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あなたが知っていた日々 王国歴1677年~1673年

王国歴1677年 聖燭の月


 冬営地に、王都から使いが来た。この先、ターリャの聞き取りの写しを、年にひとまとめ、王都の書庫に納めることが定まったという。写しを作る役は旅団に頼みたい、ついては費えはあちら持ち、とのことである。読み上げを聞きながら、隣のノーラ殿が小さく言った。三十年、王都はうちの帳面を紙屑だと思っていたのよ。紙屑に頭を下げる日が来たわね。晩、セナが祝いに濃い茶を淹れてくれた。うちの人は国と川を綴じたのね、と言うから、綴じたのは書庫の紐で、結んだのは川の妹たちだと答えた。それはそうと、と帳面を差し出される。今年の費えの締めである。国は動かせても、留守方は動かせない。


王国歴1677年 白霜の月


 この秋、街道で黒い帽子をひとりも見なかった。書くことは、それで足りている。


王国歴1677年 刈入れの月


 穂が、黒くなった。妹たちの言ったとおりの年の、言ったとおりの月に。種を替えなかった土地では、田が立ったまま炭のようになり、替えた土地では、内の麦が何事もなく揺れている。境の畦一本を挟んで、黒と金とがくっきり分かれている眺めは、正直なところ、恐ろしかった。あれが国じゅうだったかもしれないのである。王都からは早馬が来て、残りの内の麦はどこで手に入るか、と訊いてきた。去年、対岸の天気の話とあしらわれた身としては、言いたいことが千ほどあったが、書いて渡したのは麦倉の在り処だけである。言い当てたのは私ではない。三つの村の、会ったこともない三人の妹たちである。私はそれを運んだだけだ。もっとも、運ぶ者がいなければ、紙は村から出ないのだということも、この二年で骨身にしみた。


王国歴1677年 青葉の月


 リノが、旅団に入ると言い出した。十五である。母親の帳面仕事を手伝いながら言うので、てっきり留守方かと思えば、渡り方がいいと言う。父の見た民を、自分の目で見たいのだそうだ。セナは反対するかと思ったが、しなかった。留守方は、出て行く者の帰る場所を作る役よ。あんたが出て行くなら、帰る場所はわたしが作る、と言っただけだった。夜、リノがこっそり打ち明けた。去年の夏、ユネさまが教えてくれたの。旅団の外套を着たわたしを、思い出したことがあるって。あなたは、私の娘の行く先まで知っていて、また黙っていたわけである。せめて外套の色くらい教えてくれてもよかったのに、と手紙に書いたら、返事には一言、自分で選ぶ楽しみを取らないの、とあった。


王国歴1676年 白霜の月


 種替えの約定、これで十一家。今日の殿は手強かった。齢七十の頑固な御仁で、紙切れ一枚で先祖代々の種を捨てられるか、と机を叩かれた。私は旅団の写しを一冊だけ出した。殿の祖父君の代、この領の橋が落ちる日を言い当てたのは、川下の村の妹御である。祖父君はそれを容れて、市の立つ日を替えた。橋は市のない朝に落ちて、死んだ者はいなかった。殿は写しを長いこと読み、読み終えてから、じいさまの自慢話は本当だったか、とだけ言って、判を捺した。帰り道は雨。荷物の中の約定の束だけは、油布で三重に包んである。膝より大事なものが増えると、旅の荷の包み方が変わる。


王国歴1676年 刈入れの月


 王都の自治区へ、白の方をお訪ねした。国が動かないなら、動かない理由を法に訊くほかないと思ったのである。白の方は私の綴りをひととおり読み、静かに言われた。法は、まだ起きていないことに手が届かない。あなたが持ってきたのは、明日の話である。明日を扱いたければ、約定になさい。約定は、結んだ日から今日の話になる。目の覚める思いだった。国全体をひとつ動かすのではなく、領主ひとりひとりと、種を替える約定を結んでいけばいい。旅団は百五十年、橋の渡し賃を約定で生きてきた団である。約定なら、こちらの土俵だ。帰りぎわ、白の方は付け加えられた。よい約定は、あとから法になる。急ぎなさい、種を蒔く前に。


