壊れたものを直す女
魔道具工房の扉には、「修理は順番」と書かれていた。
その下に、もっと小さく「役所も例外ではない」とある。
タキウスは二枚目の札を読んだ。エレナが隣で何も言わない。二人が入る前から、工房の奥では金属を叩く音が続いていた。
「予約は入ってますよね」
「入っています。ただ、時間が過ぎれば次の人を呼ぶそうです」
「まだ過ぎていない」
「あと三分です」
扉を開けると、熱い鉄と油の匂いがした。奥の作業台で青いボブの女が、ゴーグルを額へ上げる。腰には工具帯。短い作業用の衣服と丈夫な靴には、細かな煤がついていた。
「局の人?」
「タキウス・サイデル。こっちは鑑定封印官のエレナ」
「ミラ・フェルナー。検査だけなら、その机へ置いて。修理はしないから」
タキウスが持参したのは、先日の調査で保管区分が変わった懐中時計の状態図と、正式に封印された現物だった。古い時計のように見えて、内部には残響を保持する薄い魔術層がある。支給前の検品図にはなかった、蓋の縁の細い開口痕。修理票にも対応する作業は記されていない。
「開けずに、どこまで分かる?」
「まず、開けたことがあるかどうか」
ミラは、当然のことを言うように答えた。
エレナが作業台の周囲を確認し、封印票を広げた。工房の窓は高く、明かりが手元まで届く。ミラは壁から鏡の付いた小さな灯りを下ろし、時計の縁へ斜めに光を当てた。
「ここに細い筋が二本ありますね」
「傷として記録しています」
「傷は傷だけど、意味は違う」
工房には同型の機構を持つ修理済みの見本があった。ミラは一つを回転させ、製造時につけた目の細かな加工筋を示す。円に沿ってほぼ同じ深さ。次に通常の蓋修理でついた傷。工具を当てる位置から、筋が縁へ向かって伸びる。
問題の時計は、そのどちらとも違った。
「蓋を開けるために力をかけた痕が、縁の一箇所にだけある。しかも、外から触りやすいところじゃない」
「どういう意味だ」
「蓋を直したい人は、こんなところに力をかけません。中の層に届くように工具を入れたと考えた方が、傷の向きに合います」
ミラは細い工具の先を、時計には触れさせずに隣へ置いた。刃の幅が傷に近い。
「これで開けられる?」
「似た工具なら。誰の仕事かは別。うちでも他所でも作れます」
彼女は言いながら、机の下から取引先の伝票を引っ張り出した。昨日届くはずだった部材がまだ届かず、午後の納品をずらさなければならないという。タキウスが時計を持ち込んだ理由より、そちらの方が今は困るらしい。
「うちの時間も料金に入れてね。役所の確認が長引くと、先に待ってる人から怒られる」
「もちろん」
「もちろんって言った人が、帰りに値切るのを何度も見た」
エレナが検査依頼書の報酬欄を示した。ミラは数字を見て、ようやく表情を緩めた。
非破壊の観察で確認できたのは、内側へ向かう開口痕の位置までだった。
ミラはさらに、同じ型の壊れた外蓋を作業台に持ってきた。何度か修理を繰り返した見本だそうだ。タキウスが指でなぞろうとすると、彼女はさっと手を止めた。
「触るなら、ここ。工具が滑る位置は鋭いから」
「よく覚えてるな」
「自分で切ったからね。二回も」
彼女は手の甲の古い線をちらりと見せ、すぐに作業へ戻った。職人の失敗を笑うより、いま注意された場所を図に写す方が役立つ。内部の状態を確かめるには、封印を解除し、時計の薄い蓋を動かす必要がある。
「どうします?」とミラ。
「開ける前の記録を残して、許可された範囲だけ進めます」とエレナが答えた。
タキウスは既存の状態図を渡した。開封前の写真に代わる写し図、封印番号、支給時の検品図、局での一回だけの残響読取記録。どれも机に並べると、不釣り合いに紙が多い。
「これ、全部あんたがまとめた?」
「大半は。図はエレナだ」
「前に何があったか残してあるんだ。なら、後から『最初からこうだった』って言われずに済むね」
ミラは笑わずに言った。職人にとって、それがどれだけ助かるか知っている口ぶりだった。
エレナの立会いで封印の一部を解除し、ミラは工具で蓋の端をわずかに持ち上げた。無理に曲げない。薄い金属がわずかに音を立て、内部の細い輪が見えた。
「ほら」
輪の横に、青い粒が沈んでいる。錆でも金属粉でもないようだが、ミラはそこで手を止めた。
「何の粉だ?」
「まだ知らない。色だけで決めるなら、青い染料も、魔術塗料も、掃除で使う粉もある」
「布に青い粉がついた件が、この前あった」
「見た目が似てるだけなら、同じだと思わない方がいい」
タキウスは先週の洗濯場の受渡札を思い出した。複数の工房から集まった作業衣の混ざる便。あの布の粒は縫い目に付いていた。これは時計の内側だ。付着経路からして違う。
「分析は別に依頼する」
「保存方法は?」
「エレナと決める」
「それならいい」
ミラは極細の清掃具を手に取り、粉には触れず、その位置を目盛りから記した。残響を宿す内層の周囲には、押したような薄い跡がある。
「時計を進めたり遅らせたりするための作業には見えない」
「どうして?」
「時計の輪列にも針にも触っていないから。仕事をするならまず目的の場所へ工具を入れるでしょ。この跡は、残響のある層の方に寄っている」
タキウスは以前ノエルが示した段差の図を思い浮かべた。似た技術だと即座に結びつけるには、物も部位も違う。
「修理ではなく、内部に触るためだった可能性がある」
「そう。何をしたかは、これから調べること」
エレナは一連の操作を確かめ、時計を元の位置へ戻した。ミラが留め具を押し込む前に、一箇所だけ小さな印をつけ、今日の開封による接触痕と従来の痕を区別する。エレナが再封印を行い、二人で状態図に確認印を入れた。
「これで帰れます?」
ミラは工房の壁時計を見た。もう一件の納品時間が近い。
「調査の結果は後で送ります」
「品の加工をしてないって書いといて。開けただけ」
「分かっています」
「分かっていても、書いてないと後で忘れる人がいる」
タキウスはその場で追記した。ミラは肩越しに見て、短くうなずいた。
帰り道、エレナは時計の箱を両手で持ち直した。
「彼女は、あなたのことを信用したようです」
「そうか?」
「証拠を急いで触らせなかったからでしょう」
「それに、払う金額も先に見せた」
「それは重要です」
タキウスは少し笑った。背後では工房の槌の音が再び始まっていた。
局へ戻って作った報告には、開口痕が通常修理と整合しないこと、内層へ工具を入れた可能性、青い残留物の保存位置と未同定であることを書いた。
ミラからは、検査結果と別に請求書が届いていた。検査に使った時間、借りた工具、立会いに要した作業台の占有時間まで細かく書いてある。末尾には小さく「検査後に局が再封印したことを確認済み」と付記されていた。
タキウスは料金欄を見て、午後に帰りかけたミラの顔を思い出した。値切る余地はなさそうだったし、値切る理由もなかった。「人工編集」も「加工者」も、まだ一行も書けなかった。
エレナは封印票に日付を記し、時計を棚の奥へ収めた。タキウスが最後に確かめたのは、今度誰が開けるとしても、今日までの状態を区別できるかどうかだった。




