第20話 偽りの代償
梅雨が遥か遠くの出来事であったかのように、空は青々と晴れ渡っている。
葉はますます深緑に染まり、雨音はセミの合唱に移り変わり、気づけばもう七月だ。
七月。
俺たちの勝負の日まで、残すところ四週間。
「なんか違うなんだよなぁ」
にもかかわらず企画の段階で言えよ、とツッコまれそうな不満を口にする監督がいた。
「まだ足りない点があるって言うの?」
それも一回だけでなく、三回も漠然とした指摘をされているのだから、脚本が青筋を立ててしまうのも無理はないだろう。
「う~ん、面白いしグッとくるラストではあるんだけど……なんかなぁ」
「なんかなぁ、じゃわからないわよ。もっとはっきり言って」
「う~ん……」
セミのけたたましい叫びが鼓膜を突く。
直射日光の避けられる放課後の校舎裏と雖も七月となればうだるように熱く、そんな炎暑が藤沢の苛立ちに拍車をかけているのかもしれない。
「ごめんなさい。わたしが力不足だから……」
五十五分に渡る演技を終えて額にいくつも光る粒を乗せた雛鳥が、申し訳なさそうに眉根を寄せる。
薄手のTシャツは下着がほんのり見えるくらいに汗で湿っていて、言われずとも彼女が全力で演技していたのだとわかるし、俺は、一度だって雛鳥が力不足だなんて思ったことはない。
「いいや、雛鳥の演技は少しも悪くないしむしろ最高だよ。雛鳥だけじゃない。すももも藤沢も、文句のつけようがないくらい役に没頭できてる」
それはもちろん、すももも藤沢も同様。
ふたりも、ほんとうによく頑張ってくれてる。
「脚本も演技も問題なし。ならきーくんは、なにに違和感を覚えてるの?」
俺の夢を本気で叶えようと三人は頑張ってくれてる。
「それは……」
凍てつくような藤沢の視線に、率直な疑問を宿した雛鳥とすももの視線が重なる。
わからないんじゃない。
これじゃダメだって、明確にわかるから口に出せないんだ。
問題があるのは脚本だ。
けど、不備が生じてしまったのは、徹頭徹尾俺のせいで。
その問題は、企画段階で伝えなければいけないことなのに、俺が伝えることを意図的に避けたこと。雛鳥と藤沢に明かしていない、俺の本懐にかかわること。
今更それを蒸し返すのはあまりに虫が良すぎるし、三人に掛ける負担が大きすぎる。
「……そう、わかったわ忸怩くん。私しばらく部活休むから」
そう思っていながらも、俺は妥協することを諒とはできなくて。
「え?」
「あなたの心と隣合えたと思ったのに、まだこんなにも隔たりがあったなんてね」
曖昧で狡猾な船長に、船員は呆れて下船しようとする。
「ま、待ってよ藤沢! お前がいなくなったら、誰がシュピレシアを演じるんだよ?」
「当日、全員が全員万全とも限らないでしょう? 不測の事態に備えてバーターを用意しておくのも監督の務めなんじゃない?」
「バーターって……主要人物はこの三人で演じたいって、藤沢が言ったんじゃん」
それはいつか、脚本制作をしているときに藤沢がぽつりと呟いたこと。
藤沢らしくない、仲間意識の際立った発言に面食らったことを、俺は今でもよく覚えている。
あの言葉に嘘はなくて、彼女の書き上げた物語に主要人物が三人しかいないことが、なによりその事実を物語ってる。
「なぁ藤沢、まさかここにきて降りるとか言わないよな? 俺の泥船に、最後まで乗ってくれるんだよな?」
「……」
「俺の夢を叶えてくれるんだよな?」
「……ごめんなさい」
踵を返した藤沢は、一向に足を止めようとしない。
俺と、彼女の距離が。
一度は、手の届くところにやってきた夢が。
俺の、もうひとつの星が。
ゆっくりゆっくりと、遠ざかっていく……
「……そんなのって、ないだろ……」
爪が皮膚に埋まるくらい、強く拳を握りしめる。
込みあげる感情は、後悔なのか、怒りなのか。
そしてその感情は、誰に向けられたものなのか。
「……俺には、お前の才能が必要なんだよ」
激情の本流に呑まれながら、弱々しく、縋るように呟く。
「……才能、か」
と、かつかつ聞こえていたローファーを踏みしめる音がぴたと止まる。
その時になって気づいたけど、靴音が聞こえるほどに、藤沢はまだ近くにいたらしい。
だから、彼女が小さく呟いた声も聞こえてしまって。
俺は、遅れながらに取り返しのつかないことをしてしまったんだって気づいた。
「あ、いや、今のは違うんだ藤沢! 俺はお前のことを……」
「そっか……。そうだったのね」
けど、気づいた時には既に遅くて。
一度、声にしてしまった言葉は、どう足掻いても取り消せなくて。
濡羽色の髪を夕風に棚引かせながら俺を振り返った藤沢は、涙を流していた。
俺が発した鋭利な言葉に、涙していた。
「信じてたんだけどなぁ。あなただけは、私を見てくれてるんだって」
夕陽が遮られる校舎裏。
そのメリットが、今だけはデメリットとなって働く。
夕陽があれば、藤沢のこんな寂しそうな微笑を目の当たりにすることもなかっただろう。
「藤沢……」
俺は、知ってるんだ。
藤沢が、努力によって培われた天才で、実は超がつくほどのお人好しで。
そして、強気な言動が目立つけれど、実際は臆病で弱虫な繊細な女の子だって。
「じゃあね岸本くん」
「あ……」
忸怩くん。
