37 ずっと抱えていた気持ち
桔梗と別れた後、友部は薫野西駅方面に歩いて行こうとして、ふと思い立ち駅への大通りから外れた道を歩き出した。
住宅がポツポツとある道。進むごとに静かになっていく田舎道を歩く。足取りに何も迷いが無いのは、彼がかつて熱心に通っていた道だからだ。
住宅街を外れて、やがて濃くなっていく緑の薫り。小さな林の中に佇むこの神社は、薫野灯里神社というこの辺りで一番大きな神社だった。
「困った時にはここに来ちゃうんだよなあ……」
少し笑いながら、友部は礼をして神社の中に入っていった。
その姿を、隣にある住宅の庭で花に水をやっていた苑香が見つけて目を丸くする。
(え……何でここに)
胸が高鳴る。ついていっていいのか、少し迷ったが……この暑さだから、飲み物を差し出すぐらいならしていいだろう。苑香はそう思い、自宅の冷蔵庫にストックしてあるお茶を取りに、家の中へ入っていった。
* * *
友部は境内に入り、丁寧に礼をして手を合わせる。
(春馬が、自分の納得いく答えが出せるように助けてやって欲しいです)
そう念じて、手を解いて礼をする。
汗を拭って、境内を後にしようとしたその時だ。
「友部君!」
入口の方から、ペットボトルの麦茶を持った苑香が駆け寄ってきたのだ。
彼女が現れた事が意外で、でも嬉しかった友部はぱあっと表情を明るくする。
「あれー! 沖浜さんじゃん! どうしたの」
「家から、友部君が神社に入っていくのを見つけて……暑いから、お茶でも持って行こうかなと思って」
「そっか。ありがと! でも、いいの?」
「大丈夫。熱中症になったら大変だから気にしないで」
苑香は微笑みながら麦茶を手渡す。友部はそれを受け取り、笑顔を覗かせた。
「ここに来るといい事ばっかりだなー。沖浜さんにも会えたし、麦茶も貰えたし……母ちゃんの病気も治して貰ったし」
彼がカラりと笑いながら言うのを聞いて、苑香は息を飲む。
――母ちゃんの病気も治して貰ったし。
前に思った通り、中学の時にここに通っていた男の子は、本当に友部君なんじゃないの――?
苑香はうるさくなった心臓を押さえる。
覚えているのは自分だけで、彼の記憶には無いかもしれない。
こんな昔の話をしても、迷惑なだけかもしれない。
でも、このまま何も言えないままなのは嫌だ。
小雪とした約束を思い出す。
(そうだ。告白するって約束したじゃない。勇気、出さなくちゃ……!)
苑香は勇気を振り絞り、口を開いた。
「あの、友部君……」
「ん、何?」
笑顔で首を傾げる彼の目を見つめて、苑香は赤い顔で尋ねた。
「もしかして、中学校の時もうちに通ってた……?」
「え――」
友部が目を丸くしたその時だ。
ポツ、ポツ……と、雨が降り始めたと思ったら、急に本降りになったのだ。
ザーと雨に打たれて、友部は慌てて自分の鞄で苑香の頭上を覆う。
「わー! ゲリラ豪雨! と、とりあえず拝殿で雨宿りさせて貰う!?」
「う、うん。通り雨だと思うから、ちょっとだけ……」
二人は急いで拝殿の屋根の下に入り、ほっと息を吐く。
友部が気遣ってくれたお陰で苑香はそこまで濡れなかったのだが、やはり制服は少し透けてしまっている。苑香は慌ててしゃがみ込み、下着が彼に見えないようにした。
(拝殿じゃなくて、家に戻ればよかった……)
真っ赤な顔でそう後悔しつつ、境内に降り注ぐ激しい雨を見つめる。
(早く止まないかな……)
苑香がそんな事を考えていると、頭の上に汗拭きタオルが掛けられた。
「え……」
びっくりした顔を上げると、友部が顔を赤らめながら目を逸らしていた。
「気休めだけど、制服の上に羽織ってて。ああ、今日は体育なかったから使ってないからね! 未使用だから安心して!」
「う、うん。ありがと……」
苑香ははにかみつつ、タオルで肩から胸を覆う。
ザーと、雨音だけが聞こえてくる。
そういえば、彼と初めて会った時も雨だった。
豪雨の中、泣きながら神社に参拝していた彼に、青い傘を差しだした日の事……まだ、しっかりと思い出せる。
「あのさ、沖浜さん。さっきの話……」
友部が雨を見つめたまま、口を開く。
「俺、中学の時にここに通ってたよ。母ちゃんが癌になっちゃった時に、神頼みしにここに来てた」
ああ、やっぱり……苑香は頬を染めながら、タオルを持つ手をぎゅっと握る。
「私……多分、その時に友部君に会ったんだ。青い傘を持ってた女の子。記憶に、無いかな……?」
心臓がバクバクと音を立てる。口も乾いてきた。顔も熱い。
彼の答えが怖い。でも、どうか、どうか――。
この気持ちを抱いているのが、自分だけではありませんように――。
「青い傘を差しだして、俺と一緒に母ちゃんの癌が治りますようにってお願いしてくれた子でしょ。覚えてるよ。……忘れるなんてできなかったよ」
友部はそう言うと、苑香の顔を見てニイっと笑った。
「また会えたらいいなって思ってた。でも、そっか。もう会ってたんだね」
彼の明るい笑顔が、苑香の目に焼き付く。
まるで吸い寄せられたように、目が離せない。
