消された名前
死者の伝声札には、人の名前だけが聞こえなかった。
最初の読取票には、こんなふうに書かれている。
「荷を返すなら、□□のところへ」
二字分を表す四角は、筆記した職員が後から足したものだ。読取者が二文字聞いたという意味ではない。音が抜けた範囲を見分けるための符号だった。
タキウスが伝声札を机へ置くと、エレナが最初にその説明を加えた。
「空白が二文字だと決めないでください。これをもとに照会先を二字名から探してしまいます」
「探さない。現物の来歴から始める」
「では、記録にもそう書いて」
伝声札は、亡くなった荷運び人の遺品袋にあった。薄い板に記録された短い音声を伝える魔道具で、生前の取引相手を確かめる手掛かりになる。遺品を返してほしいと申し出たのは荷運び組合の旧取引先と、故人の遺族で、板が公務の備品なのか私物なのかも分からない。帰属先と返還条件を調べるため局が預かった。
「名前を消したんじゃないですか」
依頼人の一人が言った。故人の仕事を一緒に請け負っていた男で、受付の椅子に浅く腰掛けている。
「何かまずい相手だったとか。ほら、そこだけ聞こえない」
「古い札には、音が失われた箇所があるんです」
タキウスは答えた。
「でも、ほかの言葉は聞こえるだろ?」
「それも事実です。だから原因を調べます」
男は納得せず、手袋を揉んだ。故人の息子から板の返還を求める書面が来ており、組合に属していた間の道具なら自分たちで管理したいという。だがその話と、消えた名前は別だった。
エレナは初回状態図を開いた。比較用の古い伝声札も保管箱から出す。片方は水に浸かって端から音が弱くなったもの。もう片方は長年の使用で表面の層が痩せ、声が全体にかすれていた。
「普通の劣化では、こうして範囲が広がって不明瞭になることがあります」
エレナは状態図に指を沿わせた。今回の札では、人の名を言ったらしい部分の直前で線が細く切れ、その先から急に同じ強さへ戻る。二つの端には、後から縁を整えたような細い加工痕があった。
「本当にその言葉を消した跡?」
「人工的に切除した可能性はあります。切った内容が人名かどうかは、周囲の文からの推定です」
「でも、誰かがやったんですね」
エレナは即答しなかった。
「自然劣化だけでは説明しにくい。それ以上は、材料や経緯の鑑定が必要です」
タキウスは札の音声をもう一度読もうとしなかった。欠けた部分は、強く引き出しても名前が戻るとは限らない。むしろ残りの言葉まで損なうおそれがある。
「そんな小さな板に、よくそこまで書くな」
依頼人がぼやいた。
「小さいからです。落としやすいし、同じものが何枚もあります」
タキウスは板の縁を示した。擦れた工房番号があり、そのすぐ脇に、小さな荷扱い番号が刻まれていた。初回の遺品目録には、泥で読みづらいと記されている。そのまま放置されていたわけではない。受入時に拡大写しが作られていた。
組合の帳場で荷扱い番号を照会すると、対応する配送行程が二つ見つかった。同じ番号が別の日の控えにも現れる。帳場の女は、番号の末尾の小さな刻みを指さした。
「これ、返しを入れたときにつけるんです。故人はまめな人でした。札を使い回すとき、印を消し忘れて怒られるくらい」
「じゃあ、最初の荷先じゃない?」
「そう。最後に使ったのはこっちです」
女は台帳の別の欄を見せた。故人が死亡する前に、預かり物の返却先が変更されている。そこには、返送先の受領番号だけが書かれていた。名前は別帳の管理で、組合は勝手に教えられないという。
「紹介先をたどれば、本人確認ができますね」
タキウスは任意照会の範囲を説明し、必要な番号だけを控えた。全帳簿を持ち帰ることはしない。
返却先の管理人は、故人を覚えていた。
「約束を守る男だったよ。酒の席で名前はよく忘れてたが、荷札だけは間違えない」
「相手の名を、教えてもらえますか」
「渡していいのは、その人が受け取る品がある場合だけだろう」
管理人も慎重だった。タキウスは荷物の引渡目的、板の所有を調べていること、伝声札の読み取れない部分があることを説明した。
相手には、故人から預かった小箱を返したいという申し出が残っていた。箱は別の保管先にある。管理人が紹介したのは、元の荷主ではなく、受領を待つ代理人だった。
その代理人が持っていた書面には、故人の荷扱い番号と、死亡前に変更された受領番号が両方記されていた。タキウスは原本の持出しを求めず、その場で立ち会った範囲の写しと照合した。日付、番号、荷物の記述が揃っている。
「名前が聞こえない札がなければ、どうなっていたんだろう」
依頼人の男が帰り際に尋ねた。
「帳簿と荷物の番号で同じ人へ行き着くと思います。ただ、確かめるのに時間はかかったでしょうね」
「それじゃ札の役目がないみたいだ」
「役目はあります。今回の場合、信用するところが違っただけです」
エレナが封印の状態を再確認した。自然な劣化の例とは違う縁の処理痕があることを鑑定書へ記す。ただし、削った人も理由も分からない。欠けた声を復元できたように書かない。
伝声札の所有については、組合の備品台帳に番号があった。故人が仕事で借りていた品として組合へ返す。故人の遺族には、局が確認した持物目録のうち開示可能な部分を渡した。保留されていた小箱も、本来の受領先へ向けて引継ぎが進む。
組合の男は札を受け取り、欠けた言葉の箇所を見つめた。
「誰が消したか、分からないんだな」
「まだ」とタキウスが答える。
「消した名前も?」
「その場所で話していた相手は、取扱い記録から絞れました。音声の欠損部分に、実際にその名が入っていたかは分かりません」
男は少し考え、札を受領箱へ納めた。名前が残っていなくても品は返せた。それで満足したかどうかは、タキウスには分からない。
帰り道、局の外階段でエレナが立ち止まった。午前中から閉じっぱなしだった書類鞄の紐がほどけている。タキウスが直そうとすると、彼女は自分で結び直した。
「今日は読取を増やさずに済みましたね」
「戻せないものを、無理に戻そうとしてもな」
「次に必要なのは、どの資料が誰のものかを追う仕事です」
「また書類か」
「それがあなたの仕事でしょう」
階段を下りたところで、荷車が曲がってきた。運び手は、同じ色の木箱を三つ重ねている。それぞれには大きな数字が書かれていた。タキウスは読める番号を、なんとなく追った。
角を曲がった荷車が見えなくなるまで見送ってから、自分が今は仕事中ではないと気づき、足を早めた。




