死んだあとに作られた勲章
母親は、勲章を返してくれとは言わなかった。
「手袋は、私のところへ戻せますか」
受領室に通された女は、貸し出された椅子の端へ腰を下ろしていた。背筋をまっすぐ伸ばす癖があるらしい。外套はよく手入れされていたが、片側の袖口だけが薄かった。
机には、軍から届いた箱が一つ置かれている。革手袋、襟留め、勲章。目録は三行だった。
「手袋はご本人の私物として帰属を確認できています。ただ、いま状態検査の途中でして」
タキウスが答えると、女は頷いた。
「そうですか。急がせるつもりじゃないんです」
その言葉とは反対に、彼女の指は膝の上でずっと動いていた。布地に小さな皺が幾重にもできている。
軍の品物は、本来なら軍から家族に返る。今回、箱が王都遺品整理局へ移されたのには二つ理由があった。勲章を包む布の封緘に未解除の魔術反応があり、添付された返還目録の品名と、現物の製造印が噛み合っていなかったのだ。軍は安全確認と分類のため、局へ照会している。
勲章の裏には新しい鋳造所の刻印があった。軍が記した戦死日からひと月以上後の納入品で、その日より前に同じ品番の勲章は存在しない。
「戦死者が触ったことのない品です」
エレナが記録紙を伏せて言った。
「軍の人は、息子が最後に笑っていたと話していました」
女は勲章を見ないまま続けた。
「その声が残っている、という話も聞きました。でも、そんなものがどうしてこの品にあるんでしょう」
答えを欲しがっている口調というより、質問を何度も頭の中で繰り返してきた人の口調だった。
タキウスは勲章から読めた断片を思い返した。昨夕、エレナの立会いの下で一度だけ限定読取を実施している。音のないところに突然、革の擦れる感触が現れた。指に引かれる重さ、胸を締める硬い留め具。すぐ近くで、誰かが「先に行け」と言う。穏やかな声に聞こえたのは、その後に続いた短い息のせいかもしれない。
勲章そのものに手を通す場所も、襟に触れる箇所もない。だが残響に不合理があるだけでは、偽造とまでは言えない。品物の素材が古いものから再利用されたなら、別の時代の痕跡が混じることもある。
「素材はどうですか」
タキウスが尋ねると、エレナは納入票を広げた。
「鋳造所が軍に入れた材料の記録です。新しい地金の納入と溶解の控えが揃っています。旧い金属片を混ぜたという記載はありません」
「記載がないのと、使っていないのは別だな」
「だから現物検査を依頼しています」
エレナは、その違いを不機嫌そうには言わなかった。タキウスが先回りして口を出すとき、彼女は最近、少しだけ笑うようになっていた。
革手袋は左手用だった。手首に近い部分に、同じ糸で二度縫い直された跡がある。軍の回収目録には、発見場所、回収担当、封入時の状態が記され、前線の回収係の印があった。襟留めも同じ日に回収されたが、こちらは別の係が箱詰めしている。
「息子は左利きでした」
女が言った。
「手袋は右だけ先に駄目になるから、左は長く使えるって。変な節約です」
「その縫い目は、お母さんが?」
「一度目は私。二度目はあの子がやったんです。ひどい仕上がりでしょう」
縫い目は実際、端が揃っていなかった。タキウスはそれを良い話に整えなかった。修繕の下手な人間も、下手なままで死ぬ。
「子どもの頃から、針の先を舐める癖があって。何度叱っても直らなかった」
女はそこで初めて箱を見た。襟留めはよく磨かれているのに、裏側の留め金だけが曲がっている。
「軍の人はこれも新しく直しましょうと言いました。私は断ったんです。あの子、曲げたまま着けていたから」
磨くか、直すか、残すか。受領室では遺品の説明より先に、そんな選択を一つずつ受け取る必要があった。
状態記録のために、手袋と襟留めにも最初の読取が行われていた。勲章を調べる前のことだ。手袋には左掌へ食い込む硬い縁と、引きずられるような腕の重みがある。襟留めには、寒い空気、口を開いたときに首元へ伝わる息、切れ切れの言葉。
それぞれを確認した職員は、結果を別紙に封じて保管した。勲章の記録と突き合わせるのはこれからである。タキウスは記録の作成時刻と封緘番号を読み、三枚の紙を机に並べた。
手袋と襟留めの残響には、本人が生前それを使用したという来歴がある。勲章にはそれがない。そこまでは明白だった。
母親は話が途切れると、机の木目を眺めた。
「最後に、何と言ったかを聞かれることがあります」
タキウスは顔を上げた。
「近所の人にも、軍の人にも。何か立派な言葉があったはずだと思うんでしょうね。私には、生きて帰ったら屋根を直せとしか言っていないのに」
「屋根は」
「この前、頼みました。知らない職人さんに」
口元に少しだけ笑みが浮かんだが、それきりだった。
「もし勲章に声が入っているとしても、聞かせなくていいんです。息子の声を、いま誰かに説明してもらいたくはありません」
タキウスは、用意していた残響の要約を裏返した。女の手元にあるのは、遺品の種類と返還方法を選ぶための紙だけだ。
「勲章は、本人が生前に持っていた品ではありません。状態について未確認の点があり、局で引き続き調べます。手袋は返還できます。襟留めは比較記録の照合を終えるまで、短い間お預かりしたい」
「そうして」
女は返還希望の欄へ印を押した。手袋を包み直すとき、エレナが軍の封印を解除し、受取前の状態をもう一度記す。返還した後は、読取のために呼び戻さない。必要な初回記録は局で保管する。
女は包みを鞄に入れた。大きな勲章の箱より、ずっと小さかった。
「もう一つ、聞いてもいいですか」
タキウスは記録帳から顔を上げた。
「あの子は、本当に笑っていたんでしょうか」
「その点について、確認できる資料はまだありません」
女は少し長く彼を見たあと、「分かりました」と言った。
説明してほしくないと言った人に、答えのない質問を返された。タキウスはそのまま質問欄を閉じた。代わりに、勲章の検査完了後に局から書面で連絡することと、連絡の内容は本人が選べることを記した。
夕方、エレナが新しい検査依頼票を持って来た。
「明朝、材料と層の状態を調べます。学院へも、通常の補綴で説明できるか確認を出します」
「手袋は返した。比較できるのは初回の控えだけだ」
「分かっています。その条件でできる検査を選びます」
箱の中の勲章は、金色のままだった。磨かれた表面は、誰かの勇敢さを疑わせるような傷を一つも見せない。
タキウスは軍の鋳造日と戦死日を、もう一度並べて書いた。軍の授与文には『勇敢な最期』とある。手袋の縫い目にはその言葉はない。どちらが故人に近いかを局が裁く仕事ではないはずだった。
何かが嘘をついたのだとすれば、それは死んだ兵ではない。




