第3話 暗闇に差し込んだ一筋の希望
「恭くん、上がりだよ」
「っと、もうそんな時間か。お疲れさまです店長」
「お疲れさま。今日も今日とて演劇指南書を熟読かぁ。がんばるねぇ恭くんは」
「ようやく夢がはじまりそうなんで。あ、でもしばらくはバイトのシフトはこのままで大丈夫なんで安心してください」
「若いからって無理しちゃダメだよ? その本、気になるなら持っていっていいからね」
「いつもありがとうございます」
「お礼を言いたいのは本たちの方だと思うよ。売れない本たちも、こうして恭くんの血肉になれれば万々歳のはずだからね」
週六日のアルバイトのうち、三日はここ『木ノ瀬書店』で働いている。
時給は都内平均やや上くらいで、稼ぐのに恰好とはいいがたい小規模な個人経営の書店だけど、この店は客足が少なく、加えて一時間ほど書物整理をすれば残りの時間は読書に充てられるので、知識を欲する俺にとっては夢のようなバイト先だ。
ちなみに残りの三日は家電量販店でバイトしている。
こちらはタイムカードを切ってから退勤するまでしこたま働かなきゃいけないけど、おかげで家電機材に関する知識が身についたから、こちらもまた一石二鳥のバイト先と言える。
こうして得た知識は、無駄にはならず俺の処世術として生きる。
代表例は部室だ。
あの部屋は去年の夏頃まで物置部屋だった。
埃が舞わなくなる頃にはセミの合唱が空の彼方にまで響いていて、家具の配置を終えた頃には、高校生活二度目の桜の季節が訪れていた。
ほかにも毎朝早起きして部員勧誘したり、来たるべき日に備えて音響担当候補や衣装担当候補と親密な関係を築いたり、あげはちゃんのお茶会に付き合って演劇のノウハウを学んだり……
ほんと、この一年よく頑張ったよなぁ俺。
まだ努力が結実していないから浸るには早いんだけどさ。
☆ ★ ☆
そんなこんなで、帰路をたどる現在の時刻は二十一時。
夜のとばりが下りた住宅街はしんと静まり返っていて、民家から運ばれてくる生活感のある物音が、暗がりに漂う寂たる空気を助長する。
「やっぱりそうなるよなぁ」
もしかしたら、バイト終わりにすももからの吉報に小躍りできるんじゃないかと淡い期待を寄せていたけど。
現実は『ダメでした』の凶報がスマホの画面に躍っていて……
「ま、なんとかなるよな」
これからこれから、と自分を励まし、顔を上げた直後、握りしめるスマホが震えはじめた。
「……」
画面に表示されているのは、俺がこの世でもっとも嫌う十一桁。
――父親〝だった〟他人からの、二週間に一回くらいのペースでかかってくる迷惑電話。
野放しにされた手のひらの百五〇グラムは二〇秒ほどで息を引き取った。
「ふぅ」
と、俺がげんなりと息をついたのと、
「誰にあてて書いたのかな?」
と、思い出深い台詞が脳内で再生されたのは同時だった。
「いったい誰がこんなことを? どうして石の下に手紙が? ……不気味でこわいけれど、ダメよコゼット。しっかり確認しなきゃ」
――レ・ミゼラブル。
ヴィクトル・ユゴーが執筆したこの作品はフランス文学を代表するものであり、今もなお世界四大演劇のひとつとして国内外で上映され、多くの人々に感動を与え続けている。
「いったい誰がこれを送ってきたの? 誰がこんな文章を送ってきたの?」
そしてコゼットは、レ・ミゼラブルに登場する主要キャラのひとり。
幼少期から不幸に見舞われつづける彼女だが、ジャン・ヴァルジャンに保護されたことで彼女の人生は大きく好転しはじめる。
「決まってるわ。彼よ! 彼以外にありえないわ!」
そんな彼女の憶測に間違いはなく、しばらくしてコゼットに手紙を送ったマリウスがやってくる。
その後、ふたりは愛を確かめ合って……
待てよ?
これって幻聴なんかじゃなく、本当にどこかから運ばれてる声じゃないか?
