↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王都遺品整理局タキウス・サイデルの憂鬱  作者: 高遠雪斎
第一部 嘘をつく遺品

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/17

存在しない香り

瓶には、甘い匂いが残っていなかった。

だが、それは問題の中心ではない。

「そこを最初に確認したいんです」

ノエルが言った。局の鑑定室の机には、香水瓶そのものではなく、先日の初回検査で作成した二枚の状態図が並んでいる。クラウディア・ベレスが受領を保留したため、瓶は封印されたまま局で保管されていた。

エレナは初回読取時の紙を示した。

「当時、タキウスが受け取った感覚をそのまま書いた欄です」

近くで聞こえた男の声。冷たい指先。甘みのある香り。いずれも本人が物へ残したらしい感覚の断片で、同じ人物の経験だとは証明されていない。

「香りの出所は?」

「分かりません」

「今の瓶の成分にはないんですよね」

「それも『その香りを経験していない』証拠にはなりません」

ノエルは机の端に書き込んだ。タキウスが言おうとしていたことを、先に記された格好になる。

ミラが少し遅れて入ってきた。腰の工具帯を外さず、片手には修繕伝票の写しがある。

「工房の客が長引いた。あの瓶、開けるの?」

「必要なら」とエレナ。

「必要じゃなければ開けない方がいいよ。口金の補修が古いから、今いじるとどの傷がいつのものか分からなくなる」

「今日は既存記録の分析が先です」

ミラは肩をすくめ、状態図を覗いた。

初回の記録に、不自然な一本の境界線があった。残響の音声を記した欄では細かな揺れが続く。ところが甘い匂いの欄へ移る直前だけ、線が一度切れ、その先ではまるで違う質感の細い目盛りが並ぶ。

「図を描いたのは?」

「私です」とエレナ。

「いま思い出して線を足したわけじゃないよね」

「封印前の原紙です。写しには印を付けていません」

タキウスは封入番号を読み、エレナがその番号と初回読取日を確認した。何度も読めば新しい感覚が拾えるかもしれない。けれど、そのたびに残響が薄れるおそれもある。今日は封印を解く理由がまだない。

ノエルは以前の術具にあった内部二層間の段差の図を横へ置いた。

「これに似ています」

「同じ方法か?」

「同じだとは言えません。位置と形を比べるために持ってきただけです」

さらに学院から提供された正規補綴標本の写しを並べる。正規補綴の境界も処理された部分を示すが、補綴前後で残響のどこを保ったかが追えるようになっていた。

「瓶のは違う?」

「違いがあります。こちらは音声と匂いの境で急に層の様子が変わっている。口金の修繕によるものなら、もう少し外側の傷と対応してほしい」

「修繕したときに中身へ触ったのかもしれない」とミラ。

「その可能性はあります。修繕伝票は『口金の締め直し』としか書いていませんから」

ミラは物理的な補修痕の位置を、状態図の欄外に重ねた。口金を工具で押さえた跡と、残響層の細かな段差は、ぴたりとは重ならない。だが瓶の構造が複雑なため、力が別の位置へ伝わった可能性まで消せない。

「それでも、単なる香料の染み込みとは別の問題になる」

ノエルが言った。「香りが物質として残ったなら、材質や使われ方を調べる。今回の線は残響の内部の状態だから」

タキウスは自分の前の記録を見た。甘い匂いが鼻の奥へ届いた瞬間、冷たい手触りが消えたことを覚えている。その感覚は真実だったとしても、何がそこで起きたのかは別だった。

「誰かが、匂いだけを付け足した?」

「可能性としてはね」とミラ。

「匂いの残った別の品から、断片を移した、とか」

ノエルはその提案を聞き、少し目を輝かせた。

「理論上は考えられます。ただし、材料となった品の来歴がありません。別の持ち主が使った品が重なった可能性も、まだ完全には排除できません」

タキウスは先日返還した琴を思い出した。あの楽器にも複数の持ち主の声が残った。異常に見える断片が、本当は自然な重層だった例である。

「それを調べられる?」

「いま、ただちには」

エレナが返答した。「先に瓶の購入・補修履歴と、いま残っている状態図の対応を確かめます」

途中でノエルが資料の隅へ新しい印を付けかけ、エレナに止められた。

「原紙には書かないでください」

「この線は、後からの比較で付けたものだと分かるようにします」

「別紙に。線が一本増えると、後でいつ描かれたのか説明する資料も増えます」

ノエルは渋い顔で筆を上げた。ミラが笑いかけたが、エレナの視線を受けて机に向き直る。タキウスは新品の紙を取り、元の線を写すのではなく原紙番号と参照位置だけを記した。見つけた異常の証拠と、いま生まれた考察を同じ紙へ閉じ込めないためだった。

夕方までかけて、商家から許可のあった修繕伝票を照合した。工房の口金修理が行われたのは、店が瓶を購入してからしばらく後。修理前に誰が使ったかは追える部分が限られる。補修した職人が残響加工を行った証拠はない。

そこで得られたのは、単純な解答ではなく、調査範囲を狭める結果だった。通常の口金修理では説明しづらい位置に境界があり、初回の感覚記録にだけ急な質感の変化がある。別の感覚断片が接合された可能性は以前より強い。しかし、どこから持ってきたのか、そもそも人工的なのかは、まだ判定できない。

その日の報告書には、ノエルの長い説明を三行に縮めた。

既存の感覚記録に接合を疑う境界がある。現物の通常補修痕とは位置が異なる。由来と加工の有無は未判定。

「わたしの説明、三行ですか」

「内容が間違ってる?」

「いいえ。短すぎて腹が立つだけです」

ミラは帰り支度をしながら、図の上に小さく「口金修理だけで断定不可」と書き加えた。エレナはその欄を削らずに残した。

クラウディアへ知らせる内容も、同じ範囲にした。遺品は引き続き保管。初回の異常は再確認したが、故人の相手や浮気の有無は調べられていない。クラウディア本人へ勝手な物語を渡さないためである。

「説明に来てほしいって返事があったら?」

「日程を相談する」とタキウス。

「香りの出所を聞かれたら?」

「分からない、と答える」

エレナは頷いた。ミラは封印票を指で弾きかけ、エレナの視線に気づいて手を引っ込めた。

「触ってないよ」

「触る前に止めました」

ノエルが笑った。タキウスは初回の線の写しを封筒へ戻した。線は一本増えたのではない。ただ、前に描いた一本を、三人が別々の目で確かめたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。