竜人の父が残した卵
壺は、机に置くと小さく鳴った。
ごと、と一度。中から生き物が殻を叩いたような音に聞こえたため、持ち込んだ遺品整理業者は手を離したまま一歩も近づかなかった。
「これが『卵』なんです」
業者が差し出した目録には、確かにそう記されている。父親の持ち物を整理した子どもたちが、そこだけ争って引き取らなかったらしい。
壺は両腕でようやく抱えられる大きさで、口を分厚い布と木蓋で塞いである。蓋の縁に紋のような印が刻まれ、紐は古い封蝋に貼り付いていた。生物性の不明なものと、未確認の封印らしいもの。一般業者が取り扱いを中止した事情は分かる。
「卵と書いたのは誰ですか」
「亡くなったご主人が。ずっと台所に置いていたそうです。竜人の方だったので、子どもさんは珍しい卵かもしれないと」
「珍しいというのは?」
「私に聞かれても」
業者は肩をすくめた。
相続人たちは午後に来る。タキウスは出勤前に買いかけた朝食の包みを机の端へ置き、壺の受入記録を作った。包みからは香ばしい匂いがするが、中身のパンはもう冷えている。
エレナが封蝋を見に来た。掌を壺の口へ向け、封印に反応があるか確かめる。
「魔術的に固定された形跡はありません。少なくとも、いま検出できる術式はないですね」
「紋は?」
「単なる刻印の可能性があります。蓋を開ける前に、割れた部分も記録してください」
ごと、とまた鳴った。今度は木蓋がわずかに浮いたのが見えた。
「卵が動いてる?」
タキウスが言うと、エレナは眉を上げた。
「音だけで決めないでください」
分かっている。分かってはいるが、壺の中身を見たら腕の長い幼い竜でも顔を出すのではないかと、ほんの少し思ってしまった。
当人たちが来る前に、壺の外側から分かることを調べた。蓋の木は片側だけ磨かれ、紐には何度も結び直した跡がある。壺の胴には同じ高さの薄い筋が何本もついている。底は古いが、側面には新しい水垢が残る。棚へしまい込んだ宝ではなく、繰り返し動かしていたものらしい。
業者から届いた台所の目録には、壺のほかに木匙、布巾、大小の焼き皿があった。近所の食材店へは、故人名義で粉と干した果実が定期的に注文されている。どれもありふれた品だ。竜人の秘薬の材料とは読みづらい。
昼前、娘と息子が連れ立ってやって来た。
「どうして開けないんですか」
息子は座るなり聞いた。店の帳面らしいものを鞄へ押し込んでいる。
「危険性を確認してからです。お二人には、壺をどちらが引き取るつもりだったか伺いたい」
「値打ちがあるなら、きちんと分けるべきでしょう」
「まだ値段は付いていません」
「父は竜人ですよ。卵って書いてある。何もないわけがない」
隣の娘が息をついた。
「だからって、いつもお金の話から始めることないじゃない」
「君は暮らしに困ってないから言えるんだ」
「困ってないわけじゃないわ」
すぐに言い合いになりそうだったので、タキウスは木蓋の状態図を間に置いた。
「お父さんが、実際にこの壺を何に使っていたか知りませんか」
「台所の隅にありました。触るなとだけ」
息子が言った。娘は首を傾けた。
「触るな、じゃなかったと思う。勝手に蓋を開けるな、だったでしょう」
「同じことだよ」
「同じじゃないわ。父さん、朝は必ず開けてたもの」
タキウスは顔を上げた。
「毎朝?」
「ええ。木匙を入れて、何か混ぜて。少し取って、また粉を足してました」
息子が不愉快そうに椅子の背へもたれる。
「そんなこと、子どもの頃に見ただけだろ。最近の中身は分からない」
「そうね。だから確かめようとしてるんじゃない」
彼女が口にしたのはもっともだった。タキウスは二人の言い分を分けて記録する。相続人の感情は一致していなくても、壺の使い方については確かめられる。
食材店からの控えには、粉の注文が何年も続いていた。亡くなる直前まで配達され、最後の受取印は故人自身のものだった。ついでに、台所へよく出入りしていた近所の女性に聞き取りを頼むと、その人は「そういうことなら」と前掛けをつけたまま来てくれた。
