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あなたが知っていた日々 王国歴1688年~1683年

王国歴1688年 実りの月


 あなたが還って、暦がひとまわりした。村では祝いをするというので、行った。ターリャは、還った日を悲しまない。長い巡りを泳ぎきって流れに帰った日だから、祝うのだという。姉たちは歌い、幼い子らは花を流し、私はひとり、祝いの輪の端で立ち尽くしていた。年かさの姉が隣に来て、言った。前にしか歩けない人には、つらい日でしょう。無理に祝わなくていいのよ。あなたの分も、わたしたちが祝うから。情けない話だが、それでようやく泣けた。


王国歴1688年 花冠の月


 村へ行った。見送りのあと初めてである。桟橋の袂の家で、生まれたばかりの妹が匙の持ち方を教わっていた。白髪の姉たちに囲まれて、匙を握っては落とし、声を上げて笑う。三十年余り前、私が本に書いたのと寸分違わぬ光景だった。あの子は、あなたが水に還った日に、あの像の下から生まれた子だ。あなたではない。それは分かっている。分かっているが、あの子が笑うたび、胸の中で何かがきしむ。姉たちは私に白湯を出し、何も訊かなかった。帰りの船で、持っていった焼き菓子を、初めて村に置いてきたことに気づいた。


王国歴1687年 白霜の月


 村から戻って、半月になる。今日、ようやく筆を持った。冬営地の家は、何も変わらない顔で私を迎えた。セナは何も訊かず、夕餉のあとに茶を淹れた。口をつけて、手が止まった。いつもの私の濃さではなかった。あの人の濃さにしておいたわ、とセナが言った。それで、村で堪えた分まで、まとめて泣いた。巡りから戻ったリノは、黙って卓に焼き菓子の箱を置いた。癖で買ってしまったのだという。胡桃のである。テオは何も言わず、長年きしんでいた戸の蝶番を直していった。家というものは、こういう晩のためにあるのだと、五十五になって初めて知った。あなたにこの茶の話をしたら、なんと言うだろう。濃さが合っている、とだけ言う気がする。


王国歴1687年 実りの月


 この頁だけは、白状してから書く。あの日の手帳は、白紙である。一年経った今の手で、書いている。


 朝から、風のない日だった。姉たちに呼ばれて村へ行くと、あなたはもう、腕の中に収まるほど小さくなっていた。抱き上げると、葦の束ほどの重さもなかった。桟橋を、ゆっくり歩いた。像の下まで来ると、あなたは目を開けて、私を見た。体は生まれたての赤子で、言葉はとうに失われていたのに、その目だけは、最後まで私を知っている目だった。あなたは、笑った。私はあなたの額に、これまで言いそびれたぶんの礼を全部言って、水に、還した。水音は、ひとつだけだった。夕方、像の下から新しい子が生まれて、村に産声のような笑い声が上がった。私は日が暮れるまで桟橋にいて、何も書かずに帰った。四十八年で、いちばん長い一日だった。


王国歴1687年 日盛りの月


 このごろのあなたは、一日のほとんどを眠って過ごす。姉たちが代わる代わる添い寝をして、私は枕辺で手帳を書いたり、書かなかったりする。もう言葉はない。覚えたことは、みんな流れていった。それでも、私のことだけは、はっきりと分かるらしい。今日も目を開けて、名を呼ぶ代わりに、私の袖をつかんで、にこりとした。姉が教えてくれた。覚えたことは消えても、思い出したことは消えないの。この子の思い出しは、ほとんどあなたのことだから、と。帰り道、それがどれほどのことか考えて、川べりで長いこと座っていた。


王国歴1686年 聖燭の月


 雪の前に、と思って船を出したら、桟橋にあなたが立っていた。文も出していないのに、湯気の立つ茶がもう二つ、置いてあった。あなたはこういうことをする。私が来ることを、思い出すからだ。囲炉裏で、昔話をした。滝の魚の話、開掌の日の話、あなたが私の帽子を川に飛ばした話。話の途中で、あなたは何度も私を直した。違うわ、帽子は二度飛んだのよ。二度目はあなたが自分で落としたの。調べたら、そのとおりだった。忘れていたのは、私のほうだった。あなたの思い出しは、色褪せない。人の覚えは、褪せる。五十年近く前のあの日を、いまではあなたのほうが、よく覚えている。


王国歴1686年 青葉の月


 昼、繕いものの手が止まった。あなたは、網の結び方が分からなくなっていた。姉たちは騒がない。覚えたことから、順に流れていくのよ、と言う。あなたは少し悔しそうな顔をして、それから、台所で茶を淹れていた私に言った。でも、あなたの茶の濃さは間違えないわよ。おぼえたんじゃなくて、思い出したことだもの。実際、その日あなたの淹れた茶は、いつもの濃さだった。あなたの中で、世界は少しずつ薄れていく。そのなかで、私のことだけが、妙にくっきりと残っていく。ありがたいのか、申し訳ないのか、いまだに分からない。