声のする方に歩いていくと、やがてうらぶれた公園に辿りついた。
ブランコは錆びつき、シーソーを弾ませるためのタイヤはぺしゃんこにしぼみ、ベンチの脇の柱には蔦が絡まり。
そんな長らく人の手が加えられていないであろう、公園と呼ぶにも値しない荒れ地で、小さな光は輝いていた。
「ここに書いてあることはみんな、前にも感じたものばかり! 彼の瞳に、こんな思いがうかんでいたじゃないの」
ひとりの少女がレ・ミゼラブルを演じていた。
少女の動きに合わせ、星形の髪留めが街灯に反射する角度を変える。
「これって現実なの? ……ああ、そうよ!」
それはまさしく、闇を照らす一筋の希望。
「間違いなく、彼よ! 彼がここまで届けてくれたのね!」
弱々しくも、輝くことを決して諦めない小さなほし。
俺は、呆然と彼女を眺めて……
気がつくと、涙が頬を伝ってた。
コゼットが報われたからでも、この後ふたりに訪れる悲劇に同情してのものでもない。
彼女の本気にあてられたから。激しくこころを動かされたから。
だから俺は、涙をこぼしてしまったんだと思う。
その後も彼女の演技は続く。
俺に気づくことなく、彼女は笑顔を振りまきながら、悲痛に顔を歪ませながら、ユーゴーの表現したかったことを行間まで的確に理解したように、完璧なレ・ミゼラブルを演じ切る。
それも、すべての役をたったひとりで。
ひとりも観客のいない、閑散とした演劇会場で。
やがて物語は佳境に差し掛かり、『民衆の歌』を歌い終えたところで、彼女は一息ついて深々と頭を下げる。
「ありがとうございました!」
さっきも言ったけど、ここはひとりも観客のいない、閑散とした演劇会場で。
……なのに、おかしいんだ。
俺の耳には、割れんばかりの拍手が聞こえてる。
「ふぇ!?」
実際に拍手してるのは俺ひとりなのに。
まるでスタンディングオベーションが起きたかのように、万雷の喝采が聞こえてる。
「え、えっと……き、近所迷惑、でしたか?」
瞳は伏せられ、前髪をいじいじ弄り、身をよじらせる彼女は、つい数秒前とはまるで別人だ。喩えるなら……そう、ライオンがネコになったかのよう。
「俺は近隣住民じゃないよ」
「え? ……な、なら、なにしにきたんですか?」
小動物のように潤んだ瞳を向けてくる。
数秒前までは、オオカミもかくやという眩い眼光を放ってたのに。
「君の声に惹かれたんだ。レ・ミゼラブル。革命期のフランスを舞台にした作品で、愛の形や信仰の形が鮮やかに描かれた、ユーゴーの代表作。演劇に通ずるやつなら誰でも知ってる」
「……えっと、演劇の世界と、関係がある人ですか?」
「ああ。俺は演劇サークル同好会――いや、演劇サークル部部長の岸本恭司だ。岸本はありふれた岸本で、恭司は恭しいに司るで恭司」
俺は、縮こまる少女に手を刺し伸ばして言った。
「俺と夢を叶えに行かないか。おほしちゃん」
「ふぇ?」
突然こんなことを言えば、戸惑わせてしまうことも、頭のおかしい奴だって思われることもわかってる。
だけど、この突飛な行動は間違っちゃいないって確信がある。
この瞬間が、俺の運命の分岐点だって確信している。
少女はパチパチと瞬きし、つ~と視線を明後日に流した。
「……あ、あぁ~、その~、これから急ぎの用があるんで帰りますねっ。では!」
「待って待って! 五分だけ! 五分だけいいから俺の話聞いて! ね?」
「うぅ……。わたし……わたしは、おいしくない、ですっ」
「食べちゃわないから! やましい気持ちとか一切ないから!」
「やましい気持ちが一切ないのなら、やましい気持ちが一切ないなんて言い訳はしないです!」
う~ん、難しいなぁ日本語って。
「ちょっとだけ! 三分でいいから話を聞いてくれないかな?」
「……岸本恭司さん、でしたっけ」
「あ、覚えてくれたんだ」
「……名前に反してぜんぜん恭しい人じゃないですね」
「は、はは……普段は謙虚なんだよ俺?」
今はがっつかれてるって誤解されても文句を言えない状況だって自覚はある。
ごめんな、俺も今は自分のことでいっぱいいっぱいで相手を気遣う余裕がなくて。




