偽りの婚約指輪と伯爵令嬢
伯爵家の使いは、指輪が二つあると言い張った。
「実際に二つあるのは紋です」
タキウスが訂正すると、使いは不服そうに目を細めた。
「紋が二つなら、指輪が二つあったということでしょう。最初の品はどこへ行ったのです」
「それを調べています」
机の中央には、紺の小箱に入った銀の指輪がある。青白い石の内側に二本の淡い魔力紋が浮かび、一方は細く、もう一方は輪郭が不揃いだった。エレナが小箱を開いたとき、伯爵家の使いは身を乗り出しかけ、封印線を見て思いとどまった。
婚約者の死後、彼の屋敷から見つかった指輪だった。伯爵家は花嫁のために用意したものだとして返還を求め、故人の実家は本人の所持品だったと主張する。加えて、伯爵家が「すり替え」を訴えたため、争いのある魔術品として局へ移された。ここで誰の言い分が勝つかをタキウスが決めることはできない。
「本物かどうかさえ分かれば、話は早いはずです」
使いの背後で、静かな声がした。
イリス・フォン・レーヴェンは、淡い金銀の髪を肩へ流し、青白い衣の裾を持ち上げて入ってきた。伯爵令嬢に付き添う侍女は半歩後ろで止まる。イリスは机上の小箱を見たが、すぐには近寄らなかった。
「話が早くなるのは、家の方でしょうね」
使いは口を閉じた。タキウスは空いていた椅子を一脚示した。
「こちらが初回の遺品目録です。指輪を見つけたとき、同じ箱に折り畳んだ紙が入っていました」
「それは?」
「修理伝票の控えです。まだ真偽を確認中ですが、最初から一緒にありました」
イリスが座ると、侍女が手袋を外すための小さな布を出した。イリスは受け取らず、伝票に視線を落とす。
「サイズ直し。私の指に合わなかったのですか」
「その可能性があります。指輪の内側に、あとから継いだ跡があります」
使いが鼻を鳴らした。
「サイズ直しで魔力紋が増えるものですか」
エレナが小箱の横に二枚の状態図を置いた。一枚には石の下から輪の半ばまで続く滑らかな線、もう一枚には輪の切れ目を囲む短い線。見比べると、二つは同じ意匠ではない。
「最初の紋は製作時のものです。後から入った線は、地金を継いだ部分で術式の流れを整えるためのものと考えられます」
「それでは偽造ではないと」
「その可能性が高い、という段階です。工房の原記録と比べてから正式に書きます」
タキウスは使いがさらに口を開く前に、机にある紙束をひっくり返した。
「両家から、製作時の誂え台帳をいただいています。こちらの石の寸法、枠の形、注文時の刻印が現物と一致します。もう一方には、同じ番号の修理を受け付けた記録がある」
「だから、その記録自体が偽物なのでは」
「疑うことはできます。ですが、すり替えを主張するなら、どの時点で別の品になったかも調べる必要があります。いま見えているのは、同じ品が修理されたという経過です」
イリスは指輪ではなく、自分の左手を見ていた。
「私は、石の重みが嫌いでした」
使いが顔色を変える。
「お嬢様」
「婚約の品が嫌いなのではありません。石が大きくて、書き物のたびに指へ当たるのです。あの方に小さくしてほしいと頼みました」
「それを今ここで話す必要は」
「私のために調べているのでしょう?」
彼女の声は高くなかった。使いは一度視線を外した。タキウスは発言を調書へ写すか少し迷ったが、本人へ確認する。
「修理を頼んだことを、記録に残してよろしいですか」
「ええ。指輪については」
最後の一言が気になった。
「指輪以外には、記録に残してほしくないことがありますか」
イリスは答える代わりに、侍女へ目で合図した。侍女は薄い封筒を取り出し、イリスの前に置く。
「こちらは、両家の話し合いへまだ出していないものです。開いていただけますか」
封筒の外側には二人の名と日付がある。故人とイリスの署名が並び、紙の端に同じ封の跡が押されていた。タキウスは何のために預けるものか確認した上で、立会記録を取り、開いた。
婚約を解消する方向で話し合うこと、家への説明の順序は後日決めること。短い文章だった。署名の真正性は別途照合が必要だが、少なくともイリスが一方的に「もう終わっていた」と語っているだけではない。
「ご家族はご存じですか」
「知らないことになっています」
「実際には?」
「私が知らないことを、家はたくさん知っています。家が知らないことも、少しくらいあっていいでしょう」
冗談にも聞こえたが、イリスは笑わなかった。
「彼は、この書面を残したまま亡くなりました。ご両親に渡す勇気がなかったのかもしれません。私も同じです」
タキウスは文書を見た。婚約の解消を約した私文書があっても、それだけで両家の正式な手続まで終わったとは限らない。まして指輪の所有先を決める根拠にはならない。
「これを見せることで、家の交渉に影響が出るかもしれません」
「分かっています」
「局がこの書類の効力を判定するわけではありません」
「その方がいいです。私も、役人に結婚相手を決めてもらいたくありません」
そこで初めて、イリスは少しだけ口元を緩めた。
伝票と工房の原記録は、その日のうちに照合できた。修理のため輪の一部を切り、同じ石と枠を保ったまま再接合している。加工時の位置図も現物に一致した。エレナは「すり替えを示す異常なし」と鑑定書へ書き、二本目の紋が修復由来だと説明した。
「本物だとしても、誰が持ち帰るかは別です」
タキウスが言うと、故人の家の代理人は渋い顔をし、伯爵家の使いは唇を結んだ。双方の請求を記録し、指輪は決裁できる窓口の判断が出るまで保管する。婚約関係の文書は、本人が開示を認めた範囲だけを封じて同じ手続に付す。
小箱を閉める前、イリスが手を伸ばした。
「触れてはいけませんか」
「封印中ですので」
エレナが答えた。イリスは指先を途中で止め、机の上の青い石を見た。
「これ、直したあとの方が好きだったんです。指の脇に当たらなくなったから」
タキウスは伝票をもう一度見た。修理した日付は、解消を申し合わせた文書より前にある。大切に直したものでも、持ち続けられないことがあるらしい。
帰り際、伯爵家の使いは侍女へ厳しい声で何か命じた。イリスは聞こえないふりをして、廊下の窓を開けた。風が書類の端を揺らす。
「調査官。あの書面について、私は自分で家へ話します」
「そうしてください。こちらから余計な説明はしません」
「約束ですか」
「仕事の範囲です」
「それなら信用できます」
イリスは去り、使いが慌てて追った。廊下に残された侍女だけが、窓を閉めてから小走りに続いた。
タキウスは鑑定書を閉じ、双方の請求書を別々の封筒へ戻した。青い石の指輪は、まだ机の上にある。明日も保管庫の鍵を数えなければならない。