王国歴1676年 日盛りの月


 王都。穀の司の役所で三日待たされ、四日目に会えたのは、私より若い書き役がひとり。三つの村の突き合わせを差し出すと、めくりもせずに言われた。遠国の川端の話であろう、王都には王都の庫がある、と。対岸の天気の話を聞かされた、という顔をしていた。宿に戻って、この頁を書いている。怒りで書く字は汚い。今日の字は、生涯でいちばん汚い。ただ、ひとつだけ書き留めておく。あの書き役が愚かなのではない。会ったこともない川辺の民の思い出しに国の種を賭けろという話が、帳面ごしにしか通じないのだとしたら、通じる形にできていない私の負けである。帰ったら、綴じ方から考え直す。


王国歴1676年 芽吹きの月


 雪解けの石蔵で、秋の巡りの綴じ直しをした。手伝いに来たセナが、頁を繰る手を止めて言った。ねえ、この穂、三度目よ。並べてみると、そのとおりだった。海辺の村の妹御が泣いた黒い穂。東の川筋の帳面にある、立ったまま枯れる田。南の河口の村の、内の麦だけが残る、という短い一行。川筋も違えば、聞き取った年も少しずつずれている。だが、同じ年のことを言っている。三人の妹が、別々の岸から、同じ一枚の絵を破って拾ったのである。継ぎ合わせた絵の中では、来年の実りの月、国じゅうの穂が黒い。継ぎ合わせられたのは、写しがぜんぶこの蔵にあったからだ。セナは言った。留守方をあなどらないことね。どこに何が綴じてあるか、知っているのはわたしたちよ。一生あなどりませんと誓って、その晩から、王都に持って行く綴りを作りはじめた。


王国歴1675年 白霜の月


 海辺の村の聞き取りで、若い妹御がひとつ、新しい思い出しを語った。語りながら、途中から泣いた。一面の黒い穂だという。どこの田かは分からない。いつかも分からない。ただ、穂が黒くて、市から音が消えて、それから、道々に黒い帽子が立っている、と。村の姉たちも、これは村の周りのことではない気がする、大きすぎる、と言う。帳面に書き取り、いつもどおり領へ写しを送ったが、帰りの船でも、黒い帽子のくだりが頭を離れなかった。飢えというものは、水と違って、堤を切って来ない。どこから来るのか、まだ誰も知らない。分からないまま、書いたものだけ持って帰る。こういう晩の帳面は、荷物の中でいやに重い。


王国歴1675年 実りの月


 ダーナヘルからの帰り。奉納の蜂蜜の礼にと、姉妹たちが小さな壺をひとつ持たせてくれた。頭の花を揺らして、これはあなたの巣の子たちに、と言う。巣というのはうちのことである。冬営地に着いて壺を開けたら、テオが匙を握って先に並んでいた。リノは一匙で止めたが、テオは止まらず、セナに壺ごと取り上げられた。取り上げながらセナがひと匙なめて、黙ってもうひと匙なめたのを、私は見た。帳面には書かないでおく。ここには書く。


王国歴1675年 青葉の月


 山の斜面の古老を訪ねた。例によって、挨拶に半日、用向きに半日である。膝を揃えて座り、雲が三度かたちを変えるあいだ待って、頂いた言葉はひとつ、良い鎚音、だった。この春の炉の調子のことだと、巫女どのが訳してくれた。帰りに、小指の先ほどの銀のかけらを持たされた。子に、と言う。テオに渡すと、飛び上がって喜び、その晩から枕の下に敷いて寝ている。数日して、竈の前で石をかじろうとしているのをセナに見つかって、たいそう叱られた。ダグレンさまは百年かけて食べるのだと教えたら、では百年かける、と言い返したそうである。十一の理屈は、ときどき民の理屈より堂々としている。


