第22話〝ごめん〟は〝ありがとう〟に。〝でも〟は〝したい〟に
「んん……」
「っ、お兄ちゃん?」
「……小波か?」
「お兄ちゃん!」
抱きつかれた感覚。
ゆっくり瞼を開くと、今にも泣きだしそうな顔を浮かべる小波がいた。
「よかった……ほんとによかったよぉ……」
「……ここは」
かろうじて認識できる記憶の糸を辿って状況把握に努める。
たしか俺は……そうだ、バイト中に眩暈に襲われて倒れたんだ。
で、緊急搬送されて病室に。家に連絡が入ったけどいつものように母さんは夜勤で、小波しかいなかったから、こうして駆けつけてくれたんだろう。
うん。まだ強い倦怠感はあるけど、脳は正常に機能しているみたいだ。
「お兄ちゃん……! お兄ちゃん……!」
俺の頭を抱き寄せる小波は、泣き出しそうな顔をしたまま、しゃくり上げるように声を張り続ける。
けど、小波の〝泣き出しそう〟が〝泣いた〟になることは決してない。
「ごめんな。心配かけて」
小波が、よく笑ってよく涙を流す、横着で元気いっぱいな小学生だった頃の話だ。
麗らかな春の休日だった。
小波はワガママを言って母さんを困らせ、しかしそのワガママは一向に聞き入れてもらえず、そんな膠着状態から薄っすらと敗北を悟った小波は、大泣きするという最後の手段を取った。
その狡猾な一手は見事に母さんの胸を射抜き、そして調理中の母さんの意識を削いだ。
味噌汁をつくっている最中だった。
小波を振り返る母さんの後をつけるように片手鍋の取ってが動き、やがて段差から片手鍋が落ちて――火災探知機をフル稼働させた。
幼いながらにその光景を見ていた俺はよく覚えている。
燃え上がるキッチンを。過去に類を見ないくらいに大慌てする母さんの姿を。
隣で顔を真っ青にする小波の姿を。
「わたし……わたし、お兄ちゃんがいなくなったらって思うとこわくてこわくて。……お兄ちゃんはどこにもいかないよね? ずっと、わたしの側にいるよね?」
「あぁ、俺はいつだって小波の近くにいる。小波をひとりにはしないよ」
その日を境に、小波は別人のようにおとなしくなった。
弾けるような笑顔は申しぶん程度の微笑に変わり、なにかを頼んだり他愛無い話をしてくることがなくなって……
そうやって接点が激減したものだから、俺は小波が涙を流せなくなっていることにしばらく気づくことができなかった。
「うぅ……お兄ちゃぁん……」
「そう泣くなって。大丈夫、ちょっと無理が祟っただけだからさ」
涙声で、顔は悲痛に歪んで、けれども小波の瞳から涙はあふれない。
自分が泣いたせいで家が火事になりかけた。母さんがたくさんの人に頭を下げる羽目になった。
幼少期に絡みついた罪悪感が、小波の〝哀〟の感情に制限をかけているから。
それが、医師が導いた、小波が涙を流せなくなっている理由だった。
通院は、今も二週間に一度のペースで続いている。
「ごめんね……わたしがこんなだから。お母さんの金銭的負担を減らすため、なんだよね?」
小波は父親の影響で演劇を好んでいた。そして鑑賞中、今みたく涙声を漏らしているのに涙を流していない小波を見て、父親はボソッとつぶやいた。
『気味が悪い』
『え?』
『ぁ……』
その日を境に、小波は父親から距離を置くようになった。演劇をひとりで見るようになった。
そんな冷め切った日々が三か月続き、やがて父親は家から出ていくと言い出した。
「考えすぎだ。俺は、経験が目当てでバイトしてる。給料なんてのは副産物で興味がないから、生活費に入れてるだけだよ」
そうやって、あいつが俺たちの前から姿を消したのは四年前のこと。
当時中学二年生だった俺は、さめざめと泣き続ける母さんと、すべては自分のせいだと責任を感じ、自信を失ってしまった小波を見て決めたんだ。
「ごめんね、お兄ちゃん。わたし、来年からバイトして自分の治療費は自分でなんとかするから。お母さんとお兄ちゃんに頼りっきりにならないようにするから」
これからは、俺がふたりを支えていくんだって。
俺がなんとかして小波に涙を流させて、お前は普通の女の子なんだよって、証明してやるんだって。
