あなたが知っていた日々 王国歴1672年~1668年
王国歴1672年 聖燭の月
四十になった年の締め。冬営地は雪で、家の中では、リノが私の頭を検分している。白いのを見つけるたびに小銭をやる約束にしたのが失敗だった。今夜だけで七本。財布が保たない。セナは笑って、来年から値を下げなさい、と言う。あなたのところに行くと、このごろは並んで歩いても、私のほうが年上に見られる。出会ったとき、あなたは老婆で、私は七つだった。どこかですれ違って、追い越したのである。いつだったのか、はっきりした日付は思い出せない。こういうことこそ帳面につけておくべきだったのに、人は、あとから大事になることを、その日には書かないものだ。
王国歴1672年 実りの月
山の書庫より報せ。古い司書どのが、満ちられたという。二十年前、私の結びを肌に留めてくれた方の、そのまた師にあたる方である。弔いに、と思って山に登ったら、弔いというものはなかった。満ちるというのは、肌の余白が尽きるまで書き終えた、ということだそうで、彼らにとっては嘆きの日ではない。静かな祝いに近い。司書どのの肌は丁重に整えられ、書庫のいちばん奥の間に、一冊の書として納められた。人がひとり、本になったのである。案内の若いのが言った。あの方は、これから何百年も読まれます。羨ましい、と思わず口に出したら、あなたはまだ余白だらけでしょう、と返された。山の言葉は、ときどき厳しい。
王国歴1672年 青葉の月
カノールシアナに赴く。数年に一度の律の見直しが始まり、ひと月のあいだ記録の席をもらった。白の街は、この月だけ空気が張りつめる。説い立ての声は静かで、反する声も静かで、静かなまま、少しずつ言葉が削られていく。今年直ったもののひとつは、市の秤の法だった。百年前の升の寸法が、いまの升と噛み合わなくなっていたのだという。たった一寸の直しに、白の方々は十日をかけた。その十日の問答を、私は幸運にも隅で聞いた。法というものは石で出来ていると思っていたが、違った。あれは生き物で、手入れをする者がいるから生きている。ひと月書き続けて、筆が三本駄目になった。惜しくない三本だった。
王国歴1671年 白霜の月
湯の内界。初めての、家族そろっての旅である。留守方のセナは、考えてみれば旅団に二十年いて、旅というものをしたことがなかった。門をくぐるなり、リノは湯屋の数を数えはじめ、テオは湯に泳ぎに行こうとして止められた。湯は泳ぐものではないと教えるのに、丸一日かかった。夕餉はユキシタ菜の包み煮。芯まで甘くなった菜の葉の中に、ほろりと崩れる肉が包んである。セナは三日目の朝、湯につかりながら、ふと言った。あなたはいつも、こういうところを一人で歩いていたのね。羨ましがるでも責めるでもない言い方だったが、私はしばらく返事ができなかった。帰りの荷に、干したユキシタ菜をひと束。冬営地で煮たが、あの味にはならなかった。湯の味だったのかもしれない。
王国歴1671年 日盛りの月
渡し舟が、流れの中ほどで傾いた。荷ごと放り出されて、岸まで泳ぐはめになった。船頭どのが真っ先に掴んで引き上げてくれたのが、私ではなく私の胴巻きだったのは、あれに帳面が入っていると知っていたからである。命の次に帳面、という扱いには、慣れている。宿の屋根に頁を一枚ずつ並べて干しながら数えたら、生涯で水に落ちるのはこれで三度目だった。桟橋から二度、川で一度。字は滲んだが、読めなくなった頁は二枚で済んだ。私の生涯は、濡れた帳面を乾かしてばかりである。乾かしながら思った。あなたはこの日のことも、思い出したことがあるのだろうか。あるなら、笑うだけでなく、前もって止めてくれてもいいのである。
王国歴1671年 花冠の月
聞き取りの日に村へ行き合わせた。役人どのの帳面が閉じられたあと、あなたは、実はもうひとつある、と言った。村の周りのことではない。ずっと、ずっと古いこと。夜明けの川を、水色の衣の方が、流れに逆らって上っていく。水の上を、歩いて。川じゅうの魚がそのあとに従って、岸で誰かがそれを見送っている。見送っているのが誰かは、分からない。ただ、その誰かの胸の中が、悲しいのに満ち足りている。それだけ、と。あなたはそれきり黙って、それから少し困った顔で言った。古い思い出しは、借り物の着物みたいなの。わたしのなのに、わたしのじゃない。私はそれを、旅団の門外不出の帳面に書き取った。書きながら、手が少し震えた。神代を書き取る日が自分に来るとは思っていなかったのである。帰り道、川がいつもより古いものに見えた。
王国歴1670年 白霜の月
斜面の集落へ、冬の届け物。巫女どのの計らいで、炉をひとつ、拝ませてもらった。掌の炉である。岩塊のような御仁が、両の掌を椀のかたちに合わせて、その中で銀色のものがとろりと光っていた。巫女どのが言うには、いま五十年目の途中だそうだ。あと五十年で、これは器になる。何の器かは、出来てみないと本人にも分からないらしい。五十年目の途中、という言い方が、帰りの山道でずっと頭に残った。私の帳面も、書き終わるまで何になるか分からないという点だけは、あの炉と同じである。違うのは、向こうには百年あるということだ。
