第31話 費やした日々は裏切らない
緞帳が下りている間に鳥かごで早着替えした役者は、そこで小さなトラブルがあっても、緞帳が上がれば不安なんてまるで感じない清々しい表情で演技をはじめる。
舞台裏に徹し続けて気づいたけど、どうやら本番で恙なく進行できる方が稀みたいだ。どの高校もなにかしらの隘路に阻まれている。
照明器具の不具合だったり、暗転している間に転んでしまったり。
ほんと悪魔でも潜んでるんじゃないかってくらいに多種多様な困難が、この日のために努力してきた役者たちを襲ってる。
「……」
緊張してるんだろうな。
むしろこんな大多数の前でも緊張しない肝の据わった役者が何人いるのだろうか。
きっと多くはいないはずだ。本番で百パーセントが発揮できるならそれは立派な才能なのだろう。
劇伴が悲調を帯び、照明の光量が落とされる。
おそらくは起承転結の〝転〟にあたる部分。終わりの時は近い。
そして、次はいよいよ俺たちの番だ。
「……」
この物語がどんな結末を迎えるのかすごく気になるけど、心を鬼にして控え室に戻る。
今日の俺は、役者じゃなく監督だ。お客さんをするために、この場所にきたんじゃない。
だから今俺がするべきことは、本番を前に緊張して鯱張っている役者の緊張を解すこと。
こんなこともあろうかと、アイスブレイクのためのすべらない話を用意して……
「そこのガトーショコラがすっごくおいしいんです! その……なんていうんだろ、ふわふわ感? がすごくてすごくて!」
「で、いつも通りせどりさんしたわけね。ほんと、すごい技量だこと」
「本家に勝るか劣るかはわかりませんけど、まぁ模倣はできたかな。けど、な~んか違うんです。その……しっとり感? がうまく出せなくて」
「ふわふわ感にしっとり感かぁ。うーん、モモさんにはよくわからん次元の話ですな」
「なるほど。青海さんは、バレンタインを出来合いで済ますとかいう近代の若者の感性の欠如が露骨に表れた残念系女子高生のひとりだったのね。まぁ私もだけど」
「いや、藤ちゃんもかーい」
「大丈夫ですよ。わたしが教えますから。明後日って予定ありますか? よかったらいっしょに、イタリアのお菓子作りましょうよ」
「あなたはどうしてそんなにイタリア菓子に固執してるのよ……」
「あいつらすげぇな」
ドアを少し開けてまもなく、三人が雑談に花を咲かせていることに気づいたから耳を傾けてみれば、まさかお菓子な……じゃなくて、おかしな話をできるくらいに余裕があるなんて。
「……ふぅ」
あとは監督次第だな。
落ち着け。落ち着くんだ俺。
こんなときはアレだ。マインドフルネスだ。
目を閉じて、全神経を血流の巡りにフォーカスして。
まずは爪先から……
「ふっ」
「ひゃんっ!?」
「はは、猫みたいな鳴き声~」
そりゃ、耳に息を吹きかけられたら誰だって一時は涅槃に入っちゃうだろうよ。
そんな風にフランクな接触を図ってきた時点で、声を掛けてきた人物が知り合いであることは明確で。
こんな風に馴れ慣れしく話しかけてくる部外の女の子はひとりしか思い当たらない。
「それで岸本。いつからピーピングトムに目覚めたの?」
「役者をそんな目で見てちゃ監督失格でしょ……」
俺たち演劇サークル部が本番目前なら、当然演劇部も本番目前。
久しく顔を合わせていなかったが、あげはちゃんはいつも通りだ。
そう、いつも通り。
「……その、お疲れさま」
役者の演技と演出がまるで噛み合ってなくて、それは優勝が絶望的ってことと同義で。
そのことは舞台に立って主役を演じてた本人が誰よりもわかっているはずなんだ。
夏が終わったって。夢が潰えたって。
あげはちゃんは自覚してるはずなんだ。
「そんな顔で労われちゃ、お疲れさまってよりはご臨終さまって感じなんだけど?」