王国歴1674年 実りの月


 子供たちを、初めてあなたの村に連れて行った。リノは十二、テオは十である。桟橋に立ったあなたは二十歳過ぎの姿で、こちらが名乗るより先に、リノ、テオ、いらっしゃい、と呼んだ。二人が目を丸くしているうちに、あなたはリノの髪を編み、テオを舟に乗せ、夕方には三人とも、十年来の友のようになっていた。帰りぎわ、テオが例の調子で訊いた。父さまの友だちなのに、なんで姉さまみたいなの。あなたは笑って、わたしは逆さまに歩いているのよ、と答えた。テオはその意味を考えながら、桟橋を後ろ向きに歩いて、川に落ちかけた。あなたは私にだけ、小さく言った。二人とも、思い出していた顔のとおり。あなたが私の子らの顔を思い出したのは、私がまだ独り身のころだという。私の知らない私の暮らしを、あなたは先に知っていて、いつもどおり、黙っていてくれたのだった。


王国歴1674年 花冠の月


 止まり木へ、春の使節の供。峠にかかる日は朝から風が荒れていたのに、村の柵をくぐったとたん、ぴたりと行儀よくなった。あの静けさは、何度浴びても背筋が伸びる。軒先に、見覚えのある風車が回っていた。十八年前、私が土産に持って行った、あの安物の風車である。羽根は替えながら、ずっと回してあるのだという。持ち主は背の高い大人になっていて、私の顔を見ると、笑いながら口の前に指を立てた。風がうるさがるから、再会の挨拶は小声で、ということらしい。小声で十八年ぶんの話をした。別れぎわ、彼らの流儀で、囁きをひとつ耳に入れてくれた。よい旅を、また来る春に。耳の奥で、小さな稲妻がひとつ、はぜた気がした。


王国歴1673年 白霜の月


 冬営地。年の締めで、セナに費えの帳面を検められた。焼き菓子、と読み上げて、こちらを見る。町ごとに一軒ずつ試しているのだから仕方がない。川辺の方への貢ぎ物ね、と言うので、そうだと答えたら、それなら仕方がない、いちばん良いのを持って行きなさい、と胡桃のを一箱つけてくれた。うちの家では、あなたはそういう扱いである。夜、リノが私の古い手帳を読みたがった。桟橋から二度落ちた話のところで、母娘そろって声を上げて笑っていた。人の若い日のしくじりというものは、家族への何よりの土産らしい。


王国歴1673年 実りの月


 山の書庫へ、拾い方の綴りを納めに行った。銘肌の間で、案内の若いのが、ひとつ見せてくれた。ある姉の腕に、『七つの隣人』を読んだ誰かの喜びが、奉納されて残っているという。読み手の名は残らない。ただ、読み終えた日の胸の熱だけが、肌の上に留めてある。指を触れさせてもらう勇気は、出なかった。自分の書いたものが人の胸で立てた熱を、書いた本人が確かめるのは、何かの掟に触れる気がしたのである。山を下りる道すがら、ずっと考えていた。私はあの本を、あなたに会うために書いたようなものだ。その熱が、知らない誰かの肌で、まだ温かい。書くという仕事は、ときどき、身に余る。


王国歴1673年 花冠の月


 村参り。あなたは二十二、三の姿で、舟の艫で足を組み、私の話を聞きたがった。この日はなぜか、子供の話ばかり訊かれた。リノの得意なこと、テオの困ったところ、セナの茶の濃さ。ひとしきり答えると、あなたは満足そうにうなずいて、言った。次は、連れてきて。約束して帰った。帰りの船で、少し不思議に思ったのを覚えている。あなたは会う前から二人を知っているのに、なぜ急かすのだろう、と。いまなら分かる。あなたの残りの年月は、あなただけが知っていた。会えるものには、会えるうちに。あなたはあのころから、自分の暦で、順に手を打っていたのである。



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