36 決めていいかな
桜一朗は部屋の中の数少ない荷物を段ボールに詰め、引っ越し準備をしていた。
殺風景な部屋が、更に殺風景になる。不意に、彼女が初めて来たときに「部屋を賑やかにしよう」と言ってくれた事を思い出した。
(小雪の家族の事もあったし、飾れるお土産は買えず仕舞いだったな。それでも、凄く……楽しかったけど)
桜一朗はそう思いながら、学校に持って行っているリュックについたレオネードのキーホルダーを目の前に持ってきて、見つめる。
(小雪との思い出は、どれも……どんな一瞬も、眩しくて鮮やかだったな)
静かに目を伏せながらキーホルダーを見つめていると、インターホンの音が鳴った。
「はーい」
玄関まで行き、ドアを開ける。すると目を潤ませた友部の後ろに、いつも通り涼し気な顔の桔梗も立っていたため、思わず顔を顰めた。
彼がここに来る理由が分からないし、あったとしても前向きな理由ではなさそうだ。
「何で竹花もいるの?」
「先に友部君への礼を言うべきじゃないか? 休んでる間のプリントを持ってきてくれたみたいだぞ」
「はあ……それは認める。友部、ありがと。お茶でも出すから上がって。不本意だけど、竹花も一緒にどうぞ」
桜一朗に促され、二人は靴を揃えて春馬家に上がった。
居間に来て、座布団に座る。しばらくして、桜一朗が緑茶を淹れて持って来た。
「ほら、飲んでいいよ」
「あ……ありがと」
「ああ、いただきます」
友部は緊張した様子で、桔梗は落ち着きを払った様子でお茶を飲む。
時計が針を刻む音しかしない室内で、最初に口を開いたのは友部だった。
「なあ、春馬って引っ越しちゃうの?」
お茶を飲んでいるのに口が乾く。どうか否定して欲しいと願いながら、友部は桜一朗を泣きそうな顔で見つめていた。
まだ引っ越しの事は小雪と担任にしか言っていない。となると、どちらかから漏れた事になる。
桜一朗は気まずそうに首の後ろを押さえながら、小さな声で答える。
「うん。家族の都合で引っ越す事になりそうなんだ」
「いつ引っ越すの?」
「夏休みかな。一人で薫野に残るって言ったって、誰も許してくれないだろうし」
「春馬の気持ちは? 春馬は引っ越したいって思ってるの?」
――自分の気持ち。
小雪にも同じことを聞かれた。祖母からも、自分の人生は自分で決めていいと言われた。でも、でも――。
「俺の気持ちって……みんなそれを聞くけどさ、結局、俺に選択権なんかないじゃん。周りが傷つかない選択肢を選ばなきゃいけない。周りが幸せになれる選択肢を選ばなきゃいけない。世のため人のため……そういう制限がかかったこの世界で、自分の気持ちにどんな価値があるって言うのさ!」
桜一朗が吐き捨てるのを見て、友部は体を竦めながらも引き下がる事はしなかった。
「そう言うって事は、やっぱり引っ越しに納得してないんじゃん! 自分の人生を自分の力で生きることの何が悪いんだよ! 何もかも諦めて流されるままに生きたとして、本当に『生きてる』って言えんの!?」
友部が涙と唾を出しながらそう訴えるのを見て、桜一朗は目を見開いた後、悲し気な顔で呟く。
「俺にとって『生きる』っていうのはさ、『諦める』って事なんだ」
自嘲気味に笑って、涙を堪えて、震える声で続ける。
「そういう世界で生きてきたんだよ、俺は」
桜一朗の苦しそうな顔を見て、友部も目を潤ませながら口を噤む。
二人の間に沈黙が訪れる。今度はそれを桔梗が破った。
「一原さんには『そのままの君で大丈夫』と言った癖に、自分は『そのままの自分』でいようとしないんだな」
桔梗は立ち上がり、桜一朗の目の前まで行って、彼の胸倉を掴んだ。
唐突な事で、友部も桜一朗も息を飲む。
「お、おい! 竹花君!?」
「お前は、自分に与えられた幸せから逃げてるだけだ!」
竹花が怒鳴る。
「一原さんからの好意にも、友部君のような友達からも、高い能力からも才能からも……全部、他人に嫌われるのが怖いからって逃げてるんだよ、お前は! 周囲の反応に怯えて、本当に大切な人の笑顔すら守れていない……お前、本当にそれでいいのか!? 今のまま、死ぬまで何一つ忘れることなく生きて、生きて、生き続けたとしても最後に後悔するだけだ! いい加減自分の人生の舵を取る勇気を持て! 馬鹿が!!」
