あなたが知っていた日々 王国歴1657年~1651年
王国歴1657年 聖燭の月
冬営地に、本への文が届きはじめた。読んだ、という文である。旅の途中の学者から、辺境の村の子供から、名を書かない誰かから。クローネ殿は文の束を私の机に置いて、返事はぜんぶ自分で書きなさい、それも本のうちよ、と言った。一通、返事に三日かかったものがある。川辺の民の章のあの方は、ほんとうにいるのですか、という子供の文だった。さんざん迷って、こう書いた。いる。会えるかどうかは、べつの話。それでも、川辺を通るときは、少しだけ丁寧に歩きなさい。出してから、まだ正しい返事だったかどうか考えている。たぶん、一生考える。
王国歴1657年 実りの月
本が出てから初めて、山の斜面の集落へ。挨拶に半日かけて、古老の御前に座った。雲を眺めて待つあいだ、頂けるとしたら何の一語だろうと考えていた。半日ののち、古老は口を開いた。読んだ。それだけだった。山を下りる足が、行きより軽かった。百年をかけて器を作る方々の、読んだ、である。あの一語の目方を量れる秤は、王都にもあるまい。
王国歴1657年 花冠の月
結びを書いてから一年になる。村参りに、本を持って行った。あなたは受け取って、表紙を撫でて、開かなかった。読まないのかと訊いたら、いつかね、と例の返事である。その代わり、と言って、あなたは私に本を返し、桟橋に腰を下ろした。読んで。あなたの声で聞くほうを、先にしたいの。それで私は、川辺の民の章を、水音に負けない声で読んだ。読みながら気づいた。あなたの唇が、ところどころ、私の文と一緒に動いている。まだ一度も開いていない本の文と、である。読み終えたら、あなたは言った。思い出していたとおりの、いい声だった。書いた者としては、どちらが先の読者なのか、もう分からない。
王国歴1656年 白霜の月
本が、出た。『七つの隣人 神々の愛でし民を訪ねて』。綴り方の仲間が寄ってたかって写しを作り、初めの十冊が石蔵の机に積まれた日、私はしばらく、触れなかった。最初の一冊は、あなたのところへ。二冊目は、川港の母へ。母からの返事には、町じゅうに自慢して回って足が痛い、とだけあった。自慢のたねになったのなら、育てた甲斐はあったということにしてもらう。夜、自分の名の入った表紙をあらためて眺めた。入団五年目の若輩に、これを書かせた旅団というところの向こう見ずを、私は生涯かけて返していくことになるのだと思う。
王国歴1656年 青葉の月
書き上げの前の、最後の旅。止まり木の村をもう一度だけ訪ねた。峠の市で、安物の風車を土産に買った。羽根が回るだけの、子供だましである。村で、センという名の子が、それをいたく気に入った。息を吹きかけては回し、回るたびに、囁くような声で笑う。風の民の子は、笑い声まで風に遠慮するのである。その笑いを見て、章の結びが決まった。帰りの峠で、荷は軽く、帳面は重かった。よい旅の荷は、いつもそういう配分になる。
王国歴1656年 花冠の月
結びが書けずに、村へ行った。どう締めるべきか、あなたはもう知っているのだろうと水を向けたら、あなたは考えるふりだけして、首を振った。知っているけれど、教えない。あなたが自分で書いたものを、わたしは思い出しているんだから、と。ずるいのはどちらだ、と言ったら、あなたは笑って、帰りの船に焼き菓子を一つ持たせた。船の上で、腹が立つやら可笑しいやらのまま、気がついたら結びの文が頭の中に並んでいた。村に行く前には、影も形もなかった文である。教えないと言いながら、あなたはいつも、こういう手で教える。
王国歴1656年 芽吹きの月
冬営地に居残って、書いている。書いては燃やし、燃やしては書く。うまく書こうとするたびに、文が嘘の匂いを立てる。見かねた綴り方の親方が、私の反故の山を一瞥して言った。飾るな。見た順に、見たとおりに書け。おまえの帳面は、もともとそう書いてある。帳面のとおりでは本にならないと思っていたのだが、試しに帳面をそのまま清書してみたら、三日分がするりと進んだ。本というものは、書くものではなく、書いてあったものを見つけるものなのかもしれない。
王国歴1655年 刈入れの月
クローネ殿に呼ばれた。幕に入ると、前置きなしに言われた。七つの民の本を書きなさい。あなたが書くの。初めての驚きが冷めないうちに書け、というのが理由のすべてだった。恐れ多い、と言いかけたら、遮られた。恐れ多いと思える者にしか、頼まない、と。幕を出てから、足が震えているのに気づいた。五年目の若輩である。書庫には私より二十年古い帳面書きが何人もいる。その晩、綴り方の親方のところへ相談に行ったら、親方は酒を注いで、ひとことだけ言った。妬む者の分まで、いいものを書け。それが礼だ。
王国歴1655年 青葉の月
川辺の民の村から、帰ってきた。使節の記録は使節の帳面に書いた。章にもいつか書くだろう。だから、ここには、どこにも書かないことを書く。水の上の神殿で、あなたの最後の日の話を聞いた晩、私は船着きの宿で一睡もできなかった。十六年前に川辺で泣かれた訳が、やっと分かって、分かったことを、少しだけ後悔した。明け方、宿の親父に、この辺りでいちばんの焼き菓子はどこかと訊いた。対岸の町の、胡桃の菓子の店を教わった。帰りの船を待つあいだに一箱買って、村へ引き返して、桟橋のあなたに渡した。これからは会うたびに何か持ってくる、と言ったら、あなたは、知っている、と言って笑った。長い付き合いの、これが貢ぎ初めである。ついでに白状すれば、あの店の胡桃の菓子は、角が少し苦い。それでもあなたが喜んだので、以後、あの店と決めている。