「治療費のことなんて気にすんなよ。それよりも母さんは小波がのびのびと生きることを望んでるはずだ。それに小波は賢いからさ、立派な学歴を修めて、立派な職に就いて、そうやって恩返しした方が小波の負担も軽いし、将来的な恩恵も大きいと思うんだけどどうかな?」
そして、どうすれば小波の涙を呼び起こすことができるのかと幾日も幾日も頭を悩ませ、たどりついたのが演劇だった。
小波は演劇を好いているし、あいつが演劇コンクールの審査員を毎年努めていることも知っている。
小波を救えて、あいつに復讐できて、この上なく適した媒体だと思った。
これしかないと思った。
「……そう、だけど。でも……」
俺は小波と違って演劇を好いていたわけではないから、まずは演劇を理解し好きになるところからはじめた。
小波にはバレないように図書館で書物を漁って、古典的名作とやらを原作を読んでから視聴して、最高の舞台を作りあげるために、実際はバイト代の四割しか家庭にまわしていないのに八割つぎ込んでいると嘘をついて……
四年間、積み重ねた。
すべては小波に涙を流させるために。
小波が普通の女の子だって証明するために。
「〝ごめん〟と〝でも〟は極力減らす努力をしろって言ったろ?」
ずっと俯いてばかりの妹の頭をわしわし撫でる。
罪悪感に駆られたあの日から、小波は悲観的思考に囚われてしまっている。
ほんとうはもっと無邪気で、横着な一面があって、自分のしたいことをはっきり言える女の子だったんだよ、俺の妹はさ。
「〝ごめん〟は〝ありがとう〟に、〝でも〟は〝したい〟に変えてこう? いつもいつでも前向きでいようとは言わないけどさ、そうやって何事も後ろ向きに捉えてると、人生楽しくなくなっちゃうよ?」
「……うん、そうだね。さすがお兄ちゃん。お兄ちゃんはわたしのおほしさまだね」
「おほしさま……」
それはおそらく、偶然重なってしまった言葉。
『わたしもおほしさまみたいに輝けますか?』
あの日、俺のほしが自信無げに問いかけてきた情景が脳裏によみがえる。
「……俺は、おほしさまなんかじゃないよ」
だって俺は、ほしに照らされる側の人間だから。
ほしに憧れて手を伸ばし続ける、求める側の人間だから。
「どうしてそんな泣きそうな顔してるの?」
「……いや、なんでもないよ。それより小波、明日も学校だろ? 時間も遅いだろうし……って二十二時!? 小波、補導されたら大変だから今日は泊まって……」
「そんな場所ないぞよ。ここは公共施設だから」
と、ごもっとも指摘は部屋の入口から。
今、俺がいる部屋にはベッドが四つ収納されていて、俺が使用しているベッド以外は無人だ。俺の寝ているベッドは月明りの差し込む窓際にある。
となれば、電気が点いていなくともそれなりに視界は開けているわけで。
首を巡らせれば、来客の姿は嫌でも目に入る。
「大丈夫、タクシー呼んどいたから」
身体よりやや大きめのトップスに、七分丈のデニムパンツ。桃色のクロックスは、先週、買い物に付き添った際に購入した真新しいものだ。
「相変わらず、見かけによらず手際がいいよなお前って」
「ふふん、モモさんは有能だからねっ」
腰に握りこぶしを当てて胸を張る幼なじみはいつも通りお気楽で。
目覚めてからというのも、痛ましい過去が脳内を駆け巡り沈んだ気持ちになっていたから、そんな底抜けに明るい姿に頬がやわらぎ、救われた気持ちになる。
意図的かはわからないけど、すももはいつもここぞって時に癒しをくれる。
ほんと、助けられてばかりだ。
「悪いな。運賃料は今度返すよ」
「いいよいいよ、だって小波ちゃんはモモさんの妹でもあるし」
「なに言ってる。小波は俺の妹だ。誰にもやらんぞ」
「うへぇ、まさかとは思ったけど、せんぱいって天然のシスコンだったんだ……」
と、扉がちょっと開いて、そこからひょこっと苦々しい顔を浮かべた雛鳥が顔を出す。
「は? なんで雛鳥がいるの?」
「ちょっと! お見舞いに来たのにその言い方はないんじゃないかなぁ!」
おぉ、珍しく怒鳥だ。
「いや、だって……」
え、俺が倒れたのって数時間前だよな?