王国歴1685年 白霜の月


 村に着くと、あなたは桟橋を走ってきた。十歳ほどの姿になった。走るのが速くなるのと引き換えに、と考えかけて、やめる。年かさの姉に呼ばれて、囲炉裏の隅で話をした。そろそろ、覚えたことが失せはじめます。長い付き合いの方には、先に伝えることにしているの、と。それから姉は続けた。ただ、思い出したことは、失せません。この子の思い出しは、ほとんどあなたのことです。だから最後まで、あなたのことだけは、間違えません。安心なさいと言われたのか、覚悟なさいと言われたのか、たぶん両方だったのだと思う。帰り道の橋を、渡った覚えがないのに渡り終えていた。


王国歴1685年 実りの月


 初めて、あなたから便りが来た。中身は他愛ない。胡桃の菓子の店が代替わりしたこと、今年は川の瀬が浅いこと。そして最後に一行、近いうちに、また来て。なるべく、たくさん。珍しいこともあるものだ、と当時の手帳には書いてある。四十六年の付き合いで、あなたが私を呼んだことは、一度もなかった。呼ぶ必要がないからだ。私がいつ来るかを、あなたはいつだって思い出せた。それなのに、呼んだ。私は喜んで、月に一度だった村参りを、翌月からふた月に三度にした。理由は深く考えなかった。たまには呼びたくもなるのだろう、くらいに思っていた。


 ここからは、いまの手で書き足す。この本を書くために古い文箱を開けて、あの便りを読み返して、ようやく分かった。あれは、あなたの最後の二年の入り口だったのだ。呼ぶ必要のない人が、呼んだ。それがどういうことか、あのとき気づくべきだった。そうとは言わずに、あなたはたった一行で、残りの時間を私にくれていた。四十八年で、あなたが私にねだったのは、あの一度きりである。気づくのに、三年かかった。あなたの民との付き合いで、遅いという言葉に意味がないことは知っている。知ってはいるが、この一度だけは、いまでも悔しい。


王国歴1685年 花冠の月


 笑った話も書いておく。こういう日のほうが、ずっと多かったのだから。対岸の町に新しい菓子屋ができたので、買って行った。あなたは一口かじって、うんとうなずき、二口目で眉を寄せ、三口目を私の皿に載せた。甘さが余っている、とのことである。三十年、諸国の菓子を貢ぎ続けた身として言うが、あなたの舌より厳しい目利きを、私は綴り方の書庫でも見たことがない。結局、いつもの店の胡桃の菓子がいちばんだそうだ。先代の代から、角は苦くなくなったのに、あなたはいまも角を残す。


王国歴1684年 白霜の月


 グラナガダンより報せ。ミレイア・ソル・グランヴェ殿、みまかる。旅先の宿で、枕元に帳面を開いたままだったという。あの方らしい仕舞い方である。遺言により、書き付けの一切は旅団の石蔵に納められることになった。荷を検めていて、薄い綴りを一冊見つけた。表紙に、あの方の字で、願いごとの棚、とある。中身は、いつか冬の晩に聞かせてもらった、白い顔の爺さまと賽の話だった。最後の行に、こうあった。見たことの棚には置けない。聞いたことでもない。それでも捨てられないから、ここに置く。私はその綴りを、石蔵のいちばん奥の、良い棚に納めた。棚の札には、あの方の流儀どおりの名を付けた。あなたに一度、会わせてみたかった人である。会っていたら、二人して、私の知らない話ばかりしたに違いない。


王国歴1684年 刈入れの月


 聞き取りの供に、渡り方の新入りを連れて行った。二十歳そこそこの、筆の立つ子だ。村に入るなり、若い姉のひとりが、その子の顔を見て、ぽろぽろ泣き出した。新入りは棒立ちになり、私を振り返った。私は笑いをかみ殺すのに苦労した。四十五年前、川辺で泣かれた七つの子供が、いまは泣かれた子をなだめる側にいる。船の上で、あの涙のわけは、と訊かれたので、答えた。いつか分かる。分かった日に、もう一度話そう。あなたはそのやりとりごと、とうに思い出していたのだろうか。


王国歴1683年 芽吹きの月


 年の初めの村参り。あなたは十二、三の姿で、桟橋の先で手を振っていた。会うたびに、あなたは若くなる。今年、初めて逆算というものをしてしまった。あなたの姿の幼さから、残りの年月を。数え終える前にやめたが、やめたことごと、覚えてしまった。帰りぎわ、あなたは言った。来年も、その次も、来るくせに。そのとおりである。あなたが知っているのだから、私は行くほかない。行けるうちは、行く。数えるのは、もうやめにする。


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