「壺の卵でしょう。あれ、まだ残っていたんですか」
娘と息子が同時に振り向く。
「何なんですか、それ」
「知らないの? 小さな丸い生地から始めたんだよ。卵みたいだって、本人がそう呼んで。粉を足して、毎日世話してた。パンを焼くときに少しずつ取るの」
「ただの生地なの?」
息子が言った。
「ただの、って失礼な。毎朝ふくらみ具合を見て、機嫌が悪いと大騒ぎするくせに、近所には配るのを惜しまない人だったよ」
タキウスは一度、エレナへ視線を送った。近所の人の説明は一つの証言であって、まだ壺の中身を確認したことにはならない。
エレナは封蝋の欠片を小皿に移した。見かけの紋と重なる小さな印がある。陶工の印らしいが、それを確かめるため、壺の底も調べた。底には工房の焼き印が残っている。古い注文控えの蓋の図柄と合い、紋は封印術式ではなく木蓋を納めた職人の刻印だと確認できた。
「術式は見つかりません。異常な魔力の反応もありません。ただ、食品として安全かどうかは、私の鑑定だけでは判断できません」
「そういうのも分からないの?」
息子は少しがっかりした顔をした。
「私の仕事は、魔術的な危険の確認です。食べていいかは別の問題です」
エレナの声はきっぱりしていた。
正式に立ち会いを記録し、封を解いた。木蓋の隙間から、酸味のある温かい匂いが立った。内側には層になって乾いた跡と、最近付いた湿った筋がある。表面の生地がゆっくり持ち上がり、重みで蓋を押していたらしい。ごと、と鳴った理由もこれなら説明できる。
「父さん、これを毎日」
娘が呟いた。
近所の女性は笑い、息子は壺を覗き込んだ。
「値打ちはないんだろうな」
「あるとしたら、家で食べる分でしょう」
タキウスが答えると、娘が肩を叩いてきた。
「弟の店、いま景気がよくないんです。だから売れそうな物があればと思ったんでしょう」
「姉さん、それは言わなくていい」
「悪いことじゃないわ」
息子は反論しなかった。ただ壺の縁を少し拭き、爪に付いた粉を見た。
「父が焼いたのは、いつも皮の硬いパンだった。俺には固すぎて嫌だったんだよ。店で柔らかいのを買う方が好きで」
「それでも、父さんが持たせた分は持って帰ってたでしょう」
「捨てるわけにもいかないだろ」
「はいはい」
相続品としての評価と返還先は、二人の意思を確認して別に扱う。壺の魔術的危険は解除できたが、内容物の衛生状態を局が保証することはしない。タキウスはその二点を説明した。娘は家で預かりたいと言い、息子も異議を唱えなかった。
「中身は分けられるの?」
息子が近所の女性に聞いた。
「世話の仕方を覚えるならね。ほったらかしにすれば駄目になるよ」
「面倒だな」
「商売だって同じでしょう」
息子は返す言葉を探し、見つからなかった。タキウスには少し羨ましかった。局では誰も彼の昼食を心配しない。心配される前に食べてしまえば済むことだが、今日も朝食の包みを開く暇がなかった。
返還票へ二人が署名した。壺は重いので、娘の家へ運ぶ段取りを業者と相談する。その傍らで、娘はいつの間にか弟へ、父が焼いていたパンの形を手で示していた。大きいだの小さいだの、さっきまでの相続争いより声がよく響く。
一仕事終えたタキウスは机の端の包みを開いた。朝買ったパンは冷たく、皮が固かった。噛むたびに音がする。
「そんなもの、まだ食べるんですか」
エレナが戻ってきて目を留めた。
「朝から食べたかったんだ」
「もう夕方です」
「味は変わらない」
「変わっていないかどうか、鑑定しましょうか」
タキウスは包みを少し遠ざけた。エレナは笑いもしないで手を洗いに行ったが、出ていく前に言った。
「そのパン、二つあるなら片方ください」
食べるつもりだった分を半分渡すと、案外うまそうに噛んでいた。タキウスは自分の取り分を見た。小さい方を渡したつもりだったが、どうも反対だったらしい。




