雨の降らなかった夜
雨の降った記録がない夜に、時計は雨の音を覚えていた。
それも、誰かが一度だけ使った時計だった。
タキウスは受入票を裏返した。亡くなった夜警の遺品について、公務品と私物の区分を確かめるよう依頼が来ている。新品の懐中時計が彼の制服の内ポケットから回収され、遺族は本人のものとして引き取りたいという。
「新品と言っても、傷はある」
エレナが目盛りを見た。蓋の縁には細い擦れが二本あり、留め具には黒い粉が残っている。
「支給からどれくらい経っていますか」
「その晩が最初の当直だ」
「それを何で確かめました?」
「今から確かめる」
受入票を出した夜警組織の担当者は、正確だった。支給日はもともと定期更新日として決まっていた。旧型の時計を回収し、未使用在庫から新型を一つずつ支給する。亡くなった夜警も同じ手順で受け取っている。
支給簿、旧時計の回収簿、在庫票。三種類の記録が同じ番号を示した。亡くなる直前だけ特別に新品を渡されたのではない。
「それでも途中で交換したかもしれません」とエレナは言う。
「その可能性を潰せるか、夜警側に聞こう」
時計を受け取ってから死亡するまでの間、亡くなった男は持ち場を替えていない。支給後の巡回開始を示す確認票にも、時計番号がある。夜半に倒れ、翌朝早く発見された。発見時の品目録に番号の一致が記されている。
タキウスが気にしたのは、時計の時刻ではなかった。蓋を閉じても、指先にかすかな冷えが残るというエレナの状態報告だった。一般の時計にはない感覚の痕跡があるため、局で限定的な残響確認をすることになった。
読取前の状態を記録し、エレナが立ち会う。タキウスは机の上に手を置き、時計へ意識を合わせた。
細かく叩く音が耳に満ちた。
肩の辺りが冷たくなる。靴底の下に硬いものがあり、次の瞬間に足が滑った。石の上に水が広がっている気配。どこかで男が声を張り上げる。
「東門を閉めろ!」
遠くから一つ、近くから二つ。警鐘の鳴り方が違った。声の後が欠け、音だけが短く重なる。そこまでで、タキウスは指を離した。
「雨に聞こえた」
「感覚欄へは?」
「細かい連続音。肩の冷え。足元の滑り。誰かの声」
エレナは記録紙を手渡した。「雨」「東門の閉鎖」は別欄に置く。
夜警の詰所には、当直簿と鐘番の記録があった。死亡した男の巡回時刻には、東門は閉じていない。門衛は交代し、物資搬入の検印も残っている。死者の巡回と同じ時間帯、鐘番が非常用の合図を鳴らした記録もなかった。
ただ、あの音は非常鐘とは限らない。近い鐘が二つ重なる時間は、夜の交代合図にもある。
「あなたが拾った鐘の音で、あの晩だと分かるのか」
詰所の古参の男が聞いた。
「時計があの晩しか使われていないことを、先に確かめています。鐘は補助です」
「なるほど。でも、あの晩に雨が降ったとは思わんよ」
門衛の一人は、その晩に屋外の見張り台で灯火を入れ替えた。紙の覆いを使った灯火は濡れると駄目になるが、濡れた記録はない。市場の屋根を管理する商人は、朝に板を拭く必要がなかったと証言した。商人の帳面にも、雨で荷が遅れた記載がない。
「つまり雨はなかった」と夜警の男が言う。
「大通りではなかったという話です。水を使った場所がないかも調べます」
タキウスは巡回経路を歩いた。
出る前に、夜警の上役は地図へ巡回区間を赤線で引いた。倒れていた場所は巡回の途中であり、東門へ着く前の路地だった。夜警が何時にどの角を曲がったかは細かく残っていないが、持ち場の交代記録なら確認できる。
「道の途中で誰かに会ったのか、までは書きません」と上役は言う。
「そこも推定しません。時刻の上限と下限が欲しいんです」
「変わった調べ方だな」
「帰る先を決めるための調査ですから」
上役はようやく、机の上の記録をこちらへ向けた。昼の通りは荷車と子どもで混んでいる。東門へ向かう横道には染物の桶が並び、住人が余った水を路面へ流すこともあるという。道の一角は古い石畳で、溝が浅かった。
水をこぼせば、足元だけ濡れる。
それで冷えや滑りは説明できるかもしれない。
タキウスは染物屋で水の流し方を聞いた。主人は朝に桶を空けると言い、働き手は閉店後にも道具を洗うと言う。矛盾ではない。二人が違う仕事をしているだけだった。
「その夜は?」
「俺は家にいたよ」と主人。
「わたしは残っていたけど、いつもの片付けをしただけ」と働き手。
片付けに使う水量は、靴底を滑らせるには十分かもしれない。だが、その晩に死者がここを通ったかどうかは、誰も見ていなかった。
近くの菓子屋には閉店の記録が残る。帳場の紙は夜警が倒れたとされる時刻より前に締められていた。菓子屋が店を閉じた後の音は、帳簿から分からない。タキウスはその空白を、勝手に雨の時間へ置き換えないようにした。だが、細かい連続音は? 頭上からの雨かもしれないし、板屋根に落ちる別の水かもしれない。ひとつ説明が見つかれば、全部説明できるとは限らなかった。
タキウスが門番に尋ねた。
「東門を閉めろ、と誰かが叫ぶことは?」
「仕事ではありますよ。閉門時刻にも、点検にも。けど、記録にない時間帯には覚えがないね」
「声の主が門番だとは限らない」
「でしょうね」
話はそこで止まった。
門番は当直簿の余白を指し、別の夜の記載を見せた。閉門時刻とは無関係な訓練で「門を閉めろ」と号令を使った記録がある。声だけで本当の門閉鎖を示せないのは、そのためでもある。
「これが同じ日のものなら、早かったのに」
「違う日ですからね」と門番が言った。
タキウスは日付を確かめ、帳面を返した。別の日の都合のいい記録を持ってきても、時計の謎が解けるわけではなかった。
局へ戻ると、エレナが支給時の時計箱を見ていた。外箱には、定期更新の印が押されている。番号も受入票と一致する。
「どこまで分かりました」
「時計が初めて使用された夜は確かめられた。そこで拾った感覚の意味は、まだ分からない」
「返還先は?」
「支給品だから、公務品か私物かの取扱いを確認中だ。遺族へは理由を説明する」
返せば話が終わるわけではない。残響に加工があるかどうかも、現時点では言えない。エレナは蓋の縁の細い擦れを拡大図に描いた。
「この傷、支給前からあったかもしれません」
「前の検品図は?」
「あります。そこにはないように見えます。ただ、描き方が粗くて」
「新しい傷なら修理かもしれない」
「だから、修理票を照会します」
タキウスは時計の近くに手を伸ばしかけ、やめた。さっき一度読んだだけで、あの冷たさは少し薄くなったように感じる。二度目を行う理由はない。
夜警の遺族へ出す説明には、確認済みの所持と勤務の記録、品の保全理由だけを書いた。「雨の降った夜」とも「門を閉める命令」とも書かない。誰の経験が残っているかさえ、まだ決め切れない。
記録を閉じる頃には、窓の外が暗くなっていた。雨は降っていない。タキウスは窓枠を指で押し、下の石畳を見た。日が落ちても、道の色が変わらない。
その夜の時計も、こんな景色を見たのだろうか。
いや、時計は景色を見ない。考え直して、タキウスは検品図を手元へ戻した。今必要なのは、時計の持ち主がその晩にどこにいたかを確かめることだった。