王国歴1655年 花冠の月
春の使節に、川辺の民の村が入っている。聞き取りの供を志願して、通った。差配の姉さんに、なぜ行きたいのかと問われて、正直に答えた。七つの年、川辺で、初めて会った婆さまに泣かれたことがある。あの村の民だと、あとから知った。訳を知りたくて、旅団に入ったようなものです、と。姉さんは笑いもせず、うなずいて、それは聞き取りの供ではなく、あなたの用ね。いいわ、両方なさい、と言った。旅団というところは、こういう了見の広さでできている。出立までひと月。子供のころから数えて、十六年待った。あとひと月が、いちばん長い。
王国歴1654年 白霜の月
城塞の町への道行きのことは、使節の帳面に書いた。ここには、書かなかったことを書く。私は三日のあいだ、ずっと怖かった。夕暮れごとに現れる黒い姿の隣を、務めだからと歩きながら、足の裏だけが正直に冷えていた。怖さが消えたのは、焼け跡で最初の灯が置かれた時である。灯を置き、帽子のつばを下げて、一礼。それを見た瞬間、隣にいるのが何であれ、これは弔いの隣なのだと分かって、怖さの置き場がなくなった。帰り道、古株の兄さんが言った。怖くていい。怖くなくなった奴から、あの方たちに失礼になる。この言葉ごと、生涯の帳面に入れておく。
王国歴1654年 日盛りの月
桟橋から落ちた。二度目である。今度は帳面ごと落ちた。乾かすのに三日かかり、干してあるあいだ、書くものがなくて手持ち無沙汰の三日だった。引き上げてくれたのは、通りがかりの渡り方の姉さんである。片腕で私を、もう片腕で帳面を掴んで、両方いっぺんに引き上げた。どちらが大事かと訊かれて、両方です、と答えたら、鼻で笑って、いい返事、と言われた。名を訊きそびれた。いつか、礼を言わねばならない。
王国歴1653年 実りの月
白状する。この半月、夕暮れの辻に通い詰めた。あの黒帽子の民に、自分の力で会えないものかと思ったのである。三十の夕暮れを立ち尽くして、成果は、蚊に食われた痕と、辻の婆さまに毎夕「精が出るね」と声をかけられる仲になったことだけだった。古株の兄さんに白状したら、腹を抱えて笑われた。会おうとして会える民なら、旅団はいらない。呼ばれる側に、まずなれ、と。呼ばれる側になるには、どうしたら、と訊いたら、兄さんは湯呑みを置いて、まじめに答えてくれた。今日の仕事を、明日も裏切らないこと。それだけだ、と。
王国歴1652年 日盛りの月
初めての使節の供。仕事は、荷運びと、峠の祠の石積みだった。雨の中、崩れた祠に石を積みながら、正直に思った。古臭い習わしだ、と。誰のための何なのか、訊いても、先達は、いずれ分かる、としか言わない。いずれとはいつか。分からないまま、言われたとおりに積んだ。手だけは抜かなかったことを、この帳面が証人になってくれるだろう。いつか意味が分かる日が来たら、この頁に免じて、今日の私を笑わないでやってほしい。
王国歴1652年 芽吹きの月
綴り方に配された。親方の最初の教えは、筆の持ち方でも綴じ方でもなかった。帳面は嘘をつかない。つくのは、書く手だ。だから手を疑え。書いた日の自分を、翌朝の自分に検めさせろ、と。以来、朝いちばんに前日の頁を読み返すのが日課になった。翌朝に読んで恥ずかしくないように書く。ただそれだけのことで、字も、心持ちも、少しずつ変わる。この日課は、たぶん一生続く。
王国歴1651年 聖燭の月
初めての冬営地。石蔵というものを、初めて見た。百五十年ぶんの帳面が、天井まで眠っている。手すきの者は写しを手伝えというので手を挙げたら、これが、性に合った。古い帳面の字を、一字ずつ新しい紙に移していると、百年前の団員の旅を、隣で歩いているような気になる。夢中で写して、蝋燭を二本使い切って注意された。家が恋しくないかと同輩に訊かれたが、正直、考える暇がなかった。ここには読むものが、一生ぶんある。
王国歴1651年 実りの月
旅団の暮らし、三月目。足の豆は三代目になり、荷の結びは二割早くなった。夜、焚き火の端で、古株たちが土地の唄を歌う。知らない唄ばかりで、知らないまま聞いていると、ここが世界のどの辺りなのか分からなくなる。それが、存外、悪くない。家の川の音を思い出すのは、決まって寝る前である。恋しいというのとは少し違う。あの川に、報告したいことが増えていく、という感じである。
王国歴1651年 花冠の月
吹き流れる知恵の収集旅団に、入団した。十九である。川港の町を出る朝、母は焼き餅を持たせてくれた。荷の中身は、着替えと、餅と、真新しい帳面が一冊。母隊に着いた晩、寝る前に、その帳面の最初の頁を開いた。何か書いておくべきだと思ったが、旅の心得も、志も、うまく書けなかった。結局、書いたのは、これである。憶えているうちに、書いておく。七つの年、川辺で、知らない婆さまに、初めて会ったのに泣かれたことがある。あのひとは、なぜ泣いたのだろう。訳を知りたい。知ったら、この帳面に書く。




