吸呪石と冒険者の遺品
腕の中に、人がいた。
思ったより重い。頬に濡れた髪が貼りつく。耳もとで誰かが息を吸った。近すぎて、顔は分からない。
「離さないで」
足が滑った。抱きとめた身体がずり落ち、腕に力が入る。頭上で石が割れた。もう一歩、どちらへ踏み出したのかは分からなかった。
タキウス・サイデルは指を離した。
机の木目が見えた。紙束も、壁の棚も、天井も落ちてこない。王都遺品整理局の鑑定室だった。タキウスは喉に残った粉っぽさを飲み下した。
「読めたものから話してください」
向かいのエレナ・フォールジェは、彼が吸呪石から手を引くまで筆を動かさなかった。白と濃紺の鑑定服の袖口には、封印用の細い金具が並んでいる。
「誰かを抱いていた。すぐ近くで声がした。女の声に聞こえた」
「聞こえたのは声。女性だというのは?」
「俺の判断だ」
エレナは黙って、感覚と解釈に分けられた二欄の記録紙を彼へ向けた。
「どちらに書きますか」
タキウスは「近くの声」とだけ感覚欄に書いた。身体の重みと湿った髪は確かに感じた。声の主の年齢も、相手の顔も見ていない。
「恋人と抱き合って、離れられなくなった。そんな場面かと思った」
「最後の場面だったかも分かりません」
「そうだな。そっちは思いつきのほうへ書いておく」
エレナはようやく筆を置いた。読み取り前に採った石の状態図と、いまの状態を見比べる。わずかな差もないとは言えないが、目立った変化は見つからなかった。
「もう一度読む理由はありますか」
「新しいものが拾えるかもしれない」
「その代わり、残っているものを壊すかもしれません」
言い返さなかった。読み直したいのは、答えが欲しいからだ。石のためではない。
吸呪石は薄い布の上に革袋ごと置かれていた。呪いを吸う性質があるため、普通の遺品と混ぜては運べない。封印したまま危険を調べ、持ち主と返還先を確かめる。必要なら専門家に預ける。その手順の途中に、タキウスの読み取りがあった。
持ち主は、数日前に遺跡の崩落で死亡した冒険者。袋の札と回収票は一致している。ただ、石袋には妙な傷があった。片面だけが平たく押し潰され、肩掛け用の留め具は紐の引かれた方向へ斜めに折れている。タキウスは読み取る前に、その形を図に写しておいた。
「まだ終わらない?」
戸口から、少し低い声がした。
短い赤毛の女が片手を上げた。セレス・ヴァーレン。遺物回収を専門にしていて、この遺品を局へ持ち込んだ本人だ。現物と回収票の確認が済むまで待つよう言われたらしく、作業靴についた泥を敷居の手前で落としている。
「回収図のこの印、詳しく聞いてもいいか」
「報酬が増える質問なら歓迎」
「増えない」
「じゃあ早くして」
セレスは椅子を探さず、机に広げられた現場の略図をのぞいた。
「この印は、どんな場所だった?」
「通路が折れるところ。壁が半分崩れて、死んだ人は石の下から片腕だけ出てた。ここ」
彼女の爪にはまだ白い粉が残っている。略図に打った指の先は、救護所へ抜ける通路の曲がり角だった。現場図にも狭いくぼみが記されている。
「そのとき、ほかに人は?」
「私は遺体の回収を頼まれた。負傷者は、その前に救護班が運んだって聞いてる」
「崩れる直前は見ていない?」
「見てない。見てたことにしてほしいなら、報酬は倍でも嫌」
セレスは笑わなかった。見ていないことを見たと言わない。回収者として、その答えは頼もしかった。
タキウスは救護所の搬出簿を開いた。回収時にまとめて局へ届いた書類だが、負傷者の名前だけでは故人と結びつかない。搬出場所は複数あり、最初に調べた時点では「崩れた通路」としか分かっていなかった。今、セレスの指した位置に合わせて現場番号を探せる。
同じ曲がり角の番号が見つかった。搬出記録には、脚に重傷を負った人が一人、救護所へ生きて運び込まれたとある。
当時の救護班が残した発見時の図には、倒れた男が落石側に、負傷者がその腕の内側、崩落を免れた壁のくぼみに描かれていた。負傷者は自力で歩けず、男の遺体より先に搬出されている。
「この人だ」
セレスが救護図と回収図を重ねた。曲がり角の欠け方が一致する。
「救護所まで行けたんだ」
「ああ。その先の経過までは分からない。でも、あの場からは生きて出ている」
