も、あなたのために駆け付けた夜の事も、抱きしめて貰った日の事も……出会ったその日の事も、何もかも私の頭からは消えないまま」
小雪はそこまで言うと、明るく笑って告げるのだ。
「私、これからもあなたと一緒に日々を重ねていきたいんだ。一緒に思い出を振り返って、笑い合いながら……お互いの心の欠けた部分を埋め合いながら、一緒にいられたらいいなって思ってる。どんなに遠く離れても、私はあなたを忘れたり諦めたりしない」
丁寧に彼の手を取って、優しく握る。
彼の桜色の瞳を見つめて、自分の薄紫色の瞳を優しく細めて。
いつも彼がそうしてくれていたように、柔らかく笑って――。
「だから、大丈夫。私に、あなたの事を忘れさせようとしなくていい。私は、今のまま、あなたを想ってる自分でいたいから」
ずっと彼が伝えてくれていた「大丈夫」を、小雪はそっと返した。
小雪の言葉を聞き、桜一朗は静かに目を伏せ、微笑む。
「いつの間にか、ずいぶんと強くなっちゃったね」
「もう俺がいなくても平気、なんて言わないでね」
「……うん、言わない。その代わり、ちょっと寄りかからせて欲しいかも」
桜一朗はそう言って、小雪の手を握り返す。
「あのさ、俺……実家に行くんだ。父さんと母さんと会って、話して来ようと思う」
. 微笑んだまま目を閉じて、桜一朗は続ける。
「大切な人と一緒にいたいから、薫野に残らせて欲しいって、伝えてくる。許してくれるか分からないけど、できることを全部やろうと思うんだ。俺の大好きな人達の笑顔を見るために」
桜一朗はそう言うと、立ち上がって彼女の頬に手を触れた。
「だから、俺が帰ってきたら、その時は……さっきみたいに笑って」
優しい王子様のような笑顔。小雪がずっと大好きだった笑顔だ。
また、彼がそうやって笑ってくれた事。そして、彼が自分と一緒にいようとしてくれている事。頬に添えられた手が、温かい事。どれも、かけがえのないぐらい幸せだった。
「うん……約束する。泣かないで、笑顔で待ってる」
小雪はそう微笑み、目を閉じた。
ゆっくりと、二人の顔が近づいていく。
桜一朗は彼女に傷がつかないように、丁寧に、唇を重ねた。
お互いの唇の柔らかさ。
夏の蒸し暑い空気。
昼下がりの太陽の光。
昔から時が止まったままの旧校舎。
傍に大好きな人がいる、その安心感――。
二人は全てを胸に刻み、微笑みながら抱きしめ合ったのだった。
* * *
その週の土曜日、桜一朗は薫野中央駅の改札を通った。
在来線に乗り、五駅先の駅で新幹線に乗り換える。
窓の外から、夕方の薫野市の山の風景が見えた。
もう一度、帰ってくることは叶うだろうか。
もう一度、この場所で暮らすことは叶うだろうか。
色々な不安はあれど、この風景を見て思い出すのは小雪と一緒にロープウェイに乗った時の事だ。
――ずっと傍にいてね。何年経っても、『覚えていてね』って私に言ってね。
もう守れないと思っていた約束。でも、守れないんじゃなくて守ろうとしていなかっただけだと、友達や小雪が気づかせてくれた。
みんなの存在が、自分は思っていたよりもずっと弱くて、臆病だと教えてくれた。
そして、そんな自分を受け入れてくれた愛情も。
そんな自分から変わろうとする事の勇気も。
ずっと世界の幸せから弾かれていると感じていた。事実、そうだったのかもしれない。でも……そんな自分でも強くなれる事。大切な人の傍で笑顔になれる事。そして、そんな未来を歩いて行く事を諦めなくていいと思えたのは、薫野で過ごした日々と、出会った人達のお陰だった。
――あとは、俺が変わるだけだ。
桜一朗は静かに窓の外を見据えている。
桜色の瞳には、強い意志が宿っていた。
――もう一度、大好きな人達の笑顔を見るんだ。もう、諦めない。
桜一朗を乗せた新幹線が、夕暮れの中走っていく。
その様子が、まるで自分を未来へと運んでくれているようだと、桜一朗は感じたのだった。
* * *
東京駅に着くと、改札前にいたのは意外な人物だった。
癖のある長い黒髪の、ポニーテール。梅雨時に会った時と何も変わらない、花菜だったのだ。
「花菜ちゃん……なんでここに」
驚いて目を丸くする弟を見て、花菜は静かに微笑むのだ。
「助っ人になったらいいなと思って」
「助っ人?」
「うん。桜一朗が、薫野に残ってもいいって思って貰えるように、父さんと母さんの説得を手伝いに来たんだ」
「手伝うって……父さんと母さんに会うって事……?」
「うん。……もう連絡してあるんだ。桜一朗と一緒に会いに行くって。父さん、凄く驚いてた。でも、桜一朗が言ってた通り、雰囲気は昔と全然違ったよ」
花菜は弱々しく微笑み、続ける。
「やり直せるかもって思っちゃった自分が悔しい。でも、これが最後でもいいから、私もちゃんと話したいって思った。だから、一緒に行こう」
「……うん」
姉の申し出に、桜一朗はしっかりと頷いたのだった。
* * *
花菜の車に乗り、桜一朗は実家の邸宅へと帰ってきた。
車から降りて、門の前のブザーを鳴らす。すると、インターフォン越しに父親の声が聞こえて来た。
『二人とも、お帰り』
「……ただいま」
桜一朗が返事をする横で、花菜は黙り込んでいる。しかし、父はそれに文句を言わず、「今鍵を開ける」と言ってインターフォンを切った。
二人で玄関前まで向かうと、内側からドアが開いて、両親が顔を出した。
不安げな顔で、子ども達を見つめる二人。無理もない、家族がみんな揃うのは、もう四年ぶりなのだ。
「長旅で疲れただろう。上がってくれ」
父に促され、桜一朗は緊張した面持ちで、実家の中に入っていった。
手を洗ってリビングへ向かうと、そこには御馳走が並んでいたのだ。
ハンバーグと、ピラフ。そしてスープと、果物の盛り合わせ。桜一朗と花菜が、昔好んで食べていた母の料理だ。
「これ、昔好きだったメニュー……覚えてたんだ」
目を丸くしながら呟く花菜に、母が無言で頷く。きっとどんな言葉を言えばいいのか分からなかったのだろう。
気まずい空気の中、二人は昔座っていた席についた。
桜一朗と花菜が隣り合わせで、両親とは向かい合わせに座っている。桜一朗が顔を上げれば、目の前にいたのは父だ。
「冷めるから、食べよう」
ぎこちない父の言葉。
「ええ、そうね」
まだ迷いのある母の言葉。
「……うん、食べよう」
元気の無い姉の言葉。
この場にいる誰もが、「普通の家族」を模索しているようだった。
「いただきます」
そんなツギハギだらけの家庭の空気を吸いながら、桜一朗は手を合わせたのだった。




