34 普通になりたい、なれない
桜一朗の父は、祖母の傍に寄り……静かに、口を開く。
「母さんが心筋梗塞になって倒れたと聞いて、すぐに思い出したのは幼少期の事だった。俺が病気で高熱を出して、病院に運ばれた時、父さんは俺に目もくれなかったけど、母さんは……ずっと傍にいてくれたな」
父は落ち着いた声で……悪く言えば感情の籠っていない声で、淡々とそう告げる。
それを聞いた祖母は、険しくしていた目元を僅かに緩めて言った。
「そんなこともあったね。でも、それが今更どうしたっていうんだい」
「その日の事を思い出して、母さんが俺を毛嫌いする理由が分かった。今の俺は、あの父親と同じだったから」
父はそう言って、緊張を誤魔化すようにネクタイの結び目をいじる。
「昔、『あんな人間にはなるまい』と決めていた。でも……仕事をするには、そういう人間の方が向いていたんだ。従業員を雇う責任。全国の人達に完璧なサービスを提供しなければいけないという重圧。家族を養わなければという使命感。そういったものに溺れて、俺はいつの間にか……家庭を壊してしまった。皮肉なものだな。母さんが倒れなければ気づけなかったよ」
父の声色が、自嘲気味に柔らかくなる。彼のこんな喋り方を、桜一朗は久しぶりに耳にした。
それが信じられなくて、思わず目を丸くする。
驚いている桜一朗の方を、両親がゆっくりと振り向いた。
「俺は父親失格だ。でも……働いている最中、『ここにいるのが桜一朗なら良かったのに』と何度も思うほど、お前の事を大事に……いや違うな。尊重したいと思っている。同じ家庭の仲間として。だから――」
父は静かに頭を下げ、告げた。
「もう一度、一緒に暮らさないか。俺と、母さんと……もう一度、春馬家をやり直す機会をくれないか、桜一朗」
隣で、母もゆっくりと頭を下げる。
「……母さんも同じ気持ちよ。私も、仕事を完璧にすることが多くの人の幸せに繋がると思っていたの……家族も含めてね。でも、それだけじゃ回らないこともある……父さんと話して、そう結論を出したの。だから、お願いします」
「……何だよそれ」
桜一朗は口元を笑わせながら、でも目元を険しくして吐き捨てる。
「あんたらのせいで、俺や花菜ちゃんがどんなに苦労したと思ってるのさ。今だってきっと、口先だけなんだろ」
口先だけ。本当はそうじゃないと分かっている。目を見れば分かる。二人は本気なんだと理解できている。
でも……そんなの認めたくなかった。
今までの苦しみを、こんなにあっさり許すことなんてできなかった。
――こんな高い感受性なんてなければよかった。もしそうだったら、今だって親の本気に気づかずに罵れたんだ。なんで俺は……。
奥歯を噛みしめる。涙が、頬を次々に伝っていった。
「嫌いだよ。父さんと母さんなんて……大嫌いだ」
口をついて出てしまった言葉が、胸を鋭く抉った。
こんな正義感だって欲しくなかった。
普通の人になりたかった。
何も能力が高くなくて、普通の家の普通の子どもで、普通に笑えて普通に好きな事ができて、普通に勉強ができて普通に運動ができて、普通に好きな人と一緒になれて、それから――。
「もう、何なんだよ……何で、俺は俺なんだよ」
涙と共に、そんな声が漏れた。
「俺は……ただ普通に、生きていたいだけなのに」
ボロボロと涙を零す桜一朗を見て、父がすぐに歩み寄り、肩を支える。
「普通になろう。普通でいい。ただ……俺と母さんはお前を守りたいだけなんだ」
目を擦って顔を上げると、父の真剣な顔が目の前にあった。
「今度こそ、守らせて欲しい」
嘘なんてない瞳。少し潤んでいる黒いツリ目。
隣を見れば、同じく泣きそうな母の顔があって。
ベッドの方を見れば、切なげに顔を歪める祖母の姿があって。
この場の空気の行く末を握るのが、自分だという事実があって。
(……もう、どうにもならないんだ)
不意に、体育祭の時の桔梗の言葉が蘇った。
――どんなにいがみ合っていても、君は血の繋がりからは逃げられない。
(そっか。もう……逃げ続けるのは不可能なんだ)
そんな諦めと、この場の空気をこれ以上壊したくないという思いが、自然と桜一朗を頷かせたのだった。
* * *
小雪は家に帰った後、桜一朗のトークルームを開いていた。
メッセージの編集欄には「忙しい中ごめんね。一回、ゆっくり話せないかな」という文字がある。
そのメッセージを消そうか一瞬迷って、そっと送信ボタンを押した。
その後、既読がついたのは夕方十八時だ。
(あ、気づいてくれた……)
それに安心したのも束の間、すぐに返信が送られてくる。
――会いたい。どこにいる?
