愛していた、と瓶は言う
瓶を返してほしいとは、まだ思わない。
クラウディア・ベレスはそう言ってから、自分の手袋を片方だけ外した。
「触れても?」
「封印には触れないでください」
エレナが答えると、クラウディアは卓上のガラス瓶ではなく、その隣の受領目録を指先で押さえた。瓶には黒緑色の細い飾り紐が巻かれている。亡夫の遺品と認められた香水瓶だった。局が預かったのは、封が切れたような薄い傷がある、と商家の整理人から申告を受けたためである。ほかにも商売の帳簿が運び込まれており、私物の返還と取引書類の分類を分ける必要があった。
「この言葉を聞きに来たわけではありません」
彼女は目録の余白に記された短い文を読んだ。
愛していた。
タキウスが立会いのもとで一度だけ拾った声の断片である。残響記録には声の近さ、乾いた喉の音、指先の冷たさ、淡い甘さのある匂いという感覚が順に書かれていた。声の主が誰か、相手が誰かは記していない。
「夫に似た声だと聞きました」
「似ている、と記録しています。本人確認とは別です」
タキウスが答えると、クラウディアは頷いた。
「では、私に向けた言葉かどうかも分かりませんね」
「はい」
「だったら、なぜ私のところへ問い合わせが来たのでしょう」
もっともな質問だった。瓶自体の帰属先が彼女になる見込みであることと、その中に残った声の宛先は別の問題だった。
タキウスは、瓶がどこから来たかを順に説明した。夫の書斎の奥の抽斗。回収した整理人の署名。局へ届くまでに移った箱は一つ。瓶の口には古い補修痕があり、今回の整理より前についたとみられる。封印前の状態図をエレナが作成し、破損リスクを考えて読取は一回で止めてある。
「夫は香水を使う人ではなかったわ」
「買う人でも?」
「人への贈り物は、店の者に選ばせました。私にだってそうでしたもの」
言いながら彼女は、口元をわずかに上げた。夫の愛情について見知らぬ役人に語るのが滑稽なのだろう。だが、その笑みは長く続かなかった。
「それに夫は、私に『君』とは言いませんでした」
残響記録の音声欄には、愛していた、の前に小さく「君」と聞こえる声がある。タキウスが言いかけるより早く、クラウディアが続けた。
「あなた方がここで言えることは、夫の知らない人がいたかもしれない、ということだけでしょう」
「知らない人ではなく、別の相手です。あるいは、相手がいなかったのかもしれません」
「そこまで言い出すと、何でもありになるわね」
「今のところは」
彼女はあきれたように息を吐いた。そこで初めて、エレナが目録から顔を上げる。
「声が本物でも、違う方に向けた可能性があります。反対に、声音が似ているだけならご主人とは限りません。私たちが調べているのは、瓶の状態と保管経緯です」
「知りたいのはもっと別のことです」
クラウディアは裸の指を手袋に戻した。「ずいぶん迷惑な話でしょう?」と尋ね、誰も返事をしないうちに、「私にも」と付け足した。
夫の商店から届いた購入控えには、瓶と同じ意匠の品が載っていた。ただし買主欄は店の名義で、贈られた相手の記録はない。タキウスは購入時の品目、補修伝票、整理人が作った封入表を並べた。誰かへの贈り物と断定するには、どれも足りない。
商家から届いたもう一枚の紙は、クラウディア自身が帳場で書き足したものだった。瓶を預けた時刻の横に、小さく「今月中に店の分と私物を分けること」とある。タキウスがその欄を見ると、彼女は手早く紙を裏返した。
「店の者が困るの。帳場の鍵を借りに来るたび、夫の遺品の話まで聞かされるのは気の毒でしょう」
「店の記録も全部片づけてからお越しになれば」
「それが済むなら来ていません。あの人、帳面の書きかけを毎年持ち越す人だったから」
死者を偲ぶために時間を空けられる人ばかりではない。タキウスは商家の提出書類を分類し、瓶の来歴と関係しない帳場の記載を調査票から外した。
補修伝票の端には「口金のみ締め直し」とあった。古い修繕なら二重の加工痕も当然あり得る。先日調べた術具の不明な段差と、似ていると言い切るには対象も部位も違った。
「この伝票の原本は?」
「商家の修繕台帳にあります」
「台帳は帳簿の整理が済むまで、商家側で保管だそうです」
エレナが答えた。正式な任意照会の写しだけを使う。局には帳簿を丸ごと持ち去る権限はない。
帰属の手続を説明している途中、クラウディアが突然、夫の仕事ぶりを話し始めた。
「店を閉める時間にはうるさい男でした。自分はいつも遅く帰るくせに、人には時間を守れと言う。最後の年は、私の帰りが遅いと先に寝ていました」
タキウスは相槌を打つだけにした。聞き取った話を真相へ結びつける気にはなれなかった。
「昨夜、帳場を片づけたんです。亡くなってからも、店の者は普通に給金を取りに来るでしょう。私はあの人の代わりに判を押している。そんな朝に『愛していた』と書かれた紙をもらっても、何をしたらいいのかしら」
「今日、決める必要はありません」
「そうでしょうね。けれど、決めないと瓶はどうなるの?」
エレナは、本人の受領意思と保管責任者の承認が必要なこと、調査継続には期限と理由を記すことを説明した。無期限に取り置く約束はしない。
クラウディアは机上の書類を読んだ。彼女の指が止まったのは、加工痕の欄ではなく、受領欄だった。
「今日は受け取りません。瓶はまだ調べてください。ただし、私の代わりにあの人の心の中を決めないで」
「承知しました」
タキウスは返答した。エレナは状態図と読取記録を別の封筒にしまった。
クラウディアが席を立つと、黒緑の衣装の裾が椅子の脚をかすめた。まだ昼前だというのに、彼女の次の予定は店の月末勘定だという。遺族の話を聞き終えたからといって、遺族の一日が終わるわけではない。
「呼び方が違うのに、どうしてご主人の声だと思ったんでしょう」
見送ったあと、エレナが尋ねた。
「声が似ていたからだろう。俺だってそう思った」
「記録にはそう書きませんでしたね」
「書けるほど確かじゃなかった」
彼は一度だけ開いた残響記録の末尾に、甘い匂いと音声との境界を示す細い線があるのを見た。エレナが初回に描き入れたものだ。どんな意味があるのか、まだ誰にも分からない。
タキウスは線を消さず、写しの番号を記した。香水瓶は封印を解かないまま棚へ戻された。
夕方、商家から届いた別の便りには、月末の支払予定が細かい字で書かれていた。クラウディアの署名は最後にあった。瓶の返事より、その紙の方がずっと急がれているらしかった。




