主人の秘密を捨てたいメイド
アンナ・リュネルは、箱を捨ててほしいと言った。
箱の中身を見せないまま、である。
「頼む相手を間違えています」とタキウスが言うと、彼女は黒い手袋を膝の上で重ねた。
「分かっています。だから、お願いに来ました」
「処分を決める権限は、あなたにはありません」
「それも分かっています」
それなら話は終わるはずだった。ところがアンナは席を立たない。濃い色のメイド服の裾には、よく縫い直された箇所があった。髪をまとめる黒い留め具も、飾りのない実用品だ。
王都遺品整理局に移されたのは、亡くなった屋敷の主人の私信箱だった。相続関係の書類を仕分けていた整理業者が、箱の外側に古い支払票を挟んであるのを見つけ、財産記録との関係を照会してきた。遺族側は「金に関する書面なら確認してほしい」と言っている。
「捨てれば、なくなったことになります」
「箱はなくなる。支払記録まで消えるわけじゃない」
「中を読まれたら、困る人がいます」
アンナが初めて、言葉を詰まらせた。
タキウスは箱に手を触れなかった。黒塗りの木箱には錠前があり、その上から封緘紐が掛けられている。エレナが午前中に確認した封印票には、受け入れた時点で錠前に破損なしとある。紐はほどけば元に戻せる程度のものだが、だからといってほどく理由にはならない。
「あなたは鍵を持っている?」
「いいえ。旦那様がお持ちでした」
「では、手紙の中身を知っているわけでもない」
「配達していたので、宛名は覚えています」
机の端に置いた受入目録には、封書の数と、外側から読める差出先の符号だけが写されていた。タキウスはその写しを指で押さえた。
「まず、この箱が相続財産の処理に必要なのかを調べます。関係がなければ、だからといって私が焼くわけでもない」
「必要なら、開けますか」
「必要だと判断するのは、私だけではありません」
アンナは小さくうなずいた。納得した顔ではない。時間を延ばした顔だ。
「今朝も、あの箱について聞かれました。新しい家令に。誰がどこへ手紙を運んだかって」
「答えたのか?」
「仕事の引継ぎに必要な分だけ。配達の曜日と業者名です。宛先は言いませんでした」
「自分の仕事はどうなる?」
「台所の仕事なら、主人が変わっても残ります。でも、口の軽い使用人だと言われたら、どこの屋敷も雇ってくれません」
それを聞いて、タキウスはようやく彼女が箱を持ち込んだ日の手袋を見た。食器洗いの水に何度も触れた跡が、指の付け根に白く残っている。彼女は秘密を守りたいだけでなく、その屋敷で働き続けたいのだった。
午後、タキウスは屋敷の帳場から提出された出納帳を開いた。品代、修繕費、使用人の給金、寄付の控え。主人が細かい金額まで鉛筆で訂正する人だったことは、何ページかめくれば分かる。私信箱に挟まっていた支払票と同じ日に、同じ金額が帳簿にも載っていた。
ただし、そこには取引先の名前がなく、「紙・運賃」とだけある。帳簿の裏側に、その日の運送業者が押した受領印。箱の外側に挟まっていたのも、同じ業者の運賃控えだった。
封書の中に領収書を隠していたのか。それとも配達人がたまたま箱に控えを差したのか。
出納帳を閉じる前に、タキウスは帳場の許可を得て商取引の決済台帳も見た。同じ日に支払った紙代は帳簿の別頁で二件確認できる。私信箱に運賃票が挟まれていたのは、支払担当が控えをまとめ損ねたせいでも説明できた。もし箱の中に財産の譲渡書があると言い出すなら、その根拠を新たに示してもらう必要がある。
「中身を読めば、もっとはっきりするのに」と帳場の職員は言った。
「読む権限がある人に判断してもらいます。いま帳面で分かる範囲の話です」
「手間がかかるなあ」
「開けてから、開けなかったことにはできないので」
他の月を見ると、同じ「紙・運賃」が季節ごとに現れる。支払額は一定でなく、運送業者の印も時折変わった。一方、故人の商取引は別帳簿にまとまっており、請求先の照合もそこでできた。私信箱の中身を読まなければ金の流れが追えない、という形ではなかった。
「なら、開けなくていいんですか」
アンナは廊下の壁際に立ったまま尋ねた。仕事の合間に来たのか、袖口に白い糸くずをつけている。
「外側の記録だけなら、今のところは」
「よかった」
「ただし、箱を返すか保管するかは別です」
安心した口元が、元へ戻った。
彼女は手紙を運ぶ際、宛先の名を帳場に渡さず、自分で郵便を出していたという。亡主人に頼まれたからだ。昔、台所で働いていた娘の名も、封筒にはあった。今は別の家で暮らしている。
「私が知っていると言えば、みんな知りたがるんです。旦那様が誰に何を書いたか。娘さんまで呼び出されるかもしれません」
「だから捨てたい?」
「どうしても捨てたいと思ったのは、昨日です。屋敷の整理に来た人が、あの子は今どこにいるのかと聞いたので」
アンナは言葉を一度止めた。
「旦那様が亡くなったら、家の中で何を言ってもよくなるんでしょうか」
タキウスは答えを探したが、その質問は局の様式には載っていなかった。
昼すぎ、エレナが封緘状態を再確認しに来た。タキウスが作成した分類票には「財産処理に関係することが確認できた外部記録」と「未開封の私信箱」が分けて記されている。エレナはそれを読んでから、箱を置いた台へ向かった。
「遺族の照会期限が近いのに、箱の処理が決まっていませんね」
「無理に決めたら、あとで困る」
「保管しているだけでも、理由が要ります」
彼女は仮封印の札を外さず、錠前の状態を描いた。タキウスは出納帳と運賃控えの一致箇所を示す。エレナは少し考え、署名した。
「財産に関係する控えの写しは、必要な窓口へ。箱そのものは、内容を開示してよいか判断できる先へ移します。こちらで破棄もしない」
「それがよさそうだ」
「あなたが開封を避ける理由も、記録にしてください。後任が、なぜ開けなかったのか分からないと困ります」
アンナには、説明のうち自分に関わる範囲だけを告げた。
「手紙は、この場では開けません。ただ、私たちは屋敷の人の秘密を永久に預かれるわけでもない。受け取る側の権利を、正式に確かめてもらいます」
アンナはすぐに礼を言わなかった。
「捨てないのなら、私も逃げられませんね」
「何から?」
「屋敷の人たちからです。誰の名を知っているかって、明日も聞かれます」
彼女は鞄から小さな手帳を出した。屋敷の洗濯日と、食器の修繕の予定が書いてある。主人が死んでも、明日使う皿は必要になるのだとタキウスは思った。
「それでも、嘘はつかないことにします。私が運んだ手紙の宛名は知っている。でも、中身は知りません。それだけを答えます」
帰り際、アンナは封緘札の付いた箱を一度見た。触れずに頭を下げると、廊下へ出ていった。扉が閉まるまで、靴音は急がなかった。
エレナが小さく息をつく。
「箱を焼けば早いと思いました?」
「ちょっとな」
「私は、開けて必要事項を抜き出した方が早いと思いました」
タキウスは彼女を見た。エレナは封印具を箱にしまいながら続けた。
「早い方法が、正しいとは限りませんね」
「今、俺がそれを言おうとしてた」
「先に記録してください。言葉より役に立ちますから」
タキウスは紙を引き寄せた。箱の中身について、書くことはまだ一行もなかった。