(会いたいって……)
小雪の胸が少しだけ弾む。あれから色々とあったが、久しぶりに彼に会えること……それが、どうしようもなく嬉しかった。
すぐに「家にいるよ。どこかで待ち合わせしよう」と送信する。
すると、またすぐに返信が来た。
――薫野湖公園。俺と君が友達になった場所。そこで待ってる。
(薫野湖公園か……急ごう)
小雪はバッグにスマホと財布だけ入れ、父に「ちょっと行って来る」と声を掛けて家を飛び出した。
* * *
小雪が薫野湖公園に着くと、そこには既に桜一朗の姿があった。
緑も深くなった桜の木の下、夕焼けに顔を柔らかく照らされながら佇んでいる姿は、初めて見たときのように儚げだ。まるで、どこかに散り去ってしまいそうだった。
「桜一朗……!」
小雪が駆け寄ると、桜一朗はいつものように柔らかく微笑む。
「呼び出しちゃってごめんね」
「ううん、会いたかったのは私も同じ……」
「そっか。……ねえ、お願いがあるんだ」
「何?」
「抱きしめて欲しい」
桜一朗は目を伏せながら笑って、そう告げる。
彼の笑顔に元気が無い事。それに気づきながらも、小雪は問いただす事ができずに頷いた。
「うん」
そっと彼の体に腕を回し、優しく抱きしめる。
すると、すぐに彼の方からも抱きしめ返された。
「……ふふ、やっぱり安心する」
彼の口から、そんな柔らかい声が漏れた。
「俺、小雪が抱きしめてくれた事、死ぬまでずっと覚えてる。記憶力とか関係なく、何度でも思い出すようにする」
「……うん」
小雪の胸に、嫌な予感が芽生えていた。
彼の口ぶりが、まるで別れを切り出そうとしているように感じられたからだ。
桜の花が散るように、その予感は必然になってしまう。
「でも、小雪は……俺の事、忘れていいから」
シンプルで、彼らしく優しい言葉。
でも、小雪の胸はナイフで何度も刺されるように、強く痛んだ。
その痛みに耐えようと、彼を抱きしめる力を強くする。
「俺の事を、少しずつ忘れていって。一緒に行った場所とか、仕草とか声とか、笑顔とか、その時感じていた気持ちとか……ゆっくり忘れていって。そして、他の誰かの隣で幸せになるの。別に難しい事じゃない」
「……やだよ」
小雪は桜一朗のシャツの裏を強く握って、尋ねる。
「離れ離れになるしかないの?」
「……俺、父さんと母さんの家に戻るんだ。その方が、家のみんなは喜ぶから」
「桜一朗の気持ちは? 納得してるの?」
「理不尽を納得するのには慣れてる。……別に、今更」
「私は嫌だよ。ずっと一緒にいたいよ……」
ずっと堪えていた涙が、堰を切って溢れ出す。
「あなたが私の欠けてる心を埋めてくれた。だから……あなたがいないと、私はずっと寂しいまま」
泣きながら抱きしめられていても尚、桜一朗は力無く笑うだけだ。
「君なら大丈夫だよ。もう『氷の女王』なんて揶揄されることもないし、友達もいる。君を好いてくれる人だっている。だから……」
「桜一朗は」
小雪は震える声で尋ねる。
「今、自分の選んだ道で、後悔しないで生きていける?」
彼女の質問が胸にグサリと刺さり、桜一朗は痛みを堪えながら目を潤ませる。
「ほんとは……嫌だよ。でも、時間が経っていくうちに大丈夫になるんだ。それがきっと、『生きる』ってことだから。俺も、君も」
