三人目の歌声
竪琴の持ち主は、一人ではなかった。
それ自体は珍しくない。ところが返還を申し出た二人が、それぞれ「ほかの家に渡ったことはない」と言い張っている。
琴は局の小さな検査室の台に置かれていた。長い年月で木が黒ずみ、弦は一本だけ色が違う。エレナが弦を触ると、ゆるんだ一本が気の抜けた音を出した。
「弾くために預けたわけではないんですけど」
タキウスが言うと、彼女は指を引いた。
「音の状態を確かめただけです。壊してはいません」
「その言い方、ミラみたいだな」
「彼女なら請求書も付けます」
琴には三人の歌声の残響がある、と最初の読取票に記されていた。低い歌い出しと、途中から重なる高い声。そのさらに奥から別の人が短く同じ旋律をなぞる。タキウスも封印前の限定読取でそれを感じ、手を離したとたん三人の声が入り乱れたように思えた。
今なら、そこがいちばん疑わしかった。
夜警の時計に残る雨音。商家の香水瓶から拾った呼びかけ。以前の術具の細い段差。記録上の不自然さが続くと、何でも人の手が入ったように見えてくる。
「つなぎ目があるんじゃないか」
「本当にあるなら図で示してください」
エレナは静かに答えた。「不審だと思った順番ではなく、物の状態を先に見ます」
タキウスは琴の裏側へ回った。底板には古い店印が二つ、さらに別の形の印が一つある。壊れた箇所の近くには、三つの年代の違う修繕痕があった。
楽器の台座には、細い傷が碁盤の目のように重なっていた。誰かが椅子を引き寄せた跡か、何度も床へ置いた跡か。音のなかの三人が同じ部屋にいたと想像するのは簡単だったが、台座には違う時期に塗り直した膜が三層ある。使われ続けた長さだけは、木が語っていた。
タキウスは、最初の申立人が持ってきた絵にも目を留めた。子どものころの落書きらしく、琴の横に大きな鍋が描かれている。琴の価値を知る手掛かりにはならなかったが、叔父の家では夕食の時間に音が鳴っていたのだろう。
最初の申立人は、亡くなった琴師の甥である。幼いころから叔父が弾いていたと言う。もう一人は、かつて琴を購入したという家の娘で、実家の財産整理が済まないうちに父が亡くなった。どちらも虚偽を申し立てているようには見えない。
「うちの父が買ったものなのよ。受領票だってあります」
娘の書類には琴の全長と木目の傷まで記してあった。
甥が持参したのは叔父の修理費控えだった。底板の一部を張り替えた費用が載っている。
同じ琴をそれぞれが知っている。それだけは確かだった。
「売買が一度だけだったと決める理由は?」
タキウスが尋ねると、娘は即座に「父は物を手放さない人だったから」と答えた。甥は反対に「叔父は借り物を平気で使う人だった」と言った。性格の証言は面白いが、琴の来歴を確定しない。
琴店の古い控えを取り寄せると、最初の店印に対応する譲渡票があった。別の家の名前だった。琴はその後、修理を機に店へ戻り、修理費未払いの代わりに引き取られたことがある。さらに販売され、貸し出され、持ち主を変えた。
「三回も売られたのか」
「三回どころじゃないです」
琴店の店員が指で数えた。「店の台帳には五回あります。ただ、最後の二回は所有ではなく長期貸出です」
「申立人にはどちらも見せていい?」
「店の控えだから、個人情報は削ってくださいね」
局へ持ち帰ったのは必要な記載の証明付き写しだけだった。
エレナは底板の修理箇所を、当時の琴店の図と一つずつ照合した。最も古い印の周囲に木が一度削られた跡。中ほどの印にだけ薄い補強板。最近の弦留めには、娘の家が持つ領収票と一致する特殊な留め金。
反対に、残響を人為的につなぐ際に見られるはずの急な層の切れ目は、今回の琴には見つからなかった。
「ないから、加工されていないと断言するわけではありません」
エレナは念を押した。
「分かってる。だが、重なる理由はある」
古い記録を年代順に並べてみると、それぞれの歌声は修理箇所と使われた時代の違いに沿っていた。最初の持ち主が弾いていたころの音。別の家に渡ってから、低くなった弦の響き。さらに細く張り直された弦の振動。人の声が三人分続けて拾われるのは、一度に三人が歌ったからとは限らない。物の中に、別々の持ち主の経験が積もっている。
「ずっと三人で歌っていたと思っていました」
甥が言った。タキウスが残響の記録を読み上げたわけではない。彼は琴師だった叔父から、三人組の歌の話を聞いて育ったのだという。
「それはそれで、叔父さんの思い出でしょう」
タキウスは答えた。「琴の中にある声とは、分けて考える必要があります」
娘は領収票を見て顔をしかめた。父が一度琴を譲った事実には、納得していないらしい。
「いつも、うちの物だと言っていました」
「言っていたことと、書類の帰属が違う場合もあります」
返還手続の担当者は、現在の所有を示す書類と、過去の貸出契約を別に確認した。甥の叔父の遺品として一時的に預かっていた事情も判明した。誰が琴を大切にしていたかで裁定するのではない。
エレナは封印区分を通常の返還可能品へ戻した。声に含まれる昔の生活情報を、二人へすべて開示する必要はない。二人がほしかったのは、少なくとも今日は、琴の行き先だった。
夕刻の受領には娘が来た。甥は立ち会ったが、自分が受け取るものはなかった。ただ、琴店から古い貸出記録のうち叔父に関係する部分の写しをもらった。彼はそれを丁寧に畳み、財布へしまった。
「自分の家に置いてなくても、叔父が弾いた琴だったことは変わりませんから」
タキウスは返事をする前に、閉じた琴箱に手を置いた。誰がどの歌を聞いたのか、まだ分からない。分からなくても、返す相手は決められる。
帰りがけ、エレナが言った。
「今日は残響を読まずに済みましたね」
「もう一回読んだら、歌声の人数が増えたかもしれない」
「増えたら書類が増えるだけです」
「誰が数える?」
「あなたです」
タキウスは机の上の五枚の売渡票を見た。琴店の筆跡はどれも癖が強い。残響の声は三人だったが、紙の上の人間はもっといた。