蔑称にしか思えないけど、このあだ名は藤沢が俺を認めてくれている証だった。
俺と藤沢の、つながりの証だった。
その証が今、唐突に瓦解した。
他ならぬ、藤沢の拒絶によって。
足音が段々と遠ざかっていく。
なのに、俺は手を伸ばしたまま動けない。
まるで足を地面に縫いつけられたみたいに、ぴくりとも動くことができない。
「……あぁ、くっそ……」
やがて下半身の力が嘘みたいに抜けて、俺は膝から地面に崩れ落ちた。
藤沢の後ろ姿はまだ見える。追いかければ手の届く距離にいる。
けど、追いかけようと思えない。
だって俺にはもう、藤沢を止める権利がないから。
彼女のもっとも傷つけてはいけない部分を、深く傷つけてしまったから。
「なにしてるのきーくん! これで終わりでいいの!?」
正面で膝立ちしたすももが、俺の肩を掴んでぶんぶん前後に揺さぶってくる。
校舎裏の地面はアスファルトでできている。
だから直に膝頭をつければ、それなりに痛みを覚えるはずだ。すももは顔色ひとつ変えないけど。
「……ほんと、俺って奴はつくづく救いようがないな」
「なに弱気なこと言ってるの! ここで藤ちゃんを諦めたらすべてが終わっちゃうよ!?」
お前、そんな熱血キャラじゃないだろ。
けど、すももはいつだってそうだ。
俺が絶望に屈して立ちあがることもままならないとき、俺を先導しようと必死になってくれる。俺と真摯に向かい合って助けようとしてくれる。
『俺はさ、証明したいんだ。小波が普通の女の子だって。お前はなにもおかしくないんだって。俺は、小波に笑顔でいてもらいたいんだ。だからすもも、手伝ってくれないか?』
『うん、いいよ。あとさ、きーくん、泣いていいんだよ?』
『……ダメだろ。小波も母さんも泣いてる。全部全部あいつのせいで。だから、俺が泣くわけにはいかないよ。俺が、ふたりを守っていかなきゃ。俺が、強くならなきゃ……』
『うんうん、立派だよ恭司』
『……なに、抱き締めてんだよ。俺たち、中学生だぞ? 勘違いされるぞ?』
『いいんじゃないかな勘違いされても。わたしは構わないけど』
『……やめろよ、そんな風に頭を撫でられたら……う、うぅ……』
『そうそう、いいんだよそれで。わたしの前でだけ、弱さを晒せばいいんだよ恭司』
『うぐっ……その、恭司って呼び方やめろよ。俺はきーくんだろ?』
『慰めるとき限定で、きーくんは恭司なのです』
『は、はは、なんだよそれ……う。うぅぅ……なぁすもも、俺は、小波を普通の女の子だって証明できるかな?』
『恭司ならできるよ。わたし、知ってるもん。恭司が誰よりも頑張り屋さんだって』
『あ、あぁ、あぁぁっ!』
あの時も、俺はすももに助けられた。
すももがいなければ、俺は間違いなくあの時に潰れてた。
「……いいんだよこれで」
「え?」
けど、今はあの時と状況が違う。
俺は、被害者じゃなく加害者。
あいつと……涙を流せない小波を気味悪がって俺たち家族を捨てた父親と、変わらないことを藤沢にしてしまった。
自分本位に物事を捉えて、相手の心境なんてお構いなしに激情をぶつけてしまった。
この世でもっとも卑劣な行為をしてしまった。
「あいつは俺と本気で向き合ってくれた。なのに俺は、あいつの本気に偽りの本気で応えた。だから、これは当然の報いなんだよ」
言葉は、いとも容易く人を傷つける。
言葉によってつけられた傷は、一生消えない。
人格を殺し、時として運命さえも狂わせるそれは、凶器よりも性質の悪い猛毒。
その性質を、誰よりも小波に寄り添っていた俺は、よく知ってる。
「ごめんなすもも。せっかくここまで手伝ってもらったのに」
「なに言ってるの! まだ終わったわけじゃ……」
「いいや、もう終わりだよ」
だって俺が、これ以上、みんなを騙し続けることに限界を感じてしまったんだから。
「きーくん……」
「……ほんと、ごめんな」
小波との約束も、雛鳥との約束も、あげはちゃんとの約束も、これで潰えた。
今日まで俺を応援してくれたみんなに合わせる顔がなくなった。
「……せんぱい」
弱々しく紡がれた声に振り返ると、雛鳥が今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「……雛鳥もごめんな。今日まで必死にがんばってもらったのに」
「そんな。せんぱいがいなきゃわたし……」
「いいや、俺がいなくたって雛鳥は輝けた。お前は、最初から輝いてたんだよ」
俺が隠してただけで。
「そんなはずないよ。だってわたし、せんぱいと出会うまで……」
「名前に似合う立派な子だよ、雛鳥は。だから、これからは胸を張って過ごすんだ」
「そんな……そんなのってないよせんぱい! だってわたし、まだせんぱいの……!」
瞳いっぱいに涙を溜めて雛鳥はなにかを訴えようとするが、ついに声になることはなく。
「今日までありがとな、俺のほし」
その日、俺の二対のほしの消失と同時に夢が潰えた。
なにもかも失って、改めて痛感させられる。
俺にはなにもないんだって。
支えてくれる誰かがいたから、ここまで来られたんだって。
「みんなにどう説明しようかなぁ」
音源に衣装に大会予約に。
明日からは、誰かに頭を下げる日々が続きそうだ。
幸いにも土下座することには慣れている。