お見舞いって普通、翌日以降に来るもんじゃないのか?
「わたしが呼んだんだ」
と、すももが高速で種明かししてくる。
「何故に?」
「何故ってそりゃ仲間だからだけど……あ、でも呼んだっていうのは語弊があるかも。モモさんはきーくんが倒れたって伝えただけなんだけど、そしたら雛ちゃん……」
「わーわーわーっ! だ、だって心配だったんだもん! せんぱいは大切な人だし!」
顔を真っ赤にしながら、必死に言い訳するように言う雛鳥だが……そっか、雛鳥にとって俺は大切な人に値する人間になれてたのか。
すももがちょっとした外出のための軽装であるのに対し、雛鳥のフードからもこもこの垂れたパーカーに膝上のパンツという服装は、どう見ても外出に適したものではなく寝巻きであるように思える。
それに、今の動揺だけでできたとは思えないほど、雛鳥の腕や脚には汗粒が滲んでいて……
「ここまで走ってきたのか?」
「え? えっと、うん、走ってきたけど……それがどうしたの?」
「どうしたのってお前……」
寝巻きのまま、俺を見舞うために、汗も人目も厭わないで駆けてきたっていうのか?
雛鳥が演技をしてた公園からこの病院まで、けっこうな距離があるんだぞ?
「つまりさ、きーくんが認識している以上に、みんなきーくんを大切に想ってるんだよ。ね、小波ちゃん?」
と、突然話題を振られた小波は、突然の出来事に呆然として無言になっていたのかと思いきや、何を思ってか寂しさと嬉しさの入り混じったような笑みを浮かべていた。
「うん。……よかった。お兄ちゃんを大切に想う人が、わたしとモモ姉ちゃん以外にもいたんだね」
「そうだよ小波ちゃん。きーくんは学校でいつも元気に、ハーレム活動に勤しんでるんだよ」
「どさくさに紛れて嘘つくなよ」
なんだよ、いつも元気にハーレム活動に勤しんでるって。
「いや、わりかし否定できないと思うんだけど」
と、懐疑的なのは俺ひとりで、よくわからないけど部員ふたりは肯定派らしい。
「なんでマジトーンなの? 雛鳥さん? 顔がこわいよ?」
「はは、お兄ちゃんは人気者だね」
「あ、はは。人気……なのかなぁ」
比較的、好意よりも邪気を向けられる確率の方が高いと思うけど気のせいかな?
「じゃ、わたし帰るね。モモ姉ちゃんと……雛鳥さんでしたか?」
「あ、はい! 雛鳥星って言います! 今後ともよろしくお願いします!」
ふむ、どちらが高校生でどちらが中学生かわからんな。
「こちらこそよろしくお願いします。……雛鳥さん、これからもお兄ちゃんのこと頼みますね」
「うん? えと……ま、まっかせて! わたしはせんぱいのほしだからっ!」
「はい。〝彼女〟として、お兄ちゃんのこと支えてあげてくださいね」
「「「んんっ!?」」」
三者一様の反応をする俺たちを見て、小波は不思議そうに首を傾げる。
……でも、そっか。傍から見た小波がそんな勘違いをするくらいに、俺と雛鳥は親密な間柄に見えるんだなぁ。
「いやいや違う違うっ! わたしとせんぱいはそんな関係じゃないよっ! ……今はまだ」
なんて感傷に浸っていたら、ぶんぶん首と両手を振って否定する雛鳥の姿が目に入って、ちょっととこころが傷ついた。
いいんだけどさ、別に。そういう感情がサークルを瓦解させる原因だっていうし。
……って、そういえばもう瓦解してたんだったな、俺の演劇サークル。




