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春色の雪  作者: 月島
第八章 梅雨の晴れ間を祈るように
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34 普通になりたい、なれない

 桜一朗(おういちろう)の父は、祖母の傍に寄り……静かに、口を開く。


「母さんが心筋梗塞になって倒れたと聞いて、すぐに思い出したのは幼少期の事だった。俺が病気で高熱を出して、病院に運ばれた時、父さんは俺に目もくれなかったけど、母さんは……ずっと傍にいてくれたな」


 父は落ち着いた声で……悪く言えば感情の籠っていない声で、淡々とそう告げる。

 それを聞いた祖母は、険しくしていた目元を僅かに緩めて言った。


「そんなこともあったね。でも、それが今更どうしたっていうんだい」

「その日の事を思い出して、母さんが俺を毛嫌いする理由が分かった。今の俺は、あの父親と同じだったから」


 父はそう言って、緊張を誤魔化すようにネクタイの結び目をいじる。


「昔、『あんな人間にはなるまい』と決めていた。でも……仕事をするには、そういう人間の方が向いていたんだ。従業員を雇う責任。全国の人達に完璧なサービスを提供しなければいけないという重圧。家族を養わなければという使命感。そういったものに溺れて、俺はいつの間にか……家庭を壊してしまった。皮肉なものだな。母さんが倒れなければ気づけなかったよ」


 父の声色が、自嘲気味に柔らかくなる。彼のこんな喋り方を、桜一朗(おういちろう)は久しぶりに耳にした。

 それが信じられなくて、思わず目を丸くする。

 驚いている桜一朗(おういちろう)の方を、両親がゆっくりと振り向いた。


「俺は父親失格だ。でも……働いている最中、『ここにいるのが桜一朗(おういちろう)なら良かったのに』と何度も思うほど、お前の事を大事に……いや違うな。尊重したいと思っている。同じ家庭の仲間として。だから――」


 父は静かに頭を下げ、告げた。


「もう一度、一緒に暮らさないか。俺と、母さんと……もう一度、春馬(はるま)家をやり直す機会をくれないか、桜一朗(おういちろう)」


 隣で、母もゆっくりと頭を下げる。


「……母さんも同じ気持ちよ。私も、仕事を完璧にすることが多くの人の幸せに繋がると思っていたの……家族も含めてね。でも、それだけじゃ回らないこともある……父さんと話して、そう結論を出したの。だから、お願いします」

「……何だよそれ」


 桜一朗(おういちろう)は口元を笑わせながら、でも目元を険しくして吐き捨てる。


「あんたらのせいで、俺や花菜(かな)ちゃんがどんなに苦労したと思ってるのさ。今だってきっと、口先だけなんだろ」


 口先だけ。本当はそうじゃないと分かっている。目を見れば分かる。二人は本気なんだと理解できている。

 でも……そんなの認めたくなかった。

 今までの苦しみを、こんなにあっさり許すことなんてできなかった。


 ――こんな高い感受性なんてなければよかった。もしそうだったら、今だって親の本気に気づかずに罵れたんだ。なんで俺は……。


 奥歯を噛みしめる。涙が、頬を次々に伝っていった。


「嫌いだよ。父さんと母さんなんて……大嫌いだ」


 口をついて出てしまった言葉が、胸を鋭く抉った。

 こんな正義感だって欲しくなかった。


 普通の人になりたかった。

 何も能力が高くなくて、普通の家の普通の子どもで、普通に笑えて普通に好きな事ができて、普通に勉強ができて普通に運動ができて、普通に好きな人と一緒になれて、それから――。


「もう、何なんだよ……何で、俺は俺なんだよ」


 涙と共に、そんな声が漏れた。


「俺は……ただ普通に、生きていたいだけなのに」


 ボロボロと涙を零す桜一朗(おういちろう)を見て、父がすぐに歩み寄り、肩を支える。


「普通になろう。普通でいい。ただ……俺と母さんはお前を守りたいだけなんだ」


 目を擦って顔を上げると、父の真剣な顔が目の前にあった。


「今度こそ、守らせて欲しい」


 嘘なんてない瞳。少し潤んでいる黒いツリ目。

 隣を見れば、同じく泣きそうな母の顔があって。

 ベッドの方を見れば、切なげに顔を歪める祖母の姿があって。

 この場の空気の行く末を握るのが、自分だという事実があって。


(……もう、どうにもならないんだ)


