癒せない傷と治癒師の秘密
「治していないのに、治療したことになっているんです」
向かいに座った女性は、差し出した書類を引っ込めなかった。縁の擦り切れた手袋で、同じ行を何度も押さえている。
「兄は三年も通っていました。道具だって家にありました。それなのに、脚の傷はずっと残ったままで」
タキウスは受付簿の欄を確かめた。故人の名、葬送業者の名、遺品の数。最後の一つに赤い線が引かれている。未解除の治癒術式を含む器具。民間で扱わず、局へ移す理由としては十分だった。
「お兄さんの治療が適切だったかは、ここで判定できません。ただ、器具が誰のもので、どのように使われていたかは調べられます」
「そんなことより、治さなかった理由を知りたいんです」
彼女は椅子に深く座り直した。怒っているのだろうとタキウスは思ったが、息を整えるためかもしれない。両手を膝に押しつけたまま、次の言葉が出てこない。
作業台に載せた治癒器具は、掌ほどの細い銀枠で、中央に淡い青の石がはめ込まれていた。エレナが封印の継ぎ目を調べる。白い手袋の指先を石に近づけたが、触れはしない。
「残留術式はあります。暴発する状態ではありませんが、未処理のまま返還できません」
「道具なのに、返せないんですか」
「道具だからこそ、触れる人がいます」
エレナは説明をそこまでに留めた。相手を怖がらせるつもりはないらしい。タキウスへ目を向け、銀枠の両端を示す。
「こちらの留め金。何度も付け外しされていますね」
小さな金具の一方だけ、磨かれたように白い。器具を肌へ固定するものなら不自然ではない。だが、使った回数を数えるための傷にも見えない。
「これはどこに当てる器具ですか」
「負傷部位だけとは限りません。治癒師に聞いてください。私は術式の状態を確認します」
正確に分けて答えるエレナの横で、タキウスは遺品袋の包帯を広げた。清潔な布の間に、使い込まれた短い帯が一本残っている。中央には薄い薬の染み。端にだけ、結び目を繰り返し締めた毛羽立ちがあった。
「兄は、古傷が痛むたび、これを巻き直していました」
女性の声が少し低くなった。
「でも治癒器具も使っていた。修道会の人は、見ているだけだったんでしょうか」
「まず記録を取り寄せます」
タキウスは手元の書類に目を戻した。遺品と一緒に届いた処置控えには、同じ処方が延々と続いているわけではない。二年前のある日から、直接治癒の欄が空き、疼痛を和らげる処置と包帯の交換へ切り替わっていた。
その行の横に小さく書かれている。
『呪痕性外傷の変化に注意。直接術式は悪化のおそれ』
署名は二つ。患者本人のものと思われる崩れた文字と、治癒師の記録印。ただし誰が説明し、何に同意したかは、この控えだけでは足りない。
「切り替えた日がある」
タキウスが示すと、女性は眉を寄せた。
「兄はそんなこと、一度も言いませんでした」
そこへ修道会から来たリリアが入った。長い淡い銀金の髪を背へ落とし、青と白の衣の袖をきちんと留めている。渡された椅子には座らず、遺品の包帯に目を留めた。
「その巻き方は、私が教えました」
「傷を治さない巻き方を、ですか」
女性が顔を上げた。リリアは言い返すより先に、机から半歩離れた。
「怒られることだと思っています。でも、先に器具の説明をさせてください」
銀枠は傷を直接閉じるためだけの道具ではないという。身体に残った呪痕の変化を確かめ、必要なら痛みを鎮める術式へ接続する。処置の種類に応じて石の負荷が違うため、使用部の金具に独特の擦れが出る。
「中央の石が大きく減っていない。これは、施術していない証拠にはなりません」
リリアは布に触れず、端の結び目を指した。
「私たちは傷の閉じ具合より、日ごとの熱と痛みを先に見ていました。直接術式を試した後、傷の周りの呪痕が強く反応したんです。続けるべきではない、と判断しました」
「それなら別の治癒師に頼めばよかった」
「紹介もしました。ご本人が診察を受け、戻ってこられたんです」
タキウスは聞き取り欄へ記した。リリアの言う「戻ってきた」が何を意味するかは、まだ確かめていない。
「そのことを確認できる帳簿はありますか」
「あります。日付も、紹介先から返された控えも。ただし病歴のすべてを、ご家族にそのままお見せしてよいかは別です」
リリアは腰の鞄から二つ折りの紙を出した。故人の名と、処置方法の変更に同意する旨が記されている。本文は短く、直接治癒を中止する理由と、痛みを抑える処置へ移行することが書かれていた。記録印の写しには管理番号がある。
「説明を受けたことと、本人が本当に納得したことは同じではありません」
タキウスが言うと、リリアは初めて椅子へ腰を下ろした。
「はい。あの方は、治ると言ってほしそうでした。何度も私の顔を見ました」
そこで言葉を切り、両手を組む。
「それでも、傷を悪くするかもしれないことはできませんでした。痛みが強い日には、私を嫌っていたと思います」
女性が紙から目を上げた。
「兄が、あなたを?」
「そういう日も、あったと思います」
治癒師の声に弁明の勢いはなかった。タキウスは少し待ってから、包帯の束を戻した。
リリアの説明と、帳簿の二年前の処方変更は一致する。器具の磨耗も、痛みの管理に繰り返し使われたという話と矛盾しない。さらに修道会の管理簿には、銀枠が貸与品であることと、故人の通院ごとの使用記録が残っていた。
だが、遺族が何も知らなかった理由までは、物品の鑑定だけでは分からない。
「お兄さんはご自身の傷について、家族へ何を話すか決めておられたのでしょう」
タキウスは女性に尋ねた。
「兄の包帯を、最後に巻いてあげたのはいつですか」
「子どもの頃です。大人になってからは、触るなって。あの人、そういうところだけ頑固で」
「でしたら、知らなかったことを責めなくていいように思います。知らされなかった事情と、治療されなかった事情は同じではありませんから」
女性はすぐには答えなかった。やがて、銀枠の石を眺めた。
「これを見たら、兄は治そうとしなかったのかと思ったんです」
「記録から言えるのは、治す方法を何度か検討し、途中で変更したということです。それ以上の気持ちは、私には分かりません」
局の仕事としては、二つを決めればよかった。銀枠は安全な状態へ処置して修道会へ戻す。故人の布と私物は、返還資格を確かめた遺族へ。処置控えのうち必要な部分には説明を添え、病歴の細部は別に保管する。
エレナが石の残留術式を解除する間、タキウスは書類の欄外に目をやった。使用のたびに押された小さな印は、雨の日にも祭礼の日にも、途切れず続いている。治ったことを示す印ではない。ただ、傷が残ったあとも通い続けた日付だった。
女性は包帯を受け取り、しばらく親指で毛羽立った端を撫でた。
「これだけは、洗わずに持って帰ります」
リリアはそれを止めなかった。玄関先では、女性が治癒師へ礼も謝罪も言わずに出ていった。リリアはその背を追いかけない。代わりに、銀枠の受領書を書くため、鞄から自分の筆を取り出した。
その筆の軸には、よく噛んだような細い歯形があった。タキウスが見ると、リリアは困ったように笑う。
「考え事をしていると、たまに。直したい癖なんですけど」
「治癒師にも治らないものがあるんだな」
「先生役を一日交代しましょうか」
エレナが小さく咳をした。受領書の署名欄がまだ空いている。リリアは慌てて筆を走らせた。




