返せない義眼
義眼の奥には、海があった。
その土地へ行ったことがないはずの男の遺品だという。だから遺族は、死亡記録の方が間違っているのではないかと訴えていた。
タキウスが受け取った封書には、故人の息子による地図の書き込みがある。人生のほとんどを内陸で暮らした父が、いつ海へ行ったのか。遠出をしたことはない、と三度も下線を引いてあった。
「本当に海ですか」
息子は最初の聞き取りでも同じことを尋ねた。細い指で帽子の縁をつまみ、返事を待つ間も離さない。
「私は残響を読みましたが、浜だとは言い切れません。視界が明るく開けていて、風に塩気がある。遠くに赤いものが三本並んで見えました」
「海じゃないですか」
「海かもしれません。ただ、それが誰の経験かを確かめています」
「父は片目を失ってから、遠出を嫌がりました。歩くと目が疲れると言って。子どもの頃から、ずっと家にいたんです」
父親が嘘をついていた可能性も、息子が知らない旅をしていた可能性もある。だが、義眼が実際に誰のものだったのかが先だ。
机に置いた小箱をエレナが開いた。義眼は乳白色の薄い球面を持ち、内側に暗い金属輪がある。危険な術式の反応は見られないものの、前の使用者のものらしい残響が重なっているため、正式な状態記録を採っていた。
「どうして父の目に、別の人の記憶が?」
息子の声が初めて揺れた。
「それを調べるため、修理の痕跡を見ています」
タキウスは義眼の内側を拡大して見た。文字に見える浅い刻みが一つ、輪の縁に隠れかけている。現所有者の名札にはない数字だった。
「裏側を磨いた時に消えかけた古い番号です。前の工房でついたものかもしれません」
「父の目は、町の職人が作ったんじゃないんですか」
「最後の調整はその職人です。製作した場所まで同じとは限らない」
息子は黙った。義眼の箱には、父が調整してもらった工房の領収書が入っていた。紙は丁寧に折り畳まれ、受け取った日に付いたらしい油染みが端に残っている。だが、新規製作ではなく『再調整』とある。
この一語を見落としたくなかった。
タキウスは工房へ照会を出し、返答を待つ間、故人の足取りを確認した。家計帳、宿泊記録、旅券の控え。遺族がすべてを知っているとは思わなかったが、海辺へ長く滞在した形跡はない。病が重くなってからの年月も、医師の往診記録と家族の証言で埋まっていた。
翌日、工房主が来た。白髪の混じった職人で、開封された状態図を見るなり眉をしかめる。
「これを無理に削った人がいるなら、俺は怒りますよ」
「削っていません。裏の番号を確認したいんです」
「番号ね。古い基台には二つ三つ残ってることがあります。最後に合わせた人の分だけ表へ刻むから」
「再利用品なんですか」
「全部がそうじゃない。枠だけ継ぐこともあります。費用を抑えるためです」
工房主は自分の帳面を広げた。故人のために調整した日と、基台の受入番号がある。受け取った基台については、別の取り扱い店の譲渡票を添え、前使用者との関係を示す情報が封じられていた。
「本人には説明しました。新しい枠に、以前使われた基台を組み合わせると。使える部分を捨てなくていいし、費用も下がる」
「残響が残ることも説明を?」
「残ることがあるとは。どんなものが見えるかまでは俺にも分かりません」
使われたことがある部品を義眼へ組み直すのは、この工房に限った一例だ。一般的な再利用制度がどうなっているかは、今回の記録だけでは決められない。タキウスは譲渡票の受入側、出庫側、加工日の順に照会した。
出庫側から届いた控えには、古い基台の払い出し記録と、前使用の終了日があった。処分に関する必要な承諾も記されている。基台の番号は現物の消えかけた刻みと一致し、取り扱い店を経て今の工房へ渡った道筋もつながった。
「海の記憶がある人は、その前の持ち主ですか」
息子に問われ、タキウスは出庫票を机に伏せた。
「以前使われていた基台です。残響がそこに由来する可能性が高いと、エレナの鑑定と記録で確かめられました」
「前の人は、誰だったんです」
「お名前まで調べられたとしても、その方の経験を無条件にお伝えしていいことにはなりません」
「でも、父は知っていたんでしょう」
「少なくとも、再調整品を使っていることは説明を受けていたようです」
息子は義眼の箱に触れなかった。帽子の縁を折るように握ったまま、窓の外を見る。
「子どもの頃、父が時々、赤い杭の話をしていました。海の真ん中に三本立っている、と。見たことがあるのかと聞くと、『目が見たんだろう』と笑うんです」
初めて聞く話だった。タキウスは質問を返しかけ、やめた。今必要なのは、故人の奇妙な冗談を意味づけることではない。
「その話を聞いて、怖かったですか」
「不思議でした。でも、子どもって大人の話をそんなに深く考えないでしょう。父が何でも知っていると思っていたから」
息子はようやく箱を見た。
「義眼を外してから、父は片方の目をよく閉じました。眠るときだけじゃなく、話を聞くときも。新しい目が入っても、前の人のものが少し残っていたのかな」
「物に残ることはあります。お父さんがそれをどの程度感じていたのかは、分かりません」
「そうですね。父はもう答えない」
タキウスは再利用と所有移転に関する確認済みの範囲を、遺族向けの説明へまとめた。義眼が別人の目そのものになったわけではない。故人が使用していた義眼であり、返還先の確認も取れた。その内側に、前に使った誰かの感覚が自然に重なっていた。加工による偽造を示す痕跡はない。
エレナは封印の解除条件を記載し、必要な部分だけを鑑定書へ残した。前使用者の詳細な病歴や生前の足取りは、返還品に添付しない。
「これは、父のものとして受け取れますか」
息子が言った。
「お父さんが暮らしの中で使っていたものです。その事実は変わりません」
「じゃあ、返してください」
窓口へ移る途中、息子は義眼の小箱を胸へ抱えた。扉に手をかけるとき、片方の手がふさがっていて少しもたついたが、タキウスは代わりに開けなかった。本人が箱を落とさない持ち方を探しているのが分かったからだ。
作業台に戻ると、工房主の置いていった帳面の写しが残っている。タキウスはその中の「再調整」の二文字を見た。
タキウスは旧番号と新番号の照合欄に丸をつけ、出庫票の写しを畳んだ。海辺の三本の赤い杭については、調書の質問欄に書きかけて、線を引いて消した。
「前の人の話をどこまで調べるつもりでした?」
エレナが尋ねた。
「正直、海の場所まで調べたくなった」
「調べなかったんですね」
「うちの仕事のためには要らなかったから」
「珍しく正しい誘惑の断り方です」
褒められたのかどうか判断がつかず、タキウスは少し笑った。エレナはもう次の品の封印具を揃え始めていた。