 不意に、体育祭の時の桔梗(ききょう)の言葉が蘇った。


 ――どんなにいがみ合っていても、君は血の繋がりからは逃げられない。


(そっか。もう……逃げ続けるのは不可能なんだ)


 そんな諦めと、この場の空気をこれ以上壊したくないという思いが、自然と桜一朗(おういちろう)を頷かせたのだった。


* * *


 小雪(こゆき)は家に帰った後、桜一朗(おういちろう)のトークルームを開いていた。

 メッセージの編集欄には「忙しい中ごめんね。一回、ゆっくり話せないかな」という文字がある。

 そのメッセージを消そうか一瞬迷って、そっと送信ボタンを押した。

 その後、既読がついたのは夕方十八時だ。


(あ、気づいてくれた……)


 それに安心したのも束の間、すぐに返信が送られてくる。


 ――会いたい。どこにいる?


(会いたいって……)


 小雪(こゆき)の胸が少しだけ弾む。あれから色々とあったが、久しぶりに彼に会えること……それが、どうしようもなく嬉しかった。

 すぐに「家にいるよ。どこかで待ち合わせしよう」と送信する。

 すると、またすぐに返信が来た。


 ――薫野湖公園。俺と君が友達になった場所。そこで待ってる。


(薫野湖(かおるのこ)公園か……急ごう)


 小雪(こゆき)はバッグにスマホと財布だけ入れ、父に「ちょっと行って来る」と声を掛けて家を飛び出した。


* * *


 小雪(こゆき)が薫野湖(かおるのこ)公園に着くと、そこには既に桜一朗(おういちろう)の姿があった。

 緑も深くなった桜の木の下、夕焼けに顔を柔らかく照らされながら佇んでいる姿は、初めて見たときのように儚げだ。まるで、どこかに散り去ってしまいそうだった。


「桜一朗(おういちろう)……!」


 小雪(こゆき)が駆け寄ると、桜一朗(おういちろう)はいつものように柔らかく微笑む。


「呼び出しちゃってごめんね」

「ううん、会いたかったのは私も同じ……」

「そっか。……ねえ、お願いがあるんだ」

「何?」

「抱きしめて欲しい」


 桜一朗(おういちろう)は目を伏せながら笑って、そう告げる。

 彼の笑顔に元気が無い事。それに気づきながらも、小雪(こゆき)は問いただす事ができずに頷いた。


「うん」


 そっと彼の体に腕を回し、優しく抱きしめる。

 すると、すぐに彼の方からも抱きしめ返された。


「……ふふ、やっぱり安心する」


 彼の口から、そんな柔らかい声が漏れた。


「俺、小雪(こゆき)が抱きしめてくれた事、死ぬまでずっと覚えてる。記憶力とか関係なく、何度でも思い出すようにする」

「……うん」


 小雪(こゆき)の胸に、嫌な予感が芽生えていた。

 彼の口ぶりが、まるで別れを切り出そうとしているように感じられたからだ。

 桜の花が散るように、その予感は必然になってしまう。


「でも、小雪(こゆき)は……俺の事、忘れていいから」


 シンプルで、彼らしく優しい言葉。

 でも、小雪(こゆき)の胸はナイフで何度も刺されるように、強く痛んだ。

 その痛みに耐えようと、彼を抱きしめる力を強くする。


「俺の事を、少しずつ忘れていって。一緒に行った場所とか、仕草とか声とか、笑顔とか、その時感じていた気持ちとか……ゆっくり忘れていって。そして、他の誰かの隣で幸せになるの。別に難しい事じゃない」

