第10話 頬擦りする仲のきっちりした顧問とこきばかり使ってくるぐ~たら生徒指導
『那須あげは』という達筆で五枠目が埋まった部申請用紙を職員室で顧問に渡したのは、まもなく五時三〇分をまわろうとした頃。
「これでよしっと。あとは、生徒指導のみっちゃんと生徒会長さんから承認判子をもらえれば、晴れて演劇サークル同好会は演劇サークル部に昇格です」
「何から何まで本当にありがとうございます」
「どういたしまして。むしろ、これくらいしかできなくてごめんね?」
「いやいや、顧問を務めてもらっているだけで感謝の極みですって」
演劇サークル同好会の顧問であり、去年に引き続き俺の担任でもある彼女は、千代崎アリス先生。
日本人の父親とフランス人の母親をもつハーフで、ふわふわしたアッシュの髪とブラウンの瞳が如何にも欧米風って感じだけど、生まれは日本で育ちも日本の純正日本人だ。
自宅ではフランスの文化が浸透しているようで、服を鍋で染色するらしい。
服を、鍋で、染色。
うん、何度聞いても驚きだよこの文化。
「ふふ、少しは力になれてるようでよかった。今日までよく頑張ったね、恭司くん」
「労うにはまだ早いですよ。俺の物語はここからがはじまりなので」
「でも、ここがひとつの山場ではあったわけでしょ? 恭司くんは頑張り屋さんだけど、自分を全然褒めてあげないからなぁ。……よし、私が代わりに褒めてあげます。おいで?」
両腕をこちらに広げ、「ハグしよ?」と言葉なく誘うかのようなアリス先生。
しかし、彼女がその蠱惑的な所作で求めていることが抱擁でないことを、一年以上の親密な付き合いがある俺は知っている。
すっと腰を下ろし、ササッと近づくと、アリス先生は満足げに笑んで俺の頬に柔らかな頬を軽く触れさせてきた。
「チュッ。えらいえらい。立派だよ、恭司くん」
頬と頬を合わせ、チュッと音を鳴らす。
この行為はフランスでビズと呼ばれており、親しい相手と交わすあいさつである。
アリス先生が演劇サークル同好会の顧問となってくれたのは去年の秋口のこと。
その条件として、たま~にでいいからビズをしたいと提示されて以降、俺はアリス先生からのビズを甘んじて受け入れている。
「……ありがとうございます」
まぁあの頃はビズってなんなのかわかってないくせに承諾して、いきなり頬擦りされて心臓が爆発しかけたんだけどさ。
あの頃はっていうか、今もドキドキで窒息しそうなんだけどさ。
左、右と、俺を褒めつつ二セットビズを繰り返すと、アリス先生は部申請用紙を片手に立ち上がる。
「さて、恭司くんの労いも済んだところだし、早速みっちゃんに承認判子をもらいにいこうか」
そして向かったのは、重厚感のある扉に閉ざされた来賓室。
なんでもみっちゃんは基本ここで作業しているのだとか。
「みっちゃん、入るよ?」
ノックと共に申し分程度の断りを入れて、アリス先生はドアノブをまわす。
かくして拓けた来賓室の中では、
「すぴー、すぴー」
ちょっぴり涎を垂らし、高そうなソファの上で体操座りしてお眠りになられる生徒指導の姿があったとさ。
雪川みどりだから、みっちゃん。いつも眠そうな目をしていて、暇さえあれば仮眠をとっている怠惰が具現化したような人である。
身長はかろうじて百五〇センチを上まわる程度と小柄だ。しなやかな肢体を覆う黒タイツは何故か左脚だけ脱げている。
たぶん、右脚も脱ごうとしたけどだるくなって諦めたんだろうなぁ。
このお方の不思議行動は、だいたいだるかったからという理由に起因するものだと相場が決まっている。
時間が惜しいので、俺はみっちゃんの肩を揺さぶり現実に連れ戻そうと試みる。
長い睫毛が持ち上がり、いつも通り眠そうな二重が俺を捉えた。
「お、ジョージじゃん。おはおは~」
「ジョージじゃなくて恭司です。みっちゃんは今日もいつも通り権力横暴中?」
「権力横暴とは失敬な。ちゃんと作業してるぞ。ほれ、これを見ろ」
そう言って突きつけられたのは、『GW明け 世界史テスト』と記された一枚のペラ紙。
「あ、やべ、ジョージうちの教え子じゃん。やっぱなし。今のなしね。修正ダルいから」
「即落ち芸が過ぎますって。それよりみっちゃん、今日はお願いがあってきたんです」
「お、なんだなんだ。いつもお世話になってるからな、うちにできることならジョージの力になるぞ」
とまぁ一連の流れを見ればおおよそ察しがつくだろうし、そもそもみっちゃんって呼んでる時点で気づいているだろうけど、俺は彼女と月並み以上の関係を築いている。
よく俺をパシってくるんだよなぁこの人。なんなら連絡先まで交換しちゃってるし。
俺は、みっちゃんに部申請用紙を渡した。
「演劇サークル同好会を演劇サークル部に昇格させるにあたってみっちゃんの判子が欲しいんです」
「あ~、ごめんそれは聞けない頼みだわ」
「え、なんで!?」
晴天の霹靂とはまさにこのこと。予期せぬ障害の出現にたじろぐ俺に、みっちゃんは部申請用紙をひらひらしながら告げてくる。
「うちもジョージが死ぬほど頑張ってるって知ってるから後押ししたいのはやまやまだけどさ、正式な部として成立させるにはメンバー全員が一定以上の成績を収めなきゃならんのよ」
「……」
あー、そういうこと。
「具体的には、初日にあった春休み明けのテストで誰も赤点を獲っていないことってのが条件ね。ちっとも酷な条件じゃないけどさ、うち知ってるんだわ、この中に平均六〇点の激甘世界史テストで、唯一、三〇点を下まわってぽしゃってる大馬鹿者がいるって」
ジトっとした目を俺に突き刺してくる。
だって見せかけだけの知識に意味はないじゃん。
みんなハムレットが世界四大悲劇ってことは把握してても、オフィーリアのことは知らないんだろ? 論外だろ普通に。
……と、見苦しい言い訳もほどほどに。
余談だけど、俺は赤点常連である。
五教科あれば四教科落とすのが岸本クオリティ。十段階ある評定平均は、(悪い意味で)学年屈指の二・五。
「……お得意の権力横暴でなんとかできません?」
「無理で~す。後から上に文句言われるのいやで~す。だから今回は却下。幸いにも来月の頭にGW明けのテストがあるから、そこで全教科赤点回避したら判子押したげるよ。ほれ出直せ」
「う~、無茶ぶりだよぉ~」
嘆く俺の肩に、ぽんと手のひらが添えられる。アリス先生が微笑んでいた。
「大丈夫だよ、恭司くん。現代文は私が教えられるし、世界史はみっちゃんが教えられる。数学や英語だって、恭司くんが教えてほしいって頼めばみんな優しく寄り添ってくれるよ」
「勉強ヤダぁ……」
「わかる。わかるぞジョージ。人生そんなことばかりだよな。うちもできることなら働きたくない。異世界転生してスローライフ満喫したい」
「教え子の前で教師にあるまじき本音を漏らすのは控えようよ、みっちゃん……」
マジかぁ。ここに来て勉強を疎かにしたツケがまわってくるのかぁ……
この時点で即日演劇サークル部昇格の未来は潰えたけど、一応会長のところにも足を運んでみるかぁ。
同じ理由で門前払いされそうだけど。