桔梗の言葉を聞いて、桜一朗は目を見開いたまま固まる。
桔梗はゆっくりと胸倉を掴む手を緩め、深く溜息を吐く。
「君が前を向かなきゃ、一原さんは幸せになれないんだ。僕じゃ駄目なんだよ。君じゃなきゃ駄目なんだ。こんな事、二度と言わせるな」
そう言って、力なく笑う、目にうっすらと涙が浮かんでいた。
「頼むから……僕と君の大切な人を、傷つけるのはもうやめてくれ。どうか彼女を、幸せにしてやって欲しい。君にしかできないんだ。頼むよ……」
俯いてしまった桔梗の顔は、桜一朗からは見えない。しかし、僅かに震えている声から、今にも泣きだしそうな事ぐらいは想像がついた。
自分の選択を喜ぶ人もいれば、悲しむ人もいる。少なくとも、この場にいる人間は誰も喜んでいない。桜一朗はそれに気づき、小さく呟く。
「何かを選択しても、全員を喜ばせるなんて不可能なんだな」
頬を、一筋涙が伝っていった。
「取捨選択をするしかないんだ。誰を喜ばせて、誰を悲しませるか」
そう言って、桜一朗は泣きながら、伏し目がちに笑う。
「それぐらい、自分で決めてもいいよね……?」
やっと、彼が自分の気持ちに正直になってくれた――友部はそれに繰り返し頷き、桜一朗の肩を掴んで真剣に告げる。
「いいんだよ、それで。だって、お前の人生じゃん!」
友部は泣き笑いになりながら、続けた。
「お前が正直に選んだ事なら、俺、全力で応援したいなあ」
友達の笑顔を見ているうちに、桜一朗の涙が止まらなくなっていく。
でも、心は先ほどよりもずっと晴れやかだった。
桜一朗は微笑みながら口を開く。
「ありがとう、二人とも……」
彼を覆っていた闇が、僅かに晴れたこと。
小雪の力になれたかもしれないこと。
ひいては、自分の恋をいよいよ諦めなくてはならなくなったこと。
それでも、桜一朗と小雪が幸せになれるなら、それでもいいかと思えてしまうこと。いや、正確には、そう思いたいこと。
桔梗は色々な葛藤を飲み込んで、静かに目元を和らげたのだった。
* * *
その後、プリントを渡した友部は桔梗と共に春馬家を出た。
薫野西駅方面に歩いて行こうとして、彼が反対方向に向かおうとしている事に気づく。
「竹花君、東方面?」
「ああ、君は西方面か?」
「うん。そっか、逆方向なんだ」
友部は頭を掻きつつ、小さく笑って桔梗の方を見た。
「君って、思ったより熱い人なんだね」
「熱い人?」
「うん。春馬と揉めてるのを見てた時は、もっと冷たい人かと思ってたんだ。あいつ、ちょっと心が過敏みたいでさ、君みたいな人と関わるのは苦しいから、会いたがってなかったんだろうなって思ってた。でもきっと違うな」
友部は頭の後ろで手を組み、ニカっと笑う。
「君が春馬の事をよく見てるから、痛いところを突かれるのが嫌だったんだろうね」
友部の言葉を聞き、桔梗は涼し気な顔で尋ねる。
「あいつの友達である君としては、僕の存在は迷惑じゃないのか?」
「全然。春馬には、君ぐらいハッキリ言ってくれる友達も必要だと思うな。今日も、あいつ君のお陰で前を向けたと思うんだ。だからさ、今度三人でどっかに遊びに行ったりしよ!」
「えらく急だな。春馬はきっと嫌がるぞ」
そう言いつつ、桔梗の顔は穏やかだった。
「でも、たまにはそういうのも悪くないかもな」
桔梗が笑ってくれたのを見て、友部も嬉しそうに笑って頷いた。
「でしょ! じゃあ、春馬の事が落ち着いたら誘う! またね!」
友部は元気に手を振り、走って帰っていく。
今までは大切な小雪との約束を胸に生きていたが、恋だけではなくて、友達というのも悪くないかもしれない。春馬とも、友達として笑い合う事ができたら案外楽しいだろうし、そうやって彼と笑い合えたら、自分も本当の意味で前を向けるかもしれない……桔梗はそんな事を考えて微笑みながら、帰路を歩き出したのだった。