「……やだよ」


 小雪(こゆき)は桜一朗(おういちろう)のシャツの裏を強く握って、尋ねる。


「離れ離れになるしかないの?」

「……俺、父さんと母さんの家に戻るんだ。その方が、家のみんなは喜ぶから」

「桜一朗(おういちろう)の気持ちは? 納得してるの?」

「理不尽を納得するのには慣れてる。……別に、今更」

「私は嫌だよ。ずっと一緒にいたいよ……」


 ずっと堪えていた涙が、堰を切って溢れ出す。


「あなたが私の欠けてる心を埋めてくれた。だから……あなたがいないと、私はずっと寂しいまま」


 泣きながら抱きしめられていても尚、桜一朗(おういちろう)は力無く笑うだけだ。


「君なら大丈夫だよ。もう『氷の女王』なんて揶揄されることもないし、友達もいる。君を好いてくれる人だっている。だから……」

「桜一朗(おういちろう)は」


 小雪(こゆき)は震える声で尋ねる。


「今、自分の選んだ道で、後悔しないで生きていける?」


 彼女の質問が胸にグサリと刺さり、桜一朗(おういちろう)は痛みを堪えながら目を潤ませる。


「ほんとは……嫌だよ。でも、時間が経っていくうちに大丈夫になるんだ。それがきっと、『生きる』ってことだから。俺も、君も」

「……そっか」

「うん、そうなの」


 桜一朗(おういちろう)の息が震えて、喉の奥が熱くなる。

 でも、これ以上泣き顔を見せたくなくて、必死に涙を堪えていた。


「だから、忘れて」

「……分かった。でも私、あなたの事、忘れない」


 小雪(こゆき)はゆっくりと桜一朗(おういちろう)から離れ、涙を拭って顔を上げる。


「あなたが好きなまま」


 まだ潤んだ薄紫の瞳を優しく細めて、シャツの胸元をぎゅっと握りしめて。


「私、前に進むね」


 今まで見たことがないぐらい、優しくて美しい笑顔で笑っていた。


「今までありがとう。あなたに会えてよかった」


 小雪(こゆき)は優しい微笑みでそう告げると、彼に背中を向けて公園から立ち去っていく。

 彼女の笑顔が、声が、言葉が……愛情が、桜一朗(おういちろう)の胸に焼き付いて、離れない。

 湖に映る夕方の空も、緑の揺れる音も、夏の蒸し暑い空気も……何もかも、そのまま脳に焼き付く。


(……ああ、そっか。忘れないって……残酷だ)


 彼女の笑顔を思い返しながら、彼女の言葉を思い返しながら……彼女の覚悟を悟ってしまった。


(小雪(こゆき)は、ずっと……俺と同じ痛みを抱えるつもりなんだ)


 泣き疲れて腫れた瞳で、彼女が去っていった方向を見つめる。

 初めて会った時とは、見違えるほど生き生きとしている自然。それとは対照的に、光を失った自分の世界。


(どんなに頑張っても、足掻いても……世界は、優しく抱きしめてくれないんだな)


 桜一朗(おういちろう)はその場にしゃがみ込んで、枯れかけている瞳から涙を絞り出していた。


* * *


 帰り道。夕暮れの薫野(かおるの)市の住宅街。

 夏の明るい夕日の下で、小雪(こゆき)は涙を拭いながら歩いていた。


(苑香(そのか)ちゃん、可憐(かれん)ちゃん、ごめん……やっぱり駄目だった。でも、最後はちゃんと笑えたよ)


 涙が頬を伝う。夏の温い空気が、シャツを汗ばませていく。


(最後は笑えたけど……きっと私、桜一朗(おういちろう)の事、笑顔で思い出せないや)


 胸が切られるように痛くて、悲しくて……涙が止まらなかった。


(私、桜一朗(おういちろう)と出会ってから、いつも泣いてばかりだったなあ……)


 ――大丈夫。


(もう一回で良いから、笑顔で『大丈夫』って、言って欲しかったなあ……)


 泣くのに夢中になりながら、小雪(こゆき)は横断歩道を渡りかける。

 その時だ。


「危ない!」


 涼し気な男子の大きな声と共に、体を強く抱き寄せられた。


「え……」


 目を丸くして声の主を確認する。

 栗色のショートヘア、細いフレームの眼鏡の下の、涼やかなツリ目が大きく見開かれていた。


「桔梗(ききょう)君……」

「何考えてる! ちゃんと信号を見ろ! まだ赤だぞ!」


 彼がそう怒号を飛ばした直後、大きなトラックが猛スピードで走っていった。


「あ……ごめん。ちょっといっぱいいっぱいで。ありがとう」


 小雪(こゆき)が笑顔を作ってお礼を伝えると、桔梗(ききょう)は彼女の腕を掴んで尋ねるのだ。


「泣いたのか?」


 不安げな顔を向けられて、小雪(こゆき)は誤魔化すことができずに頷く。


「う、うん……ちょっとだけ」

「話を聞かせてくれないか」

「え……?」

「僕は、君が笑顔になる手伝いがしたいんだ。君が誰を好きでいてもだ」


 桔梗(ききょう)は真剣な顔でそう告げ、再度尋ねる。


「僕を、頼ってくれないか?」


 彼の真摯な言葉と表情を見て、小雪(こゆき)は泣きそうになりながらも頷くのだった。

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