そう言って、頬を膨らます仕草も空元気に思えて仕方ない。
目元が真っ赤だから。
言われなくとも、あげはちゃんの情緒が不安定だってわかってしまう。
「……ねぇ岸本」
隣に並んで壁に体重を預け、遥か遠くで輝く星々を見つめる子供のように、あげはちゃんは通路の照明を見上げる。
「約束、覚えてる?」
「もちろん。俺、約束絶対守るマンだからね」
「はは、責任お化けかよ~」
「俺、小波を泣かせて、この大会で優勝して、みんなと少しでも長く過ごしたいんだ。だから、優勝は他の誰にも譲れない。そうなれば、明日からはあげはちゃんも演劇サークル部の本部員だ。長年部長を務めた演劇部を退部する準備はできてる?」
「うはぁ、強気だなぁこやつ。……ねぇ、わがまま言ってもいい?」
「もちろん。できる限り善処する」
「ありがと。……あたしの夢、岸本に託してもいいかな?」
「なに言ってるの。あげはちゃんも一緒に叶えにいくんだよ」
沈んだ声色でわかる。ほんとはこんなことをする気持ちの余裕はないんだって。
あげはちゃんは俺のために、自分の気持ちを棚に上げてくれた。
俺がまだ迷ってるんじゃないかって、心配してここまで駆けつけてくれた。
「十月に県大会で公演するときはあげはちゃんも俺と同じ演出家だよ。だから託すなんて言わないでよ。それじゃまるで、あげはちゃんがもう完全に燃え尽きたみたいじゃんか」
それほどまでに、俺たち演劇サークルの行く末を慮ってくれたんだ。
だからもう、あげはちゃんは立派に俺たちの仲間で。
というか、最初から幻の五人目で。
「あげはちゃんには何度も助けてもらった。次は俺が助ける番だ」
仲間が失意に落ちていく様をむざむざと見逃すわけにはいかない。
まぁ、仲間だろうがなかろうが、あげはちゃんが困ってたら助けるんだけどさ。
「……は、はは、助けるって、なんだよぉ……」
「あげはちゃんの努力を無駄にしないってこと。今日という日は演劇部部長としての終着点であると同時に、演劇サークル部の本部員としての出発点です。これからよろしくね、あげはちゃん」
「……なんだよそれぇ」
「大丈夫だよあげはちゃん、俺たちは君の努力を蔑ろにしたりなんかしないから」
役者の演技と演出がまるで噛み合わないなんて、あげはちゃんが胸を痛めるような悲劇は絶対に起こさないから。
「……ぅ、ぅぅ……うああああ!」
常に俺を先導し続けたあげはちゃん。
けど、人間である以上無敵ってわけじゃない。
俺は、ずっと舞台裏に控えていたからあげはちゃんと演劇部員のやり取りを耳にしていた。
あげはちゃんの指示を、演劇部員はことごとく理解していなかった。
だから、演技と演出はまるで噛み合わなかった。
緊張なんて言い訳は許されない準備不足が招いた当然の末路だった。
「ぅううう……あ、あああぁ……」
「堪えなくていいよ。好きなだけ泣いちゃって」
あげはちゃんの涙が、俺の胸に染み渡っていく。
涙という努力の結晶体が、俺の覚悟をより強固なものへと変えていく。
「じゃ、わたしせんぱい呼んで……せんぱい?」
「悪い雛鳥。少しだけ俺なしでミーティングしてて」
「……うん、わかった。へへ、いいもの見ちゃった」
はて、なにがいいものなんだか。
控え室の扉が厚くて外部からの音が届かない構造になっているのは救いだった。
だってそうでもなきゃ、あげはちゃんは三人を気遣って涙を堪えてしまうだろうから。
涙を流さないと人はパンクする。
我慢は強さなんかじゃない。
楽しいときに笑って、悲しいときに泣いて。
それでいいんだ。感情に素直でなきゃ人は自分を見失ってしまう。
「ごめん……ごめんね、岸本……」
「気にしないで。あいつらは俺がいなくたってやれるからさ」
小波が、自信も自身も見失ってしまったように……




