第5話 妹は涙を流せないだけの普通の女の子
「ただいま」
マンションの202号室、『岸本』と書かれた部屋の扉を開けつつ声をかける。
ほどなくしてリビングから濡れ髪を無造作に下ろした短髪の女の子がとてとてやってきた。
「おかえりお兄ちゃん。今日は帰り遅かったね」
今日から中学二年生になった妹の小波だ。
「ちょっと寄り道しててさ。夕飯は食べた?」
「ううん、まだ」
「時間も遅いし、無理に俺に合わせなくていいんだからな」
「無理に合わせてるわけじゃないよ。ひとりでご飯食べてもおいしくないから、わたしはお兄ちゃんの帰りを待ってるんだよ。お母さんはずっと出張でいないし」
「そっか。なら仕方ないな」
「うん。……むしろお兄ちゃんの方こそ、いつもわたしがいて邪魔じゃない?」
不安げな上目遣いに、威勢の削ぎ落とされた声色。
環境が人格形成に及ぼす影響ってやつは甚大だとつくづく思う。
だってそうだろ。
どうして今の会話の流れで、小波が悪いなんて結論に至るんだ?
「邪魔なわけないだろ。いつもありがとな。帰ったら小波といっしょに夕飯を食べられるってワクワクが常に俺のバイトの原動力になってるよ」
ぽんぽん頭を撫でると、小波は普通の女の子のように、照れ臭そうな笑みを浮かべた。
「もう大袈裟だよぉ、お兄ちゃん」
「ほんとだって。俺が小波に嘘ついたことあったか」
「けっこうある」
「……まぁ人間だし嘘をついちゃうこともあるよね」
つーと視線を逸らしてつぶやく俺を見て、小波はぷっと普通の女の子のように吹き出す。
そう、小波は普通の女の子なんだ。
ただちょっと、どれだけ悲しくて辛くても、涙を流すことができなくなってるってだけで。
「……約束、絶対守るからな」
そんな小波を気味悪がって家を出ていったあいつがおかしいんだよ。
お前のせいで小波の人格が変わっちまったんだぞ?
他人の顔色ばかり窺うようになっちまったんだぞ?
ふざけんなよ。返せよ、俺の好きだった小波を。
「お兄ちゃん、顔こわいよ?」
と、いけないいけない。
あいつのことが頭を過ると感情的になっちまうのは俺の悪い癖だ。
「ちょっと考えごとしててさ。それで、俺はこれからどうすればいい? お風呂が先か? ご飯が先か? それとも小波と駄弁るのが先か」
「もう変なこと言うなぁ。まずはお風呂、次はご飯、その後余裕があったら……少しだけお話したい、な?」
「いいよ。何時間でも付き合ってやる」
「っ! ありがとうお兄ちゃん! じゃあまずはお風呂入ってきて! その間に夕飯あたためとく!」
「了解。ちゃちゃっと済ませちゃうな」
自室の扉を開け、荷物を下ろして寝間着を準備する。
「約束、絶対守るからな」
とある事情があって、涙を流せなくなってしまった小波の瞳から涙を流させる。
それが、俺の四年間追い求めている夢だ。
俺が仲間と作り上げた演劇で小波の涙を呼び寄せて、小波は普通の女の子だって証明して、演劇コンクールの審査員を務めるあいつを小波の前で土下座させる。
以上が俺の夢の詳細である。
その夢を叶えるために、まずは、演劇サークル同好会を演劇サークル部に昇格させなくちゃいけない。
演劇コンクールに出場する権利が与えられるのは、正式に部として成立している劇団だけだから。
「夢を叶えるためなら、俺は矜持だって、未来だって、捨ててやる」
覚悟はとっくの昔にできている。