心臓の鼓動が心地よくて、頬が熱くてふわふわしている。
――そっか。幸せってこういう事だ。
苑香は頬を緩ませながら、照れ笑いをして告げる。
「初めて会った時から、ずっと好きでした」
雨が少しずつ弱くなっていく。
「心が綺麗な友部君が……好きです」
晴れ間が見えてくる神社の境内。その告白を聞いてくれた彼は、顔をくしゃりとさせて笑っていた。
* * *
その日の夜、桜一朗は父に電話を掛けていた。
祖母の病室で会った後、両親は仕事のために関東へと戻ってしまったのだ。
しかし、以前と違うのは帰り際にこちらの心配をしてくれた事だ。
――何か困った事があれば、いつでも連絡しなさい。早めに実家に戻る分には構わないから。
――あなたの部屋、整えておくから。いつでも帰ってきて。
不安げな顔でそう告げた後、二人は空港へと向かったのだった。
その時の両親の言葉に嘘偽りは感じなかった。本当に心を入れ替えて、息子の事を案じてくれている……そんなありふれた親の顔だった。
彼らを悲しませるような事をする勇気なんてない。
でも、自分の気持ちを伝えずに、何もかも諦めたまま生きるのも、辞めたかった。
桔梗が言っていた言葉。
――君じゃなきゃ駄目なんだ。
小雪が最後に見せてくれた笑顔。
――あなたが好きなまま、私、前に進むね。
脳裏に焼き付いて離れない「手放せない愛情」の数々。
このまま、全て覚えたまま……小雪のいない世界を生きていくのは、嫌だった。
どうか、もう一度だけ。いや、この先の人生ずっと、彼女と笑い合っていけますように。
その願いを叶えるのは、結局のところ自分自身だ――。
コール音が鳴り終わり、電話を取る音が聞こえた。
『もしもし。どうした』
「……父さん」
『何だ』
苛立ちも悲しみも感じない父の声。感じるのは、こちらの話を聞こうとしてくれる優しさだけだ。
この優しさを裏切るのが、怖い。でも、もう決めたのだ。
「話したいことがあるんだ」
桜一朗は声が震えないように気を付けながら、丁寧にそう伝えた。
「聞いてくれないかな」
『ああ、聞く。どうした』
「直接会って、顔を見て話したいんだ。必要なら、そっちに行く」
父の答えを待つ。
待っている時間、心臓がうるさくてどうしようもなかった。
胸が痛い。耳鳴りがする。空気が薄く感じる。
それら全てに耐えていると、やがて父が答えてくれた。
『分かった。今週末なら駅まで迎えに行ける。帰りの送迎はまだ日程が定まらないから、少し実家に泊まったらどうだ』
「……うん、それでいいよ。時間帯が分かったら連絡する」
『分かった、待ってる。……切るぞ』
電話が切れる。
桜一朗はスマホを閉じて、メッセージを確認した。
すると、花菜からメッセージが来ていることに気づいたのだ。
――ばあちゃんから聞いた。実家に帰るの?
それに返信しようとして、電話の方がいいと思い通話ボタンを押す。
すると、すぐに電話を出る音が聞こえた。
『もしもし、桜一朗?』
「花菜ちゃん、連絡遅れてごめん。今、平気?」
『うん。……ねえ、実家に帰るって本当?』
花菜が不安げに尋ねてきた。
『そっちに戻るくらいなら、私の家に来たっていいんだよ?』
「……花菜ちゃんなら、そう言ってくれると思ったんだ。でも……父さんと母さんを見て、もう一回やり直した方がいいんじゃないかって思ってた。さっきまでは」
『さっきまでは……?』
「うん。俺……」
桜一朗は言葉に詰まりながらも、なんとか、自分の気持ちを伝えようと口を開く。
「俺、一人でもいいから薫野に残りたい。離れたくない人がいるんだ。家族は心配するって分かってるけど……自分の気持ちに嘘を吐くのをやめたいんだ。だから……ごめん」
目をぎゅっとさせながら、桜一朗はスマホを強く握った。
すると、電話越しに聞こえてきたのは姉の微笑む声だったのだ。
『そっか……それが、桜一朗の気持ちなんだね』
花菜は優しく息を吐いて、続ける。
『正直、心配だよ。一人で暮らしていけるのかとか、ばあちゃんに何かあった時、一人で全部乗り越えていけるのかとか……。でも、桜一朗が自分で自分の事を決められるようになったの、私は凄く嬉しいんだ』
姉の言葉を聞いて、桜一朗はゆっくりと目を見開いていく。
「止めないの……?」
恐る恐る尋ねると、花菜は柔らかく笑って「うん」と頷く。
『あなたの人生は、あなたのものだから。でも、何か困った事があったらいつでも相談してね』
姉の口から出た、優しい言葉の数々。
それら全てが信じられないほど嬉しくて、桜一朗は涙を流しながら頷く。
「うん……ありがと」
自分の涙が、自室の畳に落ちていく光景。
夜、家の前を通る近所の車のエンジン音。
夏の虫の鳴き声と、扇風機だけではまだ暑い部屋の空気。
そして、自分の殻をほんの少しだけ破ることができた事実。
何もかも、忘れられない。いや、忘れなくたっていいのだ。
これは、痛くても暗い記憶にはならないから――。
「ありがとう、花菜ちゃん」
桜一朗の涙声が、殺風景な部屋に零れ落ちたのだった。