「……そっか」
「うん、そうなの」
桜一朗の息が震えて、喉の奥が熱くなる。
でも、これ以上泣き顔を見せたくなくて、必死に涙を堪えていた。
「だから、忘れて」
「……分かった。でも私、あなたの事、忘れない」
小雪はゆっくりと桜一朗から離れ、涙を拭って顔を上げる。
「あなたが好きなまま」
まだ潤んだ薄紫の瞳を優しく細めて、シャツの胸元をぎゅっと握りしめて。
「私、前に進むね」
今まで見たことがないぐらい、優しくて美しい笑顔で笑っていた。
「今までありがとう。あなたに会えてよかった」
小雪は優しい微笑みでそう告げると、彼に背中を向けて公園から立ち去っていく。
彼女の笑顔が、声が、言葉が……愛情が、桜一朗の胸に焼き付いて、離れない。
湖に映る夕方の空も、緑の揺れる音も、夏の蒸し暑い空気も……何もかも、そのまま脳に焼き付く。
(……ああ、そっか。忘れないって……残酷だ)
彼女の笑顔を思い返しながら、彼女の言葉を思い返しながら……彼女の覚悟を悟ってしまった。
(小雪は、ずっと……俺と同じ痛みを抱えるつもりなんだ)
泣き疲れて腫れた瞳で、彼女が去っていった方向を見つめる。
初めて会った時とは、見違えるほど生き生きとしている自然。それとは対照的に、光を失った自分の世界。
(どんなに頑張っても、足掻いても……世界は、優しく抱きしめてくれないんだな)
桜一朗はその場にしゃがみ込んで、枯れかけている瞳から涙を絞り出していた。
* * *
帰り道。夕暮れの薫野市の住宅街。
夏の明るい夕日の下で、小雪は涙を拭いながら歩いていた。
(苑香ちゃん、可憐ちゃん、ごめん……やっぱり駄目だった。でも、最後はちゃんと笑えたよ)
涙が頬を伝う。夏の温い空気が、シャツを汗ばませていく。
(最後は笑えたけど……きっと私、桜一朗の事、笑顔で思い出せないや)
胸が切られるように痛くて、悲しくて……涙が止まらなかった。
(私、桜一朗と出会ってから、いつも泣いてばかりだったなあ……)
――大丈夫。
(もう一回で良いから、笑顔で『大丈夫』って、言って欲しかったなあ……)
泣くのに夢中になりながら、小雪は横断歩道を渡りかける。
その時だ。
「危ない!」
涼し気な男子の大きな声と共に、体を強く抱き寄せられた。
「え……」
目を丸くして声の主を確認する。
栗色のショートヘア、細いフレームの眼鏡の下の、涼やかなツリ目が大きく見開かれていた。
「桔梗君……」
「何考えてる! ちゃんと信号を見ろ! まだ赤だぞ!」
彼がそう怒号を飛ばした直後、大きなトラックが猛スピードで走っていった。
「あ……ごめん。ちょっといっぱいいっぱいで。ありがとう」
小雪が笑顔を作ってお礼を伝えると、桔梗は彼女の腕を掴んで尋ねるのだ。
「泣いたのか?」
不安げな顔を向けられて、小雪は誤魔化すことができずに頷く。
「う、うん……ちょっとだけ」
「話を聞かせてくれないか」
「え……?」
「僕は、君が笑顔になる手伝いがしたいんだ。君が誰を好きでいてもだ」
桔梗は真剣な顔でそう告げ、再度尋ねる。
「僕を、頼ってくれないか?」
彼の真摯な言葉と表情を見て、小雪は泣きそうになりながらも頷くのだった。