王国歴1670年 実りの月
東の谷へ。三年前の山崩れで、村がふたつ死に絶えた谷である。ジーナリの一団が移り住むと聞き、記録の供を仰せつかった。彼女らは歌いながら谷に入り、歌いながら土を起こした。骨の出た畑も、埋まった井戸も、嫌わなかった。ひと月の記録の最後の朝、谷の奥に、見たことのない若い木が一本立っていた。前の日まで、あの場所には一団の最年長の姉が立っていた。案内の姉妹は多くを語らず、ただ、いちばん年かさのものが、いちばん長くこの谷にいることにしたのよ、と言った。谷を出るとき振り返ったら、木のまわりだけ、緑の色が濃かった。この谷は、もう死んでいない。
王国歴1670年 青葉の月
テオ、初めて文字を書く。見事な鏡文字だった。直すのが、少し惜しい。
王国歴1669年 刈入れの月
ノーラ殿に呼ばれた。川筋の聞き取りの供を、この先はおまえに固定する、との仰せである。理由を訊いたら、私の帳面を一冊、無言で開かれた。去年の海辺の村の頁である。妹御の語りの、言い淀みと言い直しが、そのまま書き取ってあった。あなたの帳面は、声が残る、とノーラ殿は言った。思い出しというのはね、言い当てた中身より、言い淀んだところに値打ちがあるの。迷いながら語られたことは、まだ揺れているということ。揺れているものは、こちらの動き方で変わるかもしれないということよ。三十年この道の人の言葉である。私はその晩、自分の帳面の綴じ紐を、ノーラ殿と同じ結び方に替えた。
王国歴1669年 日盛りの月
夜の川下り。霧が出て、提灯の灯が三尺先で溶ける。舵を取る老船頭どのは、灯を消せと言った。目で下ると迷う。耳で下るのだ、と。それから二刻、船頭どのは水音だけで瀬と淵を言い当て、岩を三つ躱し、対岸の桟橋にぴたりと舟を着けた。仕舞いに一言、五十年聞いていれば、川は喋る、と。あなたの民は川の明日を思い出し、この御仁は川の今夜を聞き分ける。川端に生きる者は、みなどこかで川と話をしている。旅団の帳面は、その話の書き取りにすぎないのだろう。霧の礼に酒を一本置いて降りたら、次も乗れ、あんたは船で静かにできる客だ、と言われた。褒め言葉として頂いておく。
王国歴1669年 花冠の月
セナが、一度だけ、と言って村参りについて来た。二十年連れ添って初めてである。桟橋であなたはセナの顔を見て、いらっしゃい、思い出していたとおりの人ね、と言い、セナはセナで、初めて会う気がしません、と返した。それからの半日、二人は私を置き去りにして喋り続けた。何の話だったのか、どちらに訊いても教えてくれない。帰りの船でセナが言ったことだけ、書いておく。あの人の前では、隠しごとは諦めなさい。それから、少し間を置いて。あなたが旅先で何を食べても怒らないことにするわ。あの人が、あなたの土産話を楽しみにしているんですもの。夫婦の帳面に、新しい法がひとつ増えた日である。
王国歴1668年 白霜の月
東の街道筋の村で熱病が出て、鎮まったあと、旅団に声がかかった。夕暮れの辻に、黒い帽子がひとつ立っていたからである。二度目の供だった。口上を述べ、門を招き、あとはただ、後ろを歩いた。灯がひとつずつ置かれていくのを、今度は取り乱さずに見ていられた。慣れたのではない。あの灯が何のためにあるかを、前よりよく知っているだけである。別れぎわ、帽子のつばに手が添えられ、低い声がひとつ。助かりました。十四年前とひとつも違わない言葉だった。彼らは変わらない。変わったのは、こちらの背丈と、見送りかたである。
王国歴1668年 実りの月
巡りの途中、冬営地から早馬。テオが熱を出した、と聞いて、三日の道を二日で戻った。着いたときには熱は引いていて、当のテオは寝床で干し棗をかじっていた。セナに、なぜもっと早く報せなかったと言いかけて、やめた。報せは、峠がいちばん険しい日を避けて出されていた。あれが留守方の仕事である。出ている者を、殺さないこと。その晩、寝顔をずいぶん長く見た。旅から帰るたび、子らは知らない言葉を覚えている。私はそれを、あとから帳面で追いかける親である。この暮らしを選んだのは私だが、選んだ重さは、こういう夜にまとめて届く。
王国歴1668年 芽吹きの月
年の初めの村参り。桟橋で、あなたは私の顔をしばらく眺めて、それから、見つけた、と言った。何をかと思えば、こめかみの白いのを一本、指さしている。ずいぶん嬉しそうなので、人の白髪がそんなに面白いかと訊いたら、あなたは首を振った。わたしの知っているあなたは、白髪の交じった人なの。いちばん古くから知っているあなたが、そうなの。やっと、追いついてきた。そう言って、あなたは満足そうに笑った。三十六で見つかった一本を、あなたがそんなふうに言うのなら、抜かずにおくことにする。あなたの知っている私に、私はこれから、一本ずつ近づいていくらしい。




