傷の形
「傷です、という報告では、どこにあるのか分かりません」
青い髪の研究者は、タキウスが描いた図を見て最初にそう言った。
「ここだ。内側の、細いところ」
「この図のどこにも『内側』は定義されていません」
「物を見れば分かるだろ」
「物を見る前に図が要るから、呼ばれたんです」
ノエル・セレインは眼鏡の位置を直した。王都学院から派遣された魔術研究者で、手には折り目のついた薄い方眼紙を持っている。局へ来る道すがらも書き物をしていたらしく、指先に墨が付いていた。
問題の品は、亡くなった時計職人の荷から出た古い小型の術具だった。円盤の縁に細い目盛りがあり、中心には灯りを閉じ込めたような透明層がある。製造時の動作や使用目的を示す記録がなく、危険性を判定できないため、一般の整理業者から局へ移された。
エレナは朝から封印前の鑑定を進めていた。表面に破損はない。問題は、透明層を横から観察したときだけ現れる、線のような段差だった。
「普通の修理痕とは違うように見える」
タキウスが言い換えると、ノエルはようやく頷いた。
「それなら検討できます。ただ、普通の修理を何と比較しました?」
「修理工房の帳面だ」
「種類は?」
「同型の術具が載っている」
「帳面を見せてください」
彼女は椅子を引き寄せた。濃紺の衣服は歩くと片側の裾だけが揺れ、腰には細長い筆箱がついている。筆箱の金具を開ける音がやけに大きい。
エレナは封印具と品の間へ指を入れないように、小さな台を動かした。
「学院に依頼したのは、術式の構造に関する知見です。局の保管品ですから、許可なく実験はできません」
「承知しています。破壊検査はしません」
「破壊しない実験も、先に目的を」
ノエルは一瞬だけ唇を尖らせ、方眼紙の上に調査項目を書き始めた。
タキウスはその横で、品の来歴を調べる。受領票では円盤一つと交換用の台座が一組になっているが、故人の仕事帳には製造したという記載がなかった。前所有者の名もなく、同じ工房の道具に付いていた番号だけがある。
「この工房は、修理のとき何を残す?」
彼が問うと、遺品整理業者は控えを広げた。
「部材を交換したら、古い方の番号も並べて書く決まりだったようです。ご家族が出してくださった帳面です」
「円盤の番号は?」
「あります。ただ、交換記録はありません」
受入時の外観記録にも、その番号は写されていた。だが、交換記録がないという事実は、修理されていないことの証明にはならない。故人自身が作業した可能性もある。
「部材を替えずに内部だけ触ったら、記録は残る?」
「本人なら、残さない日もあったでしょうね」
タキウスはそれを余白に記した。
午後、ノエルは局の比較資料から同型の術具を二つ借りてきた。一つは長く使用して層にくもりが出た品。もう一つは公的な修理歴のある品だ。どちらも現物を損なわない条件で観察が認められた。
「ここが、自然な摩耗です」
ノエルは透過光を変え、くもりの広がりを示した。透明層の中で、線は一方向に薄くなる。
「こちらが通常修復。接いだ境目は表面に近いところから始まる」
タキウスは目を細めた。言われれば違いは分かるが、普通の目では半分ほどしか追えない。
「今回のは?」
「表面に出ていない。内部の二つの層だけ、位置が半目盛りずれています」
「誰かが削った?」
「削ったかどうかも、まだ言えません。製造時からの個体差かもしれない」
エレナが状態図を差し出した。彼女が午前中に書いた線と、ノエルが描いた線が並ぶ。相違は段差の始点の位置だった。ノエルは自分の図をいったん伏せて、エレナの記録へ顔を近づけた。
「この角度、どうやって固定したんですか」
「台座の欠けに合わせました。実際に見た位置を再現するためです」
「その固定具の形を、図に追記してもらえますか」
「当然です」
タキウスは二人のやり取りを聞きながら、朝に自分が書いた「内側の細いところ」をこっそり消した。
ノエルは工房の製造見本図を確かめ、段差を比べた。
タキウスは比較品の修理伝票を時間の順に並べた。修理歴のある品は、出庫前に「表面層の縁を整えた」と明記されている。今回の品には同じ記載がない。ただし記載がないだけでは、作業しなかったことの証拠にならない。そこはタキウスが先に言った。
「分かっています」とノエルは返した。「だから、伝票だけでは終わらせません」
彼女は持参した方眼紙の隅へ日付を書き、比較品の図を複写した。筆が速く、机の上から押さえる指が外れると紙がすぐずれる。タキウスが端を指で押さえると、一度だけ礼を言った。
昼食どきの鐘が鳴ったが、ノエルは鞄から乾いた菓子を出して噛み始めた。午前中に学院で別の研究報告を仕上げたばかりだという。局の不明品より、彼女の本業の締切の方が先に決まっているらしい。製造の誤差なら、目盛りの刻みと層の始点も一緒にずれるはずだが、今回は目盛りと外枠が揃っている。内部の層だけが違っていた。
「人が手を入れた可能性があります」
「可能性だけ?」
「今ある比較では、自然摩耗でも通常の修繕でも説明しにくい。ですが、目的は分からない」
ノエルは持参した紙へ赤い印を付けた。色が濃すぎたようで、隣の用紙へ墨が抜けた。慌てて裏返しにする。
「どういう術式ならここへ触れられる?」
「詳しく調べれば候補は挙げられます。今日ここで答えたら、ただの思いつきです」
タキウスは思いつきと言われ、少し耳が痛くなった。
鑑定室を出る前に、エレナは保管区分を再検討した。外見に破損はないが、内部の位置ずれは未判定。通常返還はまだ認めず、危険性不明の品として暫定封印を続ける。期限と再検査の条件は局の保管責任者に上げることになった。
「封じたら、これでもう調査は終わりですか」
ノエルが尋ねる。
「終わりません。安全に調べる条件が決まっただけです」
「学院の資料を確認してきます。層の位置を変える旧い手法があったかもしれない」
エレナが頷くと、ノエルは満足そうに筆箱を閉めた。だが、それで帰ろうとはしない。タキウスの作った来歴票を、まだ読んでいた。
「この番号の前所有者が分かったら、知らせてください」
「専門家として必要なのか?」
「分からないまま比較すると、使用時間まで違うかもしれないでしょう。あなたの帳簿が要ります」
学院の研究室では、人間がどの程度使った品かを記録する時間が足りないのだという。
「学院の保管標本は、だいたい使用歴がきれいなんです。壊れるまで使った道具を、元の持ち主の生活ごと集められるわけじゃないから」
「それで局の記録か」
「それで局の記録です。勝手に持ち出せないのは面倒ですけど」
彼女はエレナの方を見ると、慌てて付け加えた。
「規則が必要なのは分かります」
「必要だと分かっているなら、守っていただければ結構です」
「もちろん」彼女は帰りの馬車の時刻を気にし、途中で話を切り上げた。
「次は『傷』じゃなくて『二層間の位置ずれ』と書いてください」
「それじゃ長い」
「正確です」
タキウスは彼女が去ったあと、記録を見直した。欄外の「不気味な線」を二重線で消し、代わりに「内部二層間の段差。原因未確定」と書く。
図の出来はまだ悪かった。消し跡で紙が薄くなっている。次に持ってくるときは、新しい紙にしよう。