タキウスは石袋を裏返した。片面の圧迫痕は、袋を掛けた持ち主の胸側に来る。留め具は紐を強く前へ引かれた向きに折れていた。持ち主の上衣に残る擦れと肩紐の長さを重ねると、身体をかがめたとき、石袋は胸の脇へ回る。
落石だけで潰れたとも考えられる。けれど、紐が前へ引かれた理由まではそれで説明しにくかった。
「このくぼみから出口へ、人を運べる?」
「歩けるなら。背負うには天井が低い。ほら、ここ」
「腕に抱えたままだと?」
「腰を落とせば通る。けど、落石が来たら身体の向きを変えるしかない」
セレスの指が、曲がり角から出口へ短い線を引いた。
「私は回収で逆に通ったけど、狭いほうへ肩を向けないと引っかかった」
タキウスは救護班の発見図を横に置いた。落石側に男、くぼみ側に負傷者。その向きなら、抱えた人を壁のくぼみへ押し込むとき、石袋は二人のあいだに挟まれる。紐には出口の方向へ力がかかる。
頭上で割れる石。滑る足。腕の中の重み。残響だけでは、何が起きたか決められない。それでも、救護班の図と、曲がった留め具と、セレスが確かめた通路の狭さは、別々のところから同じ動作を指していた。
男は逃げられない人をくぼみにかばい、そこから運び出そうとしていたのだろう。今ある資料を無理に読み替えなくても、そう考えられた。
「助けようとしていたんだな」
セレスが言った。
「あの人が抱えていたのが、名簿の負傷者かどうかは慎重に書く。でも、落石側に自分の身体を置いたことは、発見図でも分かる」
「それでも、二人が恋人だったかは分からない?」
「分からない。恋人でも、初対面でも、誰かを助けるときは同じように腕を伸ばすだろ」
遺族から届いた照会書は、返還品の状態と引渡日を尋ねるものだった。故人の最後に誰がいたかなど、書かれていない。もし彼が勝手に『恋人を抱いて死んだ』と付け足せば、遺族はそこだけを何度も読むかもしれない。
「本人の話が残っていないところに、俺の話を足したくない」
セレスは折れた留め具を見た。指先を近づけかけ、やめた。
「直すの?」
「返還先へ状態を説明して、今はこのまま渡す」
「壊れたままのほうが、ちゃんと分かることもあるのね」
「回収屋に言われると説得力がある」
エレナが二人の間に状態図を置いた。彼女は図の欠けた一角へ線を補い、日付を入れた。
「直さない理由も、こちらへ記録してください。次に触れる人が、同じことを最初から調べずに済みます」
吸呪石は封印を維持すれば、現時点の検査では移送に支障がなかった。所有を示す札と回収票、遺族の照会書も揃っている。エレナが封印状態を最終確認し、タキウスは返還の手続きを整えた。
局内記録には感覚と解釈を分けて残す。遺族向けには、品の状態と返還の根拠、救護班の記録が示す事実を書いた。「離さないで」という声も、相手の性別も、二人の関係も書かなかった。それを知ったふりをする必要はなかった。
セレスは確認欄に署名し、出口で靴紐を結び直した。
「次は崩れてない遺跡に行きたい」
「あるのか、そんな仕事」
「ないから回収屋が食べていけるんでしょ」
帰りぎわ、セレスは石袋を一度見た。壊れた留め具を見る目は、さっきより少し長かった。
留め具は折れたまま返される。修理すれば見栄えはよくなるが、持ち主が最後に何をしていたかを考えるための形が消える。故人に代わって証言できるわけではない。それでも、遺された人が確かめようと思えば確かめられる傷だった。
エレナが次の受入票を机へ滑らせた。紙の端には、白い粉とは違う、薬草の匂いがかすかに残っていた。
「治癒器具です。使われた跡はあるのに、故人の古傷は治っていません」
「道具を使って、治らなかった?」
「それを確かめる仕事です」
タキウスは石袋の状態図をもう一度たしかめてから、次の票を受け取った。
お読みいただきありがとうございます。
連載初日の10月24日は、第1話を10時、第2話を10時10分、第3話を17時、第4話を19時に公開します。
10月25日から11月6日までは毎日更新。10月28日公開の第8話から、更新時刻を20時10分に変更します。11月7日からは火・木・土曜日の20時10分更新です。
第一部全61話は執筆済みです。お付き合いいただければ嬉しいです